小説(幻想モノ)

2008/03/31

メロディが鳴っている

 突然、懐かしいメロディが聴こえてきた。
 家の近くにある用水に架かる小さな橋を渡っていたときだった。

 引っ越してきて、家の周辺を一人で散歩するのは初めてだった。
 何日か前、誰かと一緒にこの橋も渡ったことは覚えている。
 初めての橋じゃない。

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 辺りには誰もいない。
 直前に見知らぬ人が自転車で駆け抜けていったから、もしかしてその男がとも思ったけれど、後姿はとっくに小さくなっていた。鼻歌も何も聴こえるはずがない。
 大体、近付くときには何も聴こえなかったはずだ。

 周囲を見回してみた。
 せいぜいこの十年ほどの間に建ったような家々が並んでいる。
 人影はない。窓も扉もしっかり閉じられている。
 春が近いとはいえ、まだ寒いのだ。

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2007/12/19

メモランダム(その1)

 それはいつものような夜だった。
 いや、昼だったかもしれない。
 そんなことはどちらでもいい。頭の中はいつだって真っ暗。でも、空っぽ。目の前は白けた光景。だけど何も見えない。
 だったら、どっちだって同じことじゃないか。
 何処をどう歩いていたのか。そもそも何処の塒(ねぐら)から飛び出してきたものか、さっぱり覚えちゃいない。
 でも、何処かの安宿ってわけじゃなかったはずだ。出るときにカネを払った記憶はないし。
 あるいは後から誰か追いかけてくるかもしれない。
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→ 月よ! お前までオレを裏切るのか?

 それならそれでいい。
 きっと、会話が弾むに違いない。
 人間、何か一つくらいは楽しみがなくっちゃ。
 一つくらいは、行く当てがないとやりきれないって誰か言っていたような気がする。
 それとも、何かで読んだのか。
 薄っぺらな野郎だから、誰彼の言葉も紙切れの上を這う記号の海も区別がつかない。
 月のない闇の空に雲の形を追うようなものだ。
 

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2007/10/30

自明性の喪失

[以下は、小生の手になる書評エッセイ(からの抜粋)である。途中からはもうまるで書評でもなければ感想文でもなく、無手勝流の想像が闇の時空を舞い狂っている!]

 が、小生は、そんな用語などすっ飛ばして、もっと直感的に、さらに言えば、共感を以って『自明性の喪失』を読んでいた。否、その中の患者の症例に身につまされるものを実感していたのだ。
 観念連合の弛緩といい、現実との生ける接触の喪失といい、あるいは自明性の喪失という曖昧な、しかし他に表現の方法のないある心の事態。

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 現代においては、精神医学が発達して、かなりの精神的な病が投薬などで治療ないし対処されることが多いらしい。また、精神的な疾患などというものは、所詮は脳の先天的な異常か、いずれにしろ脳内の不具合に帰着するに違いないと見なされている。
 癲癇にしろ、病には違いないのだろうし、その発作がなんらかの肉体的異常(それがたまたま脳内の部位に局在しているだけのこと)の精神的な発露・爆発なのだろうと言われれば、それはそうなのだろうと、一応は認めるしかない。

 ここで気になるのは、肉体的異常の結果、では、その人がどのように振る舞うか、あるいは場合によっては精神的所産を為すのかどうかは、全く理論的には整合的に説明できないだろうという点である。

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2007/10/06

闇に浮ぶ赤い花

 何年か前の秋口のこと、タクシー稼業で<経験>したちょっと怖かった話をする。
 但し、一瞬、錯覚したというだけの話である。

 日付はとっくに変わっていた。
 何処かの出口で高速道路を降り、市街地を走っていた。
 高速道を走っていた間は姿を見せていた月影も街道を走り始めた頃には隠れてしまった。

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→ 月影が雲間に次第に呑み込まれていく。

 お客さんの指示に従い、幾つかの角を曲がる。いつしか住宅街を通り抜け、林というには繁りの分厚そうな木々の立ち並ぶ道を走る。
 
 街灯も古い白熱灯が点々とあるだけなので、闇を照らし出すヘッドライトが唯一の頼りという気になってくる。
 人影などあるはずもない。
 ああ、何処まで行くのだろう。人気のない道を何処までも走る、いつの間にか自分が得体の知れない世界へ引き込まれていくような、闇に飲み込まれていくような感覚を覚え始めている。
 運転しているのは自分。そう、ハンドルを握っているのは確かに自分なのだ。
 けれど、行く先を決めるのは自分の意志ではない。

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2007/09/27

一家団欒

[本作は、「Mystery Circle 9-22締め切り分出題」参加作品です。本作については、「「あれは、オレのものだ!」書いたけど」を参照願います。但し、題名を表題の如く「一家団欒」に変更しました。]

「近頃じゃテレビ・タレントも、嗚咽なんてことを知らないくらいだものな。」

 そう、オレはヴァラエティ番組を見ながら突っ込みを入れていた。

 返事はない。
 一人暮らしのオレに返事などありえない。

「嗚咽…。」

 オレが嗚咽したのは、一体、いつのことだったろう。

 そんなことさえ、まるで覚えていない。

 けれど、何かわだかまるものがあった。

 何かがあって、オレは…。

 そうだ、あれは親父の嗚咽だった!

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2007/09/11

靴職人の夢

 靴に魅せられたのは、オレが十歳の頃だった。
 オレは父と居間でテレビを見ていた。普段はサラリーマンで日曜日などは農業に携わっている父は、趣味が他にないわけじゃないけど、食事の際は、テレビを見るのが楽しみ。
 チャンネルの選択権は父にある。オレが選べるのは父が居ない時だけ。
 ちょうど、あの日も、父がチャンネルの抓みを回していた。
 何を見るかと思ったら、NHKの教育番組ではないか。
 ガキのオレはアニメが見たかったのに。

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← サルヴァトーレ フェラガモ著『夢の靴職人―フェラガモ自伝』(堀江 瑠璃子訳、文藝春秋) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)

 でも、オレは何も言えない。
 それに、オレはアニメ好きだが、そもそもテレビが好き。
 テレビで画面が動くってのが未だ感動の時代でもあった。
 確か、家にテレビが来て、そんなに日にちが経っていなかったような気がする。
 番組の内容は覚えていない。
 けれど、何故かオレは退屈なはずの教育番組に釘付けになってしまった。
 確か、ドイツの靴職人の世界を淡々といった調子でドキュメントしたような番組だった。
 オレの印象にはそのように思えた。

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2007/09/06

涸れない女

 奴はオレを急かす。

 確かめなくていいのかって言われると、オレだって引き下がれない。

 でも、一体、どうして奴が彼女のことを知っているのか。
 記憶をどう辿っても、奴に彼女のことを喋ったことなどないのだ。
 というか、オレは誰にも彼女のことは喋っていない。
 親友の誰も知らないはずなのだ。

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→ 「2005 VOLVO C70(屋根開)」 (画像は、「クーペカブリオレ - Wikipedia」より)

 そんなオレの戸惑いなど知ってか知らないのか、奴はドンドン先へ急ぐ。
 とある町の一角。人通りが多い。
 
 いた! 彼女だ。あの日の彼女だ。
 あの日のままじゃないか!

