小説(オレもの)

2008/05/10

黒の河

 俺は無性に腹が立っていた。お袋のこと、仕事のこと、あいつのこと、親父のこと。そして自分のこと。
 お袋は何だってあんなに年老いてしまったんだろう。この数年でびっくりするほどに痩せ衰えてしまった。
 でも、親父にすれば昨日の今日で、別段、お袋が急に老いたわけじゃないという。
 そうか、久しぶりに帰郷した俺が迂闊だったんだ。
 余計な心配も掛けたし、俺のせいで老けたんだと思うのは、俺の思い過ごし、時の流れが俺たちをも確実に何処へともしれない彼方へ押しやっていくだけのことなのだ。
 道楽息子の御帰還を喜ばせようと、不意を襲ったのがいけなかったのだ。庭先で立ち木鋏を持ったまま、唖然と立ち尽くす親父の目。

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2008/03/05

煙草に火を点けて

 街がやたらと変化していく。
 ほんのしばらく足を向けないだけで、気が付くと嘗てはあったはずの木造二階建てのアパートや古びた工場が消え去って、更地か駐車場になっている。

 俺は某町の一角にあったアパートを見るのが好きだった。
 何十年という歳月を感じさせる朽ちかけた木の塀や壁。きっと開け閉てするとギーという音がするだろうし、びったり閉まることはないだろうという窓。
 雨が降ったら、紙の家のように水が染み込み、そう、きっと廊下とか誰かの部屋のベニヤ板の天井には雨漏りの染みの痕が生々しいに違いない。
 モルタルの壁の透き間にはウレタンのテープなどが巡らせてあるに違いない。触るとポロポロ剥げ落ちる壁には、麻田奈美のポスターなどが貼ってあったりして。
(奈美の奴、あの顔で、凄い胸だった。)
 今度、強い風が吹いたら倒壊するに違いない。

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2008/02/27

放火魔

 真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。
 看護の人も先ほど見て回って行ったばかりである。

 静まり返った病室での楽しみは、こっそり蝋燭に火を灯すこと。

 蝋燭の焔は、今日は真っ暗闇の中に何を浮かび上がらせてくれるだろうか。

Fire

 そもそも闇の中でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろうか。

 誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、病室という名の、誰も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の織りなす影は、ある種、夢幻な世界を映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかないのか。

 夜の深みに直面して、何を思う?

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2008/02/17

水たまり

 久しぶりに夜の町を散歩した。
 いつだったか、いつも通りに気分よく散歩していたら、警察官に誰何され、それ以来、夜中に徘徊するのを躊躇っていた。
 でも、梅雨の束の間の晴れ間で、しかも明日からはまたしばらく空が愚図付くということなので、思い切って外出することにしたのである。
 明日は間違いなく雨模様だという予報。
 けれど、歩いてみても綿のシャツがジトッとすることはない。ゆっくり歩いている分には、汗を気にせずに歩ける。なんだか、それだけで嬉しい。

 梅雨の時期の散歩は、湿気のせいで、体に衣服がベト付き、深夜に特有の尖った刃のような闇を感じないで済む。狂気も霊気も切っ先が錆び付いてしまうのである。
 けれど、今日の空気は乾いている。それだけが俺には気にかかる。

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2008/02/10

滑り台

 あれはずっと昔のこと。もう、記憶の彼方になっている。
 でも、忘れられない。
 忘れられないけれど、一体、何があったのか、自分でも分からない。
 分からないけれど、何かがあったんだと、疼く胸がハッキリと伝えてくる。

 オレは、あの日、一人で公園の滑り台で遊んでいた。その滑り台は、今にして思うと、人研ぎ滑り台という形だったと思う。
 当時は当たり前の形だったような気がするけれど、ま、そんなことはどうでもいい。

 滑り台の上に登っては、滑る。登っては、滑り降りる。降りては、駆け上っていって、天辺からまた、勢いよく滑り降りる。
 滑り台の下のほうは、傾斜がなくなっているので、降りていっても、ちゃんとブレーキがかかるようになっている。無論、滑り降りた先には砂場がある。