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2007/09/04

ポケット一杯の小銭

[本作を読むに際し、「短編「釣銭」書きました!(追記あり)」を参照されると一層、理解が深まるかも。]

 雨の夜だった。オレは見知らぬ町に居た。
 どうして自分がここに居るのか訳が分からなかった。

 雨。
 傘がない。
 でも、何故か体は濡れない。
 濡れているのかもしれないけど、まるで気にならない。

 違う! 雨もオレを避けているのだ。

 喉が渇いたわけでもないのに、目に付いた自動販売機の前に立った。
 雨のせいもあって薄暗い中、スポットライトに照らし出されている自動販売機にふらふら寄って行ったに違いない。

 オレは…自動販売機という誘蛾灯に惹かれる一匹の虫なのか。

 百円玉を2個、投入し、缶入り珈琲を一本、買った。
 いや、買おうとしたが、商品が出てこないのだった。

 おカネはしっかり販売機が呑み込んでいる。
 
 見ると、嘲笑うかのように、釣銭が、ジャラジャラと釣銭受け口に出てくる。
 お釣りは80円のはずなのに、十円玉が山のように吐き出されている。

 …これはどうしたことなのだ。

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2007/09/03

釣銭

[本作を読むに際し、「短編「釣銭」書きました!(追記あり)」を参照されると一層、理解が深まるかも。]

 雨の夜だった。オレは見知らぬ町に居た。
 どうして自分がここに居るのか訳が分からなかった。

 喉が渇いたわけでもないのに、目に付いた自動販売機の前に立ち、何か買った。
 雨のせいもあって薄暗い中、スポットライトに照らし出されている自動販売機にふらふら寄って行ったに違いない。

 オレは…自動販売機という誘蛾灯に惹かれる一匹の虫なのか。

 雨。
 傘がない。
 でも、何故か体は濡れない。
 濡れているのかもしれないけど、まるで気にならない。

 違う! 雨もオレを避けているのだ。

 それより、自動販売機の釣銭がやたらと多い。百円玉を2個、投入し、缶入り珈琲を一本、買った。

 いや、買おうとしたが、商品が出てこないのだった。

 おカネはしっかり販売機が呑み込んでいる。
 
 見ると、嘲笑うかのように、釣銭が、ジャラジャラと釣銭受け口に出てくる。

 が、お釣りは80円のはずなのに、十円玉が山のように出ている。

 …これはどうしたことなのだ。

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2007/08/22

雨の夜の夢

 俺は眠れないままに闇を見詰めていた。
 じっと眺めていると、見えないはずの闇の中にいろんなものが見えてくる。分厚いカーテンの向こうの何処か靄の掛かったような夏の終わりの夜の闇が、まるで船底の罅割れから水の洩れ入るように俺の部屋を満たしているようだった。

 内と外とを厳格に分けるために、高いカネを払っておんぼろなアパートには不似合いな遮光カーテンを下げたのに、まるで役目を果たしていない。
 漆黒の闇が次第にただの闇となり、やがては遠い記憶の海の底のブルーへと変わっていく。
 俺は海中が嫌いだ。浜辺から眺めるだけなら呑気に構えていられるけれど、海の中となると、溺れる! としか思えない。
 海水が俺の体の隅々まで浸透する。俺を何処までも膨らます。俺は脹れていく。パンパンになるまで膨張して、俺は気が付いたら、裏返しにされた肺の風船、壁に張り付く皮脂、踏み潰された猫、捨てられた硬膜、ゲロを溜めたポリ袋。

 闇の底には終わりがない。
 いつか固い岩盤に降り立つという希望など無い。加速度を増す落下。それともあの世への上昇なのか。体がグルグル回り、目が回り、眩暈がし、吐き気を催し、脳味噌はメニエル病患者の円舞。

 眠れない。
 俺は救いようの無い孤独に吐き気を覚えるばかりだった。腸がひっくり返るようだった。胸が掻き毟られる。常に研ぎ澄まされた爪で身体中を引っ掻いた。夜毎、体にビュランで刺青を入れた。気が狂いそうだった。だけど、ギリギリの土壇場になると狂気の世界から引き戻される。お前はまだ、生きなければならないと誰かが告げる。そうは簡単に気を狂わせてなるものかと、闇の中ののっぺらぼうの手が俺を引っ張り挙げる。得体の知れない鉤が俺の首を吊り下げる。俺はバカみたいに足をジタバタさせる。
 くそ!俺のこの格好を見て、みんなが嗤っているじゃないか!

 みんな? みんなって一体誰だろう。俺の周りに誰かがいたことがあったろうか。俺には誰も見えた試しがなかったじゃないか。それがこの期に及んで誰かが現れたとでもいうのか。
 不意に懐かしい音が聞こえてきた。雨だ。夏の終わりの雨だ。夜の雨だ。雨が俺の胸を叩く。俺の心を濡らす。俺はビショビショになる。周囲の全てもグッショリ、濡れている。
 ああ、そうだ、みんなって、こういうことだったのだ。

 雨。

 雨の夜は切ない。
 あの遠い日のあの人を思い出させるからなのか。でも、あの人って、一体誰だ。俺に会いたい人などいただろうか。会うためなら魂を抉り出しても、その人に会いたい…、そんな人がいたのだろうか。
 何処かに誰かがいるのだろうか。
 もしかして、この世に俺一人なんてことは、ないよな。
 ないって誰か言ってくれよ。
 俺は、俺は助けて欲しいんだ。恥も外聞もあったもんじゃない。俺は崩れちまって、形がないんだよ。だから、町で行き過ぎる人も、俺がここに居ると気づくことは無い。俺は幽霊。そこにいるのに、誰にも見えない幽霊。その存在を否定はできないけど、さりとてあるというのも、憚られる曖昧な影の影。

 雨はこの世の何者をも濡らす。この俺さえも濡らしてくれる。
 雨は、部屋の中の俺さえも濡らしてくれる。俺の目。俺の頬。俺の枕。
 雨は、この世界を歪めてくれる。世界が思いっきり形を崩して、そうして俺の心と同じほどに崩れ去ったなら、その時は、俺はやっと息衝くことができるのかもしれない。

 怯えきった心。日の光をみない目。咲かない花。
 あまりに深い夜。底の見えない夜。終わりのない目覚め。堰き止めようのないダム。塞ぎようの無い亀裂。
 何者でもない俺。あの人の影。
 夜の果ての旅を何処までも続けて、やっと俺はあの人の影を見た。この世の何処にも居ないあの人は、黄泉の原に咲き誇る黄色い花を捧げ持つ。
 あの人は、静かに歩いている。
 その先にあるのは? 奥津城。誰の?
 ああ、俺のじゃないか!
 待ってくれ。俺はこれでも生きているんだ。お前の仲間などじゃないんだ。俺はお前を愛している。けれど、俺はこの世の人間のはずなんだ。そうだろう?
 ああ、早まるんじゃない。その花を手向けたなら、俺は本当に死んでしまうんだぞ。それでもいいのか?!

 けれど、歩みを止める気配はまるでなかった。あの人の氷の彫刻のような横顔が見えるばかりだった。違う。俺は死にたいんじゃない。それどころか、死ぬのが怖くてならないんだ。俺は臆病者なんだ。俺が死ぬのが怖いのは、俺は一度も生きたことがないからなんだ。お前をあの日、拒否したのも、二人で生きることが怖かったからだ。だから、お前だけがあの世で生きる道を選んだ。

 ダメだ。もう、止まってくれ。許してくれ。臆病な俺を見逃してくれ。お願いだ。俺など、どうでもいいじゃないか。そうだろう? 