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2008/01/23

犬とコロッケ

 あれはいつもと同じように一人で学校から帰る途中での出来事だった。
 あの頃の俺は、みんながそれぞれ友達と帰るのが羨ましかった。いつかは俺だってと思っても、結局は一人ぼっちで帰る羽目になってしまう。

 みんな連れ立って一体、何処へ行くんだろうか。
 単に帰る方向が一緒だから、すぐそこまで一緒になるだけなのだろうか。それとも、何処かに秘密の面白い場所があって、ワクワクする思いでそこへ向かうのだろうか。
 だから顔があんなにもにこやかなのだろうか。

 俺には何も分からなかった。

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2008/01/19

誰かが見ていた

 何歳の頃のことだったかよく覚えていない。
 物心付いたかどうかという頃だった。
 まだ雪が降っていなかったから、師走だっただろうか。

 父のあとに付いていった。
 土間。秋口までは農作業で人の出入りで賑やか。足踏みの脱穀機やら千歯こきやら竈(かまど)やら稲藁やらで足の踏み場もないほど。

 でも、農閑期ともなると、冷たい空気が肌を刺すだけ。竈も臼や杵が隅っこで大人しく出番を待っているだけ。

 父が何の用事があって土間に向ったのかは覚えていない。

 多分、最初から分かっていなかったと思う。好奇心だったのだろうか。
 それとも、何か無言の圧力のようなものが引っぱっていったのか。

 深々とした土間の隅で父が突然、蹲(うずくま)った。
 そいこは古い角材が積み重ねられていた。その裏のほうから何かを引っ張り出した。

 見ると、手に何やら金網のようなものを手にしている。

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2008/01/03

初夢

 オレは戸惑っていた。
 女はいきなりオレの家にやってきて、絵のモデルになると言い張るのだ。
 女はとんでもない勘違いをしているに違いない。

 勘違いの発端は、吹く風に夏も終わりに近付いていることを予感させる或る日、近所のカフェでのこと。

 週日の午後で、客はオレだけ。前の日も画集を見ながらヌード画を描いていた。

 我ながら上出来だったこともあり、つい、誰かに見てもらいたくなり、店が暇そうな時間帯を狙って、近所のカフェへ繰り出した。
 案の定、暇そうな主人は、グラスなどを白い布で拭っている。
 要するに何もすることがないのだ。

 チャンスだ。
 カウンター席に座り、オレは徐(おもむろ)にデザイン帳をカウンターに置いた。
 主人はオレの何気なさそうな表情に隠された…あからさまなサインを見逃すはずがない。

 昨日もヌード、画いてたの?

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2007/12/30

蝋燭の命

 一本の蝋燭の焔に照らされ浮かび上がるものとは一体、何なのだろう。

 何かの雑誌を読んでいたら、こんな一文に出会った。

「闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでいる。誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短い白い帯を生じさせている。否、須臾に消えることを知っているからこそ、ジタバタさせることをやめない。やめないことでそれぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する無数の蝋燭 の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追い求める。あるいは望ましいと思う焔の形を演出しようとする。」

 だからだろうか、ある女性のことが思われてしまった。その人は絵を描くのが好き。しかも、深い闇の中で初めて画布に向う気になれるという不思議な人である。深い闇。決して薄明の中で目を懸命に凝らして、ボンヤリと浮かぶ何かを見詰めて、そうして描いているわけではない。

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→ ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour) 『悔い改めるマグダラのマリア』 (ナショナル・ギャラリー (ワシントン)) (画像は、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール - Wikipedia」より)

 彼女は真っ暗闇の中で何かを描いているのだ。
 そう、彼女は盲目なのだ。何も見えないのである。灯りがあろうがなかろうが、最初から関係ないのだ。彼女の傍には誰が置いたのか、一本の蝋燭がある。その蝋燭の焔が彼女の孤独な姿を浮き彫りにしている。
 一体、彼女にとって蝋燭など、まして蝋燭の焔など何の意味があるだろう。気休め? それとも、孤独な闇の底特有の寒さを、その蝋燭の焔の放つ熱でほんの少しでも凌ごうとしている?