 けれど、あの人は立ち止まることはなかった。不思議なことに、あの人だけは濡れていない。部屋の中にも雨が降っていたはずなのに、あの人は秋の日の高い空の下、白いドレスの裾を翻し、墓の前に立った。そして、ついに手向けの花を墓に供えた。と同時に、俺は消え

                         (03/09/17)

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2007/07/22

月影に寄せて

Mystery Circle」の「Mystery Circle 7-21締め切り分出題」参加作品です。
 拙稿である「月影に寄せて」や「地球照」(ホームページは、「Let's watch the star! 星見にいこてば」)などを参照。

月影に寄せて

 その顔は、月影で見るにはあまりに恐ろしかった。

 奴は三日月の夜に現れるのだった。冴え冴えと照り映える三日月はまるで喉元の匕首(あいくち)だった。反り返った日本刀の切っ先が眼球を今にも刺し貫きそうだった。
 病に臥して身動きのならない彼の心臓を容赦なく抉りそうだった。
 
 今夜は月影が素敵に見えるはずだからと、消灯した際にカーテンを開けてくれた彼女の心配りが仇(あだ)となっていた。
 満月でもないのに、青い光が部屋に満ち溢れていた。

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2007/06/15

仮面の舞踏

 わたしが初めて化粧した時、どんな気持ちを抱いたことか。

 自分が女であることを、化粧することを通じて自覚していたような気がする。
 最初はただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたに過ぎなかった。
 その前に、祭りだったか七五三などの儀式の際に、母の手によって化粧が施された幽かな記憶があるけど、不思議な感覚にとろんとしたようだけど、でも、あの時はわたしはただのお人形さんだった。

 誰もいない隙を盗んで、母の鏡台の前に座って、鏡を眺めた。
 自分。鏡の中の自分。鏡の外の自分。手を鏡の中に突っ込んで、確かな自分を探し求めた。

 鏡を前に、薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
 そうだ、一度ならず何度もわたしはみんなのいないときに自分でない自分を作り出そうとした。
 ここにいるわたしはそれこそ、眉墨一つで他人の顔になる。冷たい、感情のない目で自分を見る。
 美しい!
 美がそこにある。
 美は幻想。

 でも、美は化粧の腕次第で醜にあっけなく成り果てる。

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2007/05/30

ジャスミンの愛

[本作品について、多少の説明があります:
「ジャスミンの愛」アップ!
 まあ、直接、作品を読んでも楽しめるように書いていますが。]

 では、いざ、本文へ!


ジャスミンの愛

 彼は、もしかしたら、飛びまわる灰に、どのような墓碑銘を付けるべきか、悩むかもしれない。そんな自分になるかもしれないとは夢にも思わなかった。

――所詮は人間なんてこんなもんじゃないか。あの輝きがこんなにも呆気なく潰え去り、骨と灰と煙に成り果ててしまう。

 そんな捨てゼリフのような述懐も何の役にもなりはしないのだった。

――いっそのこと、欧米みたいに土葬にすればいい。棺に納めて穴を掘って、地中に埋めてしまう。そうすりゃ、あの人が死んだってことをオレだって事実として受け入れられるに違いないんだ。

 彼は、脳裏に教科書で見た「九相詩絵巻」の図柄を思い浮かべていた。絶世の美女と呼ばれている小野小町だって、死ねばあんなふうな無残な姿を曝け出す。平凡な人間なら、なおのこと…。そう思いたかったのだろう。

 彼は火葬場から遺灰を一掴み奪って、一人、抜け出してきたのだった。
 彼と彼女とのことを知るものは誰もいない。大方は、若い彼の気まぐれが始まったと思うばかりだった。
 彼がどんなに安美(やすみ)という名の彼女のことを愛していたか!
 まして、彼女が彼をどんなに愛していたかなど、誰も知る由もなかったのである。

 否、そのはずだった……。

――墓碑銘を刻むんだ。オレだけの墓碑銘だ。保美に捧げる墓碑銘なんだ!

 そう、彼はまさにたった今、火葬場で灰と骨とになり、煙となって空へと飛び去っていった彼女に愛されたのだった。
 十五になったばかりの彼には、死んだと言われても、まるで現実感がなかった。
 ウソなのに違いないと思った。
 彼と彼女との仲を引き裂くための、大人たちの芝居に違いないとさえ思った。
 彼女に誘われ、受験勉強の最中、家族の目を盗んで彼女の元へ走った日々。
 叔母さんだけれど、彼には優しいお姉さんだった。ずっと年上の年上の恋人だった。
 結婚はしているのだけれど、子供は居なかった。旦那さんも優しくしてくれる、なんて彼にのろけ話を言って聞かせる。
 若い彼には、<優しくしてくれる>という彼女の言葉が耳に残り、ついには腰を疼かせるようになった。
 何故なら、彼女は、<あっちのほう以外はね>という余計な一言を付け加え、意味深な目を彼に投げかけたからだ。
 それからは、もう、彼は彼女の虜だった。朝な夕なに彼女の姿が現れた。教科書のまっさらなはずの余白にも彼女の顔が、髪が、眩しいほどに白い胸元が浮かび上がってくるのだった。
<あっちのほう以外はね>などと彼女に言われたのは、彼が中学三年生になったばかりの頃だった。

 けれど、それだって、少年の儚い思い出に過ぎないはずだった。ちょっとした切っ掛けが彼を翻弄することになろうとは、中学三年生に成り立てで、受験のことで頭が一杯の彼には思いも寄らないことだった。
 身近な年上の女(ひと)への切ない恋で終わるはずだったのだ。

 部活が嫌いな彼は、内申書の査定が違ってくるからという担任の勧めや友人らの楽しげな活動ぶりにも無関心を装っていた。
 集団行動は嫌いなのだ。まして体育系など、うんざりなのだった。

 そんな帰宅部の彼は、東京の下町にある学校をチャイムと共に逃げ出すように立ち去ると、隅田川の土手へ向うのが常だった。ある橋の下が彼の縄張りだった。下水道のパイプが通っていて、立ち入り禁止になっているのだが、彼は構わず入り込んでは、鉄柵の檻に囲まれた一角に陣取って、川の流れを眺め、雲の形の変わり行くのを飽くことなく見惚れていた。

 自由。自然。憧れ。山の彼方。

 そんな彼の秘密基地の存在は、学校の仲間の誰も知らなかった。家族にはなおさら秘密だった。
 塾へ通うのも時にサボって、この秘密の空間で彼だけの夢を追っていた。
 ここで彼を邪魔するのは、ハトたちがたまにウンチすることくらいだった。
 
――ここだったのね。

 振り返ってみると、塾の先生だった。それとも彼の叔母さんと言うべきか。

 そう、彼の叔母さんの家が塾だったのだ。
 塾の先生とたった一人の生徒。

 彼女は、その名を知らないものはいない大学の院生になっていた。そこで今の旦那様と出会ったのだった。
 経済的な事情などもあって、彼女は学業を断念し、家庭に入った。
 今では、子供も生まれる見込みがなくなったので、時間的なゆとりもあるし、昔取った杵柄で、塾を開いて、学問ならぬ受験勉強のお手伝いなのだった。
 彼は中学三年になった時からの保美の最初の、そして、たった一人の塾生になったというわけだった。
 
――ここで何をしてるの。

 彼は、不意を突かれて言葉が出なかった。
 サボったという後ろめたさもあって、頭の中が真っ白になった。
 自分の子供っぽい思いが見透かされたような気さえした。

――大丈夫。サボっていることは誰にも言ってないから。

 その日から、塾の日が増えた。休日や土曜日を利用しての個人授業を橋の下の檻の中ですることになったのである。その代わり、普段は、保美の家で勉強するという約束になったのだ。

 青空の下での授業は自然の勉強だった。自由という気侭な感覚を堪能しつくすという心身の鍛錬だった。
 五月の連休の間は、特訓の日々が続いた。
 朝から晩になるまで愛を学び続けた。
 寵愛とは何かを彼は知った。
 保美は激発する欲望をからかい、弄り、挑発し、夢路へと誘っていった。
 愛される一人の男であることの誇り。女を霧や夢想の彼方で想い描くのではなく、指と足と腰と腹とお尻と鼠蹊(そけい)と髪と唇とを重ね合い、奪い合い、与え合うことで知っていった。
 女は飽くことのない泉だった。熱い迸りだった。男の本能など呆気なく飲み乾すアリ地獄だった。砂の穴へ誘い込むサソリだった。その毒の甘さは一端、知ったなら誰も逃げることはできない。

 彼は、今や、保美の舌の先に息衝く一匹の獣だった。保美は舌と指先で彼の体中を毒という名の愛を塗りたくっていた。

――保美! ジャスミン! 

 ジャスミンというのは、保美の母が好きな花で、女の子ならジャスミンを語感で連想させる保美にしようと言い張ったのは彼女の母だったという。

 毒は体中を駆け巡る。しかも、愛の毒は魂を干すまでは体から抜け出すすべがない。
 愛の虜は逃げないどころか、獲物のほうから穴へと飛び込んでいく。深みに嵌まっていく。
 嵌めているのに、嵌められて、二進も三進もいかない。
 目の前に肉の壁があり、唇は蕩ける愛の河に塞がれ息も絶え絶えになった。
 二匹の蛇は互いの尻尾を追っては食いつき食い破り、食い尽くし、蕩ける唾液は愛液と相俟って蜂蜜よりも甘く濃く、橋の下の寝屋を満たした。
 彼は精根尽き果てて倒れ伏してしまう。なのに、時間が経つと、女は猶も男を駆り立てた。
 カラカラに干からびた井戸の底へと飛び込ませ、素手で井戸の底の石の透き間を掻き削らせ、女という満足ということを知らない大地を湿らせ潤すことを命じられた。

 彼女は彼女の旦那との夜を語った。結婚した当初の激しい性愛の日々。でも、旦那は彼女と結婚したことを後悔していた。彼女と知り合って間もなく、教授と親しくなり教授の家庭に招かれ、適齢期の娘さんがいることを知ってしまったのである。
 あと、半年、いや、三ヶ月だけでも早く教授と親しくなっていたら今頃は助手になっていて、万年博士浪人という生活から抜け出せていたに違いないという思いが、彼の悔恨の念の始まりだった。
 そして夫婦の破綻の始まりでもあった。

 歯車は狂っていくばかり。
 結婚して一年も経たないうちに、仮面の夫婦になってしまった。
 旦那には彼女が疎ましいばかりだった。ほとんど毛嫌い同然だった。
 彼は保美をシカトするばかりだった。そこに居るのに居ない。保美の肉の心が今にも開かれるのを待ち受けているのに、その上を乾いた風が吹き抜けていく。

 でも、彼女は彼を愛していた。
 彼の心も体も愛(いと)しいと思う気持ちに変わりはなかった。
 でも、何年も経つうちに疲れ果てた。

 そんな家庭の事情を知るものは親族にも学校関係者にも誰一人いなかった。二人は完璧な理想の夫婦像を演じていたのだ。

 寝物語を聞いていても、彼には夫婦の機微の微妙なところは理解し切れなかったが、叔母さん夫婦の内情の血の吹き出るほどに冷め切っていることを日々思い知らされた。
 それも、熱く激しく飽くことなく。

 そんな或る日、彼女が病気で倒れた。
 病気と言いながら、実は家庭内暴力(DV)で殴り倒されたという噂が飛び交っていた。
 DVでは、外聞が悪いということで、主に彼女の旦那の関係者を中心に真相の揉み消しが図られていた。 まして、浮気がどうしたとか、近親何とかという噂は、表沙汰にはできないことだった。
 そんな無責任な噂の中には、HIVがどうしたという話さえ流れていたことを知ったのは、荼毘に付される数日前だったろうか。

 病院へは、彼女の家族しかお見舞いにいけなかった。旦那も旦那の親族らも来なかった。
 個人授業を受けていた彼も面会謝絶で会えなかった。
 というより、密かに彼は遠ざけられていたのだった。

 彼は自分のせいだったのかと悩んだ。
 でも、誘われたのは自分のほうではなかったのか。
 誘惑したのはジャスミンのほうなのだ。

 でも、彼女を愛したのも事実だった。世界が彼女の肉の色一色に染まるほどに彼女を愛したのだ。そして、愛された。
 この貧相な自分があれほどの寵愛を受ける存在であるということ。女に欲せられ追われ、駆り立てられる存在であるということ。

 彼女の葬式は夢のように現実感なく終わった。汗と愛液と涎(よだれ)と吐息と叫びしかない現実からはあまりに遠かった。
  
 彼は、また、一人きりの檻で静かに過ごしていた或る日、流れゆく雲を見ていた。
 いつだったか、彼女の家の書棚でたまたま手にした本の中で、「死骸を火葬にして灰を川に投ぜよ」という言葉を見出したことをふと思い出した。
 彼女の本か旦那の蔵書なのか忘れてしまった。
 エンゲルスの遺言だとあった。
 
――そうだ、川だ。保美を川に流すんだ!

 そう思い立ったのは、火葬場で燃え尽きた彼女の骨と灰とを見た瞬間だった。
 オレたちは、あの場所で愛を交わしたんだ。幾度、保美を引き裂きたいと思ったことか。
 愛は惜しみなく奪う。肉を引き裂くほどに。
 保美の体は彼には無間地獄のようだった。何処まで辿っても行き着く果てはない。そこに保美はいる。でも、自分が一体、保美の何を愛しているのか分からなかった。

――ああ、オレたちの愛が流れていく。流れていく前に、墓碑銘を刻まなくちゃいけない。

 彼は、保美が死んでくれて助かったという思いが脳裏を駆け巡っているのを感じていた。
 それどころか、自分が彼女を死に追いやったという思いさえ、沸々と湧きあがってくるのをどうしようもなかった。血が濁らされたという怨念のような、根拠のない直感が彼を苦しめていた。

――あのまま続いていたら、オレ、何を仕出かしたか知れやしない。本当に保美を…。…まさか、そんなオレの思いに気付いて保美は…。奴にも疎まれ、オレは愛に目が眩み…。

――ボク、分からないよ。
――何が?
――どうやって愛したらいいのか。
――私たちの世界を難しくしないでよ。とりわけ、私たちの世界を。今は、愛が全てなの。欲するがままに愛したらいいのよ。

……じゃ、貴方を引き裂いてもいい。

 到底、口にすることのできない言葉だった。
 彼は、流れる川に向って遺灰を投げた。灰は空中を飛び交い川面に落ち、紛れ、流れ去っていった。

――墓碑銘は……。墓碑銘は風に任せればいいんだ。……復讐は終わったのだ!