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2007/12/19

メモランダム(その1)

 それはいつものような夜だった。
 いや、昼だったかもしれない。
 そんなことはどちらでもいい。頭の中はいつだって真っ暗。でも、空っぽ。目の前は白けた光景。だけど何も見えない。
 だったら、どっちだって同じことじゃないか。
 何処をどう歩いていたのか。そもそも何処の塒(ねぐら)から飛び出してきたものか、さっぱり覚えちゃいない。
 でも、何処かの安宿ってわけじゃなかったはずだ。出るときにカネを払った記憶はないし。
 あるいは後から誰か追いかけてくるかもしれない。
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→ 月よ! お前までオレを裏切るのか?

 それならそれでいい。
 きっと、会話が弾むに違いない。
 人間、何か一つくらいは楽しみがなくっちゃ。
 一つくらいは、行く当てがないとやりきれないって誰か言っていたような気がする。
 それとも、何かで読んだのか。
 薄っぺらな野郎だから、誰彼の言葉も紙切れの上を這う記号の海も区別がつかない。
 月のない闇の空に雲の形を追うようなものだ。
 

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2007/11/13

ウブ

 本作は、「Mystery Circle 11/23締め切り出題 SMC 参加見送り作品」です。
 時間的な都合もあり、参加の意志を表明する機会を逸し、参加は叶わなかった。
 なので、創作上の縛りは、勝手に「数えきれない程の抵抗を試みた」を話の前後に付すことに。
 ただ、テーマ上の課題である「同性愛」 は盛り込めなかった。

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2007/10/29

夜という海

[()本作は、「Mystery Circle 10-27締め切り分出題」参加作品です。主旨などは、末尾を参照願います。(07/10/29 記)]


夜という海


「また長い夜になる…。」

 彼は誰にともなく呟いた。
 一人きりの部屋なのに、彼は誰彼の顔が思い浮かぶと何か言葉を掛けないと気がすまない。

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 返事はない。
 あるはずがない。
 それは彼にもわかっていた。
 語りかけた言葉が薄暗い部屋の中に呑み込まれるようにして消えていく。
 いっそのこと、消えていった言葉を追いかけていこうか…。そんな衝動に駆られることさえ彼にはあった。

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2007/10/06

闇に浮ぶ赤い花

 何年か前の秋口のこと、タクシー稼業で<経験>したちょっと怖かった話をする。
 但し、一瞬、錯覚したというだけの話である。

 日付はとっくに変わっていた。
 何処かの出口で高速道路を降り、市街地を走っていた。
 高速道を走っていた間は姿を見せていた月影も街道を走り始めた頃には隠れてしまった。

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→ 月影が雲間に次第に呑み込まれていく。

 お客さんの指示に従い、幾つかの角を曲がる。いつしか住宅街を通り抜け、林というには繁りの分厚そうな木々の立ち並ぶ道を走る。
 
 街灯も古い白熱灯が点々とあるだけなので、闇を照らし出すヘッドライトが唯一の頼りという気になってくる。
 人影などあるはずもない。
 ああ、何処まで行くのだろう。人気のない道を何処までも走る、いつの間にか自分が得体の知れない世界へ引き込まれていくような、闇に飲み込まれていくような感覚を覚え始めている。
 運転しているのは自分。そう、ハンドルを握っているのは確かに自分なのだ。
 けれど、行く先を決めるのは自分の意志ではない。

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2007/09/27

一家団欒

[本作は、「Mystery Circle 9-22締め切り分出題」参加作品です。本作については、「「あれは、オレのものだ!」書いたけど」を参照願います。但し、題名を表題の如く「一家団欒」に変更しました。]

「近頃じゃテレビ・タレントも、嗚咽なんてことを知らないくらいだものな。」

 そう、オレはヴァラエティ番組を見ながら突っ込みを入れていた。

 返事はない。
 一人暮らしのオレに返事などありえない。

「嗚咽…。」

 オレが嗚咽したのは、一体、いつのことだったろう。

 そんなことさえ、まるで覚えていない。

 けれど、何かわだかまるものがあった。

 何かがあって、オレは…。

 そうだ、あれは親父の嗚咽だった!