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2007/05/03

窓の隙間から

 時々、俺って何処で生まれたのだろうって思うことがある。
  「何処からって、お袋さんからに決まってるじゃないか!」
 そんな答えを求めていたわけじゃないのに、「そりゃ、そうだなって」笑ってごまかす。

(俺って、何処から来たのだろう)

 これも愚問なのだろうか。又、「自分で自分の住所くらい、分かんねえのかよ!」っ て言われて、シュンとするしかないのだろうか。
 目の前にあるのは開かれることのない本。
 ちょっと脇を向くと窓枠に絡まる蔦が 隙間風に揺れている。

(そうだ、隙間風に聞いてみよう)
 俺はふと、そう思った。風ならこの世のしがらみに 囚われることなどなく、気侭に天地を巡っているに違いないのだから。
 けれど、いざとなると声が出ないのだった。声を発したつもりなのに、声は単なる音 となり、やがて風に紛れるようにして掠れていくばかりなのである。

「お前はって野郎は…。息ってのは風の戯れなのだってことを知らないのか、愚かな奴」

 俺は風にまで馬鹿にされてしまった。

(俺って何者なのだろう)
 愚問は湧いてくるばかりで止むことはなかった。

(今度は声に出さないで頭の中で疑問を追いかけてみよう。それなら誰にも邪魔される はずがないから)

「俺の目をごまかせるとでも思ってるのか。それだからお前はダメなんだ」

 思わず辺りを見回してしまった。誰もいない部屋のはずなのに、心の中までが見透か されているとはと、恐怖するばかりだった。

(こうなれば、俺は見るだけにしよう。何も考えないで、ただ黙って窓の隙間から青い 空を見上げるのだ)

「どこまでも情けない野郎だな、お前は。お前の部屋から空が覗けるはず、ないだろう が!」

 そんなことは分かりきっている。
 それでも覗きたいものはどうしようもないのだ。
 俺 は祈るような気持ちで青い空の白い雲を探し求めようとした。
 遠い昔、友達の誰かが小 説の冒頭に「青い空、白い雲」なんてやるものだから、俺は思いっきり罵倒してやった ものだった。

 それが今になって、その芝居の書割にも描かれない紋切り型の風景に憧れている。焦がれさえもしている。

 青い空と白い雲。
 それがこんなにも素晴らしいものだったことに、今になって気づくとは。

(俺は何処から来たのだろう)

 もう一度、見えもしない空を俺は捜し求めた。
 鉄格子越しに見えるのは灰色の壁だけ。
 青い空も白い雲も見えるはずがないのは分かりきっているのに。
                                (2001年作)

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2007/04/22

トーストとミルクとホセと

 久しぶりの休日なのに、タケシは朝から不愉快だった。
 夜来の雨がやまないから?
 違う。
 不快のタネはメールだった。コーヒーを片手にパソコンに向かい受信トレイを開くと、来るわ来るわ、迷惑メールの嵐だったのだ。
 係長という立場にあって、タケシは休日返上の日々が何年も続いていた。
 ようやくの思いで取れた休みなのである。

 この前、大方のスパムメールは「送信者を禁止する」機能で片付けたはずなのに、また、増えている…。

 チェッと舌打ちしながらも、片っ端から「送信者を禁止する」機能で処理していく。
 案外とこの処理が楽しかったりする。
 世の中の汚物を始末しているような、妙な快感を感じているような気がしていたのだ。安価なゲーム機で敵を打ち落とす感覚にどこか似ていた。

 こんな単純作業を続けているうちに、ふと、タケシは思い当たることがあった。


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2007/04/17

路上に踏み潰された蛙を見よ

 その時を境に私は変わった。昨日の私は消滅し新しい私は居場所を天に変えた。

 私は全てを見ようと決心した。私とは非在の焔。それとも存在の無。
 違う! 私とは、地上世界を厭悪する天の破壊的衝動。
 裸の女を見た。着衣を剥ぎ取られ心どころか肉までが剥き出しだった。肉の塊となった女は私をそそった。私までもが肉の塊となっていた。
 そうだ! 元始のお前になるがいいのだ! 元始の私がお前を奪ってやる。見ろ! 天覧する奴がいる!

 水を呉れだと。水はたっぷり注いでやったじゃないか。何も涙の川と洒落ているわけじゃない。地上世界を殲滅した光は、大地の水を干上がらせ、天へと巻き上げた。
 あの黒い雲が見えないのか。今にも洩れ零れそうなほど、今にも溢れそうなほど、水を満々と湛えているじゃないか。
 あれこそが、水の塊だ。渇望の的だ。今まで天の恵みを湯水の如く垂れ流しておきながら、この期に及んで何を我が儘を吐くのだい。

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2007/04/10

蜃気楼の欠けら

 バスが魚津にあるまいぼつりん博物館の駐車場に着いた時は、ボクはフラフラだった。
 ボクはバスに弱いのだ。
 バスの排気ガスに酔うのか、揺れるバスに弱いのか、ボクには分からない。
 乗ってものの十分もならないうちに、それこそ、まだ発車していないうちにでも、バスに乗ったというだけで、酔う。
 酔っているような気分になる。
 酔わないと、かえって自分が変なのかもと心配になるほどだ。
 だから、遠足なんて、大嫌いなのだ。

 先生が何か言っている。
 バスを誘導し終えたバスガイドさんが降り口のところで、立っている。乗り物にも弱いけれど、見栄っ張りでもあるボクは、足元がふらつかないよう、懸命に降りた。

 ああ、きれいなおねえさん。
 でも、ボクは、言ってらっしゃいというガイドさんの声に返事も出来なかった。
 酔っていたから、それとも、恥ずかしかったからなのか、考えないことにした。

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2007/03/12

姫始め

[「運動会の競争で参加者全員一等賞」という課題を与えられての創作です。]

 わしはな、昔から憂えておることが一つある。
 と、その前に、一言断っておくが、わしの話はくどいぞ。この年になると、若者を捉まえて話を聞かせるしか愉しみはないからの。
 ま、何事も辛抱が肝腎ぞ。若い者は年寄りの話を聞くのが功徳じゃて。

 さて、わしが憂えておること、それは、無数の精子の運命についてじゃ。お前も知っておるじゃろうが、男子たるもの一度の射精の際に発射される精子の数は病気でもない限り、数億匹という膨大な数にのぼる。
 その気の遠くなるような数の精子どもが卵子目指して一斉に困難な旅に出るのじゃ。
 そのさまは、そう、産卵のためのサケの大群の溯上の光景さながらじゃ。
 尤も奴等はメスじゃが、この際、オスとかメスとかが問題じゃない。その健気というか悲愴というか、産卵のため、そして子孫を残すための凄まじいまでの闘いの姿。
 それを見て涙しないものがあろうか。

 それも季節は冬も間近の頃の話じゃ。そろそろ厳寒の季節を迎えようとする渓流を傷付きボロボロになりながら遡り、やっと産卵を終えたときには力尽き、静かに川床に横たわる。そのサケを狙って熊どもがやってくる。
 熊が憎たらしいかって。とんでもないことじゃ。熊は熊で生きるために懸命なのじゃ。たっぷり脂肪を蓄えて真冬の山を乗り切る。自然の摂理を思うだけよ。

 余談じゃが、わしのダチに試験管に射精し、その液をプレパラートに移して、顕微鏡で一匹一匹、精子の数を数えた奴がいる。奴が中学生になったかどうかの頃のことじゃそうな。奴は、そもそも精液の中に精子がいること自体を疑ったというのじゃな。で、実際に覗いてみたら、精子がいるわいるわでビックリしてしまい、到底、数える気にはなれなかったと言っておった。

 ま、わしは奴のことを知っているから、その話は眉唾物と思っておる。何故って、大体、奴は同級生の女の子のスカートは熱心に覗くが、顕微鏡を覗き込むなど、ありえないと睨んでおる。
 それに、奴は確か、両手両足の指の数より多い数は、たくさんと、十把一絡げという頭脳の持ち主だ。まあ、飛ばして出来た障子の染みの数でも数えるのがオチじゃったろうて。

 さて、精子の話に戻ろう。

 男というもの発射する快感に騙されて、それこそ数えきれないほどに無駄球を撃ってきたものじゃて。わしも若い頃は、日に三度四度五度と発射したものじゃった。その勢いがわしの自慢じゃったのじゃ。
 嘘じゃないぞ。若い頃はションベンも威勢がいいが、精子の飛びっぷりもなかなかのものじゃった。ピューと飛んで、勢いだけで障子紙など突き抜けたものよ。二メートルは飛んだな。それが今では、垂れ零れるだけじゃ(遠い目…)。
 いかん、いかん、わしの自慢話をしようというのじゃない。

 で、大概は寒風吹き荒ぶというか、目的地などどこにもない真昼の闇夜に飛ばされておしまいじゃ。ま、手の平とか、雑誌から千切った写真とか、何処かの壁とか。中には砂地に突き立ててとか、中に適当な穴を開けたこんにゃくとかな。こんにゃくは温めるのはいいが、温度を間違えると大変じゃ。チン先が脹れ上がって、一週間は使い物にならなくなるからな。何事も、人肌の温もりが肝腎なのじゃな。

 さて、たまにははるかな彼方だとはいえ、目的地に繋がる紅い闇の世界にまともに飛び出すこともある。

 そう、まず、そうした機会に発射されるかどうか自体が、運命よの。
 運が左右するのじゃ。十回に一度どころか、下手すると何百回に一度じゃな。
 しかもじゃ、お、今度こそは目的地に行けるかもと思ったのも束の間、半透明のゴムの膜に遮られて、つい目の鼻の先の熱い血肉に触れられず仕舞い。
 哀れよのー。
 まあ、入り口のそのまた入り口の光景を眺められただけでも御の字かもしれんのー。

 さてじゃ、これからが本番だ。
 って、これから本番をするってことじゃない。話が山場に差し掛かったという意味じゃぞ。

 なに? 話がくどい?!
 最初にわしの話はくどいと言うておいたじゃろうが!
 この程度のくどさに辛抱できんようじゃ、女子に持てんぞ。
 女子と付き合うには珍宝が…、もとい、辛抱が肝心じゃ!
 珍宝滅却すればホトまた涼し、じゃ。

 カァーーーツ ペッ!
 
 ……すまん、すまん、を入れるところが、痰が出おって。
 年じゃ、許せよ。

 さて、珍宝じゃ、じゃない、辛抱だ、じゃない、ホト……でもない、本番……じゃない、ん? 本番と言ったのはわしか。
 本番じゃなくて、本題じゃ!

 お前は精子は精巣で作られることは知っておるな。生まれたばかりの精子はの、運動能力もない、やわな存在なのじゃ。精巣上体という部分を通る過程で運動能力を身につける。
 発射オーライ、というわけじゃな。精子がたっぷり溜まった時の、あのなんともいえない、うずうずする感じ、若いお前なら分かるじゃろう。居ても立ってもおれんよな。
 体の内側で擽られているような奇妙な感覚じゃて。

 立っておられん。そりゃそうだ。あそこが突っ立っておっては、立つのも容易じゃないわいな。
 わしも、若い頃は、歩くのが難儀だったものじゃ。ついつい前屈みで歩いたり、鞄で前をさりげなく覆ってみたり、数学の問題を思い浮かべて世俗を忘れようとしてみたり、その気を散らすのに懸命だったものじゃて。

 さて、思いっきり引かれた弓で弾き飛ばされるようにして、無数の精子は飛び出す。元気溌剌。生気煥発。精子闊達。女子貫徹。射精貫徹。なんだか、支離滅裂じゃのお。どうもわしは四字熟語という奴が苦手じゃ。女子熟女は好きじゃがの。
 ま、とにかく闇雲に突っ走っていくと言いたいのじゃ。

 が、精子本人達は無鉄砲に走っているようでいて、実は、ちゃんと道筋があるらしいのじゃな。どうやら、卵子というか女御どのが目には見えない餌やら臭いやらを精子どもの鼻先に突き付けておるようじゃ。
 その不可視の餌が、また、芳(かぐわ)しいというか、まぐわしいというか、ますます精子どものカリを立てるというか、駆り立てるんじゃな。我こそは一番乗り! 我こそは一番の逞しさ! 我こそは日の本一の天晴れなカリ…、じゃない、槍男(やりおのこ)ぞ! というわけだ。

 ま、なかには競争に逸れるものもおる。最初から見当違いの方向へ彷徨ってしまうんじゃな。迷子なのか。それとも方向音痴なのか。方向音痴な精子ほど、哀れな奴はおらんのじゃなかろうか…。

 余談だが、精子どもの戦いの姿を見ておると、つい、運動会のことを連想してしまう。
 実は、本題はここからなのじゃがの。

 この頃は、運動会での競争というか駆けっこというと、誰もが一等賞になるように、つまり誰もが嫌な思いをせずに済むように、傷付くことのないように、学校側の配慮たるや、大変なものじゃ。
 それもこれも子供を預かっておるのじゃし、親御さんの非難が怖いし、子供が親より大切という世の中じゃからな。
 このことに疑問を持つ方も多いと聞く。確かに無条件で賛成はできんというのも、無理からぬ話じゃ。

 が、わしは賛成なのじゃ。
 何故かって言うと、そもそも子供に限らず、人間はみんな似たり寄ったりのようでいて、実はみんな生まれたときの条件も、まして育つ環境も違うのじゃ。それをじゃ、運動場のグラウンドで同じ線からスタートします、条件は同じです、あとは競争です、ということで順位がついてしまうというのは、理屈に合わん。
 土台がはじめから違うのだから、優劣がついて、早い遅い、うまい下手があって当然で、順位が付けられるほうが出来レースに思われるのじゃ。
 競争をしたかったら、有志が集まってやればいいことじゃ。誰もがみんな生活の条件が違うのじゃから、戦う舞台も評価の基準も違って当然。
 つまり、順位をつけるための一つだけの物差しなど、ありえんということだ。

 さて、生きている子供については、このように多少は塩梅もできるが、精子となるとの…。
 嘆かわしいばかりじゃ。
 あの一個だけの卵子を目指して数億もの精子が目くじら立てて命を賭けて突き進む。

 そうしてやっと卵子どのの鎮座まします玉座近くに辿り着いても、それで終わりというわけじゃない。
 そこまでやってきた精子は、せいぜい数十匹か百匹程度なのだから、そのどれとも卵子どのは、苦労を労う意味でも、一度ずつくらいは、交わってやればいいものを、勿体ぶりおって、卵子の回りには顆粒細胞なぞという、精子にとってはバリヤーとなる膜を張って、寄せ付けないのじゃよ。

 このバリヤーで卵子どのは精子の値踏みをするんじゃろうな。

 おうおう、あちきとやりたがるおのこが一杯。いきり立って、哀れそのもの、どれどれ、イケメンはいるかな、若く逞しいのはどれかな、なんてな。

 しかも、御丁寧にこの細胞群というバリヤー以外に、透明帯というバリヤーもあるらしい。
 まあ、聞くところによると、卵子の保護と、異種の精子が来たら困るので、精子の種別をする機能を持っているらしい。異種の精子も元気な奴だったら、ここまで来れるということか。昔から異種との交わりはよくあったという何よりの証拠なのかんもしれんな。わしも人間の女子(おなご)ではダメでも、他の獣だったら…。病気に掛かった鳥でもいいから焼き捨てる前にわしに貸してくれんものか…。