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2007/09/11

靴職人の夢

 靴に魅せられたのは、オレが十歳の頃だった。
 オレは父と居間でテレビを見ていた。普段はサラリーマンで日曜日などは農業に携わっている父は、趣味が他にないわけじゃないけど、食事の際は、テレビを見るのが楽しみ。
 チャンネルの選択権は父にある。オレが選べるのは父が居ない時だけ。
 ちょうど、あの日も、父がチャンネルの抓みを回していた。
 何を見るかと思ったら、NHKの教育番組ではないか。
 ガキのオレはアニメが見たかったのに。

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← サルヴァトーレ フェラガモ著『夢の靴職人―フェラガモ自伝』(堀江 瑠璃子訳、文藝春秋) (画像は、「Amazon.co.jp 通販サイト」より)

 でも、オレは何も言えない。
 それに、オレはアニメ好きだが、そもそもテレビが好き。
 テレビで画面が動くってのが未だ感動の時代でもあった。
 確か、家にテレビが来て、そんなに日にちが経っていなかったような気がする。
 番組の内容は覚えていない。
 けれど、何故かオレは退屈なはずの教育番組に釘付けになってしまった。
 確か、ドイツの靴職人の世界を淡々といった調子でドキュメントしたような番組だった。
 オレの印象にはそのように思えた。

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2007/09/06

涸れない女

 奴はオレを急かす。

 確かめなくていいのかって言われると、オレだって引き下がれない。

 でも、一体、どうして奴が彼女のことを知っているのか。
 記憶をどう辿っても、奴に彼女のことを喋ったことなどないのだ。
 というか、オレは誰にも彼女のことは喋っていない。
 親友の誰も知らないはずなのだ。

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→ 「2005 VOLVO C70(屋根開)」 (画像は、「クーペカブリオレ - Wikipedia」より)

 そんなオレの戸惑いなど知ってか知らないのか、奴はドンドン先へ急ぐ。
 とある町の一角。人通りが多い。
 
 いた! 彼女だ。あの日の彼女だ。
 あの日のままじゃないか!

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2007/09/04

ポケット一杯の小銭

[本作を読むに際し、「短編「釣銭」書きました!(追記あり)」を参照されると一層、理解が深まるかも。]

 雨の夜だった。オレは見知らぬ町に居た。
 どうして自分がここに居るのか訳が分からなかった。

 雨。
 傘がない。
 でも、何故か体は濡れない。
 濡れているのかもしれないけど、まるで気にならない。

 違う! 雨もオレを避けているのだ。

 喉が渇いたわけでもないのに、目に付いた自動販売機の前に立った。
 雨のせいもあって薄暗い中、スポットライトに照らし出されている自動販売機にふらふら寄って行ったに違いない。

 オレは…自動販売機という誘蛾灯に惹かれる一匹の虫なのか。

 百円玉を2個、投入し、缶入り珈琲を一本、買った。
 いや、買おうとしたが、商品が出てこないのだった。

 おカネはしっかり販売機が呑み込んでいる。
 
 見ると、嘲笑うかのように、釣銭が、ジャラジャラと釣銭受け口に出てくる。
 お釣りは80円のはずなのに、十円玉が山のように吐き出されている。

 …これはどうしたことなのだ。

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2007/09/03

釣銭

[本作を読むに際し、「短編「釣銭」書きました!(追記あり)」を参照されると一層、理解が深まるかも。]

 雨の夜だった。オレは見知らぬ町に居た。
 どうして自分がここに居るのか訳が分からなかった。

 喉が渇いたわけでもないのに、目に付いた自動販売機の前に立ち、何か買った。
 雨のせいもあって薄暗い中、スポットライトに照らし出されている自動販売機にふらふら寄って行ったに違いない。