 おお、いかん、いかん、わしとしたことが、本音が過ぎた。

 わしはの、これでもれっきとした男子じゃからの、本当のところは分からんのだが、無数の精子の侵入と接近を待つ卵子の気持ちは、どんなものなのじゃろうか。女王蜂の気分なのじゃろうか。自分をめがけて血気盛んな若い男の大群が我こそはと、自分一人を目指して険しい崖をよじ登り、怒涛の激流を遡ってくる…。
 この選ばれた存在という感覚は、心底痺れるものがあるのじゃなかろうか、のう。

 その分、一旦、男を、もとい、世界で只一つだけの精子を迎え入れた瞬間からは、長く辛い日々が待っておるのじゃから、無数の男というか精子を睥睨するという女王様の快感という、それくらいの余禄はあってもいいのかもしれん。

 が、わしが憂えるのは男どもじゃ。いや、精子どもじゃ。
 わしは、無謀というか過保護というか、意味などないと言われるかもしれんが、無数の精子どもに卵子とのまぐわいの喜びを知ってもらいたいのじゃ。弱いもの、運の悪いもの、力のないもの、メスたる卵子の示した道をうまく辿れない愚かもの、そんなものには卵子と結びつく資格などないのかもしれん。
 それは分かる。
 厳しい競争を勝ち抜いてこそ、勝者と呼べるのだし、その苛酷さこそが自然の摂理だと、わしも重々分かっておるのじゃ。
 が、それでも、わしの悲願として、数億の精子どもにも一瞬でもいい、まぐわいの喜びを! と願わずにはおれんのじゃ。精子一匹に卵子一個とのご対面のチャンスを! と切に望まれてならんのじゃ。
 運動会の競争で参加者全員一等賞という発想に賛成のものなら、わしのこの悲願も賛同されるのではなかろうか、のお。
 ということでわしも今から姫始めじゃて。一匹くらいは飛ぶじゃろか。

                          (04/01/27作)

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2007/02/09

幽  霊

「お前はさ、幽霊って信じる」
 いきなりの質問だ。といっても、それが奴の癖みたいなものだ。奴だけに流れるリズムがあって、どうやら突然、疑問が浮かぶらしいのだ。
 いつもマイペースの奴は、疑問が浮かぶと我慢できない性質だ。そばにいる誰彼に質問をぶつける。
 今日の奴の質問癖の犠牲者は俺だということ。

「ゆ、幽霊?」
「うん、幽霊。この世の中に存在すると思う? 存在すると信じてる?」
 幽霊のことなど考えたことなどない、と言うと、ちょっとばかり嘘が混じる。でも、真剣に考えるわけもない。こんな時は、逃げるが勝ちである。相手に同じ質問を投げ返してやればいいってわけだ。

「そういうお前はどうなんだ、信じてるのか」
「僕か? 僕は信じてるさ。存在しないわけないよ」
「へえ、信じてるだけじゃなくて存在しないわけないだなんて、やけにハッキリ断言してくれるじゃないか。どうしてだよ。信じてるってだけなら、分からんでもないけど、存在するって決め付けられると、なんだか問い詰めたくなるな」
 俺たち二人は、居残りの仕事を終えたばかりだった。
 事務所でお客の問い合わせに四苦八苦したものだから、やっと開放されてホッとしたというより、脱力感で一杯だった。
 もともと俺は夏バテなのか、今日は体調がすぐれなかったのだ。

 が、頭がボーとしているのは、俺だけのようだった。奴は、仕事の興奮が覚めやらないという感じなのである。
 そういえば、電話で相当、激しい遣り取りを交わしていた。顔を真っ赤にして、怒り心頭に達するのを懸命に堪えていたのが、傍にいても察せられたものだ。
 まさか、客と幽霊談義でもしてたのだろうか、それで今になって俺に質問をぶつけているのか。まさか。

 俺たちは街灯の弱々しい町外れの道をトボトボと駅を目指して歩いていた。
 あと一時間もすると、始発の電車が来る。駅のロータリーの噴水近くで屯(たむろ)しながら電車を待つのが、この頃の週末の習いになっていた。せめて土日は休みたくて、金曜日の夜は時間に関係なく仕事する。
 というより他の連中は早々と帰ってしまうので、俺たち二人が残って仕事を片付けるしかないのだ。
 残業。でも、只働き。そんな不遇を共に味わっている。なんとなく、俺たち二人には戦友みたいな気分があるのだった。だからこそ、突拍子もない奴の質問にも付き合うって訳だ。

「あのさ、人間って何だと思う?」
「えっ、今度は人間かよ」
「いや、だからさ、人間って、やがて死ぬだろ。で、死んで灰になるとして、あとには何も残らないのかなってことさ」
「そりゃ、だから灰だろ、骨だろ、何かの遺品だろ、運がよけりゃ財産が少々かな。あと、何だろ…」
「ってことはよ、人間の気持ちのようなもの、魂なんて大袈裟なことは言わないけどさ、心というのかな、そんなものは消え去るってことか?」
「そうだろ。残るって思うのか。残るとして、何処に残るんだ。この世で浮かばれないで漂ってるってか」
「だからさ、幽霊は存在するかって聞いたんだよ。あのさ、医学が発達して、血液なんてとっくに輸血とかで他人と交換できるだろ。骨だって内臓だって、皮膚だって、交換できるか、ま、そのうちに自分の細胞から人工の、それこそ免疫の…、その…、なんだ、とにかく拒否の心配なしの、いいのができるわけだ」

 俺はとっくに半分、意識が薄れていた。できれば道端にバタッと倒れこみたいくらいだった。奴の言葉が分厚い壁越しの呟きに聞こえる。
「それがどうした」
「だからさ」
 だからさ、というのは、奴の口癖である。
「だからさ、ということは、その人がその人であるものって何なのかってことさ。だって、みんな交換可能なんだろ。人工で作ることができるんだろ。遺品とか財産の類いなんて、簡単に消えるし、盗まれるし、どっちにしても、死んだらあの世に持っていけるわけじゃないし」
(ああ! こいつは当たり前のことを言っている。それがどうしたというんだ!) 意識朦朧としている俺は、自制心も利かない。
 そのうち癇癪を起こしそうだった。何だってこいつはこんなに元気なんだろう。何なら、頭をぶち割って、脳味噌を覗いてみたいものだ。

 その瞬間、俺の脳裏に閃光が走った。
 まさか、こいつは俺の過去を知っているんじゃなかろうか。俺が消し去った女のことを。誰も知るはずもない、その女とのことを当てこすってやがるんじゃなかろうか。

「ってことはさ、俺が俺である証拠って、どこにあるんだ? 身の回りの品なんて、どれも代替可能だし、どっちにしても誰のものであってもいいわけだし、それが現代じゃ、体まで代替可能で、要するこの体だって、たまたま俺が所有しているだけってことじゃないか。じゃ、俺は一体、何者なんだ。そもそも肉体以外に俺ってありえるのか?」

 俺はもう、眠気と疲労で吐き気がするほどだった。その上、疑心!
 脳髄の奥がガンガン鳴り響いていた。やっと仄見える駅の赤い灯りが血の滲みに感じられていた。赤黒い滲みが脳髄に伸び拡がって、やがてあの無様な格好で横たわる女の姿を思わせたりするのだった。
 まさか、彼は女のことを探るために俺に近づいてきたのか。人嫌いな俺に親しく付き合うのは、そのせいなのか。俺と奴とは仕事上の戦友だなんて、俺らしくないお笑い種だったのか。

 空は晴れている。気持ち、霧か靄が立ちこめている気もする。なのに、星が数え切れないほど瞬いている。それは星の煌きというより、頭をハンマーで叩かれた瞬間の赤い衝撃のようだった。月が山並みに姿を没している辺りには、光暈(こううん)がワンワン湧き立っている。闇の底に微かに夜明けの予感が漂っていた。
 早く帰って寝たい。何なら、そこらの公園で寝たって構わない!

「その肉体が、実は交換可能な仮初のものだとしたら、俺は一体、どこにいるんだ。俺って何なんだ?」
(そんなことは、こっちが聞きたいよ!)怒りで、思わず叫びそうになった。
(今更、昔のことを持ち出すんじゃないぜ。もう、この世から消え去った女じゃないか!)
 このままじゃ、何が口を突いて出るか知れたものじゃなかった。

 が、幸か不幸か、もう、気持ち悪くて言葉を発する元気もない。ただ、怒りとも恐怖とも付かない情念だけが煮え滾っているようだった。頭の痛みがますます昂じていた。俺はフラフラして、倒れこみそうになった。壁か柱かに体を預けた。
 睡魔が不敵な笑みを浮かべている。その手には、本当にハンマーが握られている。睡魔という悪魔は、こんな格好をしているのかと、俺は初めて気付いた。今、元気なのは奴と睡魔の野郎だけなのだ。
 あの日の俺もそうだったっけ…。
 俺はとうとう我慢がならず、吐きそうになった。
 すると俺の目の前に奴の姿があった。
「バカヤロウ、そこにいたら邪魔じゃないか、吐くぞ!」

 俺は思わず奴を突き飛ばした。そして、思い切り吐いた。吐き出した。胃の腑の中身を全て撒き散らした。赤いモノ、紫のモノ、黒っぽいモノ、脂っぽいモノ、何か固そうな白っぽいモノ…。

 …それから何時間が経ったのだろうか、ふと、俺は目覚めた。
 すると…、
 道端には奴の腑抜けた体。電信柱にはペットリと紅く人間の形。

                                    02/07/07(22)

[本作は、ひょんな事情から書いたもの。姉妹編に「蜘 蛛 の 巣」があります。]

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2007/02/05

あれは夢ではなかった

 それはそれは華やかな応援だった。最初に目に飛び込んできたのは、オレの好きなポルタ・バンディラとメストリ・サラの二人。
 ポルタ役の女性は体も大きいけれど、人柄が素敵。それ以上に笑顔がいい。
 いや、あんなに笑顔が輝いているのは初めて見た気がする。
 カメラはパンしてバテリア陣をも映し出してくれる。
 パレードの際は彼らは華やかな衣装に身を包んで小気味いい、そして豪快なリズムを刻む。

Imgp9347

→ ポルタ・バンディラ&メストリ・サラ(「Charlie K's Photo & Text」所収の「2007 Liberdade New Year Party」より)

 だけど、今見る彼らの衣装ときたら、オレは一度だって観たことのない豪華なもの。パシスタなどのダンサー陣が背負って踊る羽の飾りを全身に纏っている。
 羽毛の海から顔だけがやっと垣間見えるほどだ。

 体のキレがいい。
 申し訳ないけど、あんなに微細なビブラートを利かせた音の生きた演奏ぶりなどオレは正直、聴いたことがない。
 リズム感が抜群に鋭い。

 タンボリンのカッカッカという音はサンバの通奏音。スルドの中低音。パンデイロの軽快な、単純そうでいて複雑な打音は変調を来たした心拍音か。ガンザの奏でるシャカシャカという音は浜に打ち寄せる波の音だろうか。クイーカの奇妙奇天烈な、あやうく神経を逆撫でされそうな、それでいて何故か心地いい擦過(さっか)音。ショカーリョは身振り手振りも自在。カバキーニョのメロディアスでリズミカルな弦の音は遥かな森の歓喜の叫び、それとも沖合いに見え隠れするボートの櫓(ろ)の咽び泣き。

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2006/08/05

雪人形

[本作は、ホーソーン著『ホーソーン短篇小説集』(坂下 昇編訳、岩波文庫)所収の「雪人形」という佳品を読んで触発されて書いたもの。ただし、ホーソーンの世界とはまるで違うものとなっている。「無精庵徒然草」で公表したものを「創作の庵…掌編、俳句、川柳の東屋」であるここ「無精庵方丈記」に転記しておく。]

 五つか六つの頃、ボクは田舎の一軒家に住んでいた。

 あれは雪の降りしきる日のこと。
 ボクは雪の野に不思議な光景を見ていた。
 我が家の畑の隅っこに勝手に雪だるまが出来上がっていったのだ。
 降る雪は視界をさえぎるほどだったけど、風は吹いていなかった。
 なのに、我が家の庭の杉の木の天辺ほどの高さまで雪が舞い降りてくると、白い花びらたちは不意に落ちる行方を一点に決められていたかのように、庭の隅っこに向っていった。
 雪だるまはボクだって作ったことがある。新雪を手袋をした手ですくい、それこそ絨毯を丸めるようにして次第に固めていき、やがて真ん丸の雪のかたまりを大小二つ作る。
 二つの真ん丸を重ね、そこに炭か何かで目玉を付け、帽子をのっけて出来上がりだ。

 でも、あの日、出来上がっていった雪だるまはとても、そんなものではなかった。
 雪の日本人形だった。
 女の子の人形にしか見えなかった。

 おかっぱ頭で、瞳が大きく、睫毛だって長い、可愛い女の子。
 まるでボクにも彼女が欲しいなと夢の中で願っていた女の子が、いきなり目の前に誕生したみたいだった。

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2006/07/09

水たまり

[ 本稿は、季語随筆ブログにて題名も同じ「水たまり」として公表したもの。本来は、この創作系のブログに最初からアップすべきだったけど、衝動に駆られてぶっつけで書いてしまったので、ちょっと変則的な形になった。
 尚、ここに再掲するにあたって、少しだけ手を加えましたl。(再アップ当日追記)]

 朝から雨が降っていた。
 雨が降っていることは音で分かる。庇を叩く雨音が寝入っている耳元にも響いてくる。
 一人きりの小さな部屋だから、窓の外のちょっとした音も呆気なく忍び込んでくる。
 まるで壁に目に見えない透き間があるようだ。

 それにしても、雨音が激しすぎるような。
 ベッドに寝そべったまま、無理にも首を捻って窓のほうを見遣ってみた。
 うん? カーテンがやんわり揺れている…。
 窓の隅っこが雨天にしては妙に明るい。
 なんだ、昨夜は窓を閉め切らないままに寝入ってしまったのだ。

 湿っぽい部屋。湿気が篭って鬱陶しい。
 久しぶりに舐めたワインのせいで、余計に暑苦しくなって、つい窓を開けた。
 そして、軽く酔った時の癖で、心地よさに任せて、後のことは知ったことじゃないと、ベッドに潜り込んでしまった。
 見ると、二の腕の長さほど開け放たれた窓の合間から風と共に雨までが吹き込んでいるのだった。
 やばい! 急いで閉めなくっちゃ。
 うん? 考えてみたら、今更、急いだって無駄か。
 もう、窓枠も窓際の書棚も、そうして窓辺のフローリングの床も、濡れそぼっている。

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2006/04/15