 オレは…自動販売機という誘蛾灯に惹かれる一匹の虫なのか。

 雨。
 傘がない。
 でも、何故か体は濡れない。
 濡れているのかもしれないけど、まるで気にならない。

 違う! 雨もオレを避けているのだ。

 それより、自動販売機の釣銭がやたらと多い。百円玉を2個、投入し、缶入り珈琲を一本、買った。

 いや、買おうとしたが、商品が出てこないのだった。

 おカネはしっかり販売機が呑み込んでいる。
 
 見ると、嘲笑うかのように、釣銭が、ジャラジャラと釣銭受け口に出てくる。

 が、お釣りは80円のはずなのに、十円玉が山のように出ている。

 …これはどうしたことなのだ。

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2007/08/22

雨の夜の夢

 俺は眠れないままに闇を見詰めていた。
 じっと眺めていると、見えないはずの闇の中にいろんなものが見えてくる。分厚いカーテンの向こうの何処か靄の掛かったような夏の終わりの夜の闇が、まるで船底の罅割れから水の洩れ入るように俺の部屋を満たしているようだった。

 内と外とを厳格に分けるために、高いカネを払っておんぼろなアパートには不似合いな遮光カーテンを下げたのに、まるで役目を果たしていない。
 漆黒の闇が次第にただの闇となり、やがては遠い記憶の海の底のブルーへと変わっていく。
 俺は海中が嫌いだ。浜辺から眺めるだけなら呑気に構えていられるけれど、海の中となると、溺れる! としか思えない。
 海水が俺の体の隅々まで浸透する。俺を何処までも膨らます。俺は脹れていく。パンパンになるまで膨張して、俺は気が付いたら、裏返しにされた肺の風船、壁に張り付く皮脂、踏み潰された猫、捨てられた硬膜、ゲロを溜めたポリ袋。

 闇の底には終わりがない。
 いつか固い岩盤に降り立つという希望など無い。加速度を増す落下。それともあの世への上昇なのか。体がグルグル回り、目が回り、眩暈がし、吐き気を催し、脳味噌はメニエル病患者の円舞。

 眠れない。
 俺は救いようの無い孤独に吐き気を覚えるばかりだった。腸がひっくり返るようだった。胸が掻き毟られる。常に研ぎ澄まされた爪で身体中を引っ掻いた。夜毎、体にビュランで刺青を入れた。気が狂いそうだった。だけど、ギリギリの土壇場になると狂気の世界から引き戻される。お前はまだ、生きなければならないと誰かが告げる。そうは簡単に気を狂わせてなるものかと、闇の中ののっぺらぼうの手が俺を引っ張り挙げる。得体の知れない鉤が俺の首を吊り下げる。俺はバカみたいに足をジタバタさせる。
 くそ!俺のこの格好を見て、みんなが嗤っているじゃないか!

 みんな? みんなって一体誰だろう。俺の周りに誰かがいたことがあったろうか。俺には誰も見えた試しがなかったじゃないか。それがこの期に及んで誰かが現れたとでもいうのか。
 不意に懐かしい音が聞こえてきた。雨だ。夏の終わりの雨だ。夜の雨だ。雨が俺の胸を叩く。俺の心を濡らす。俺はビショビショになる。周囲の全てもグッショリ、濡れている。
 ああ、そうだ、みんなって、こういうことだったのだ。

 雨。

 雨の夜は切ない。
 あの遠い日のあの人を思い出させるからなのか。でも、あの人って、一体誰だ。俺に会いたい人などいただろうか。会うためなら魂を抉り出しても、その人に会いたい…、そんな人がいたのだろうか。
 何処かに誰かがいるのだろうか。
 もしかして、この世に俺一人なんてことは、ないよな。
 ないって誰か言ってくれよ。
 俺は、俺は助けて欲しいんだ。恥も外聞もあったもんじゃない。俺は崩れちまって、形がないんだよ。だから、町で行き過ぎる人も、俺がここに居ると気づくことは無い。俺は幽霊。そこにいるのに、誰にも見えない幽霊。その存在を否定はできないけど、さりとてあるというのも、憚られる曖昧な影の影。

 雨はこの世の何者をも濡らす。この俺さえも濡らしてくれる。
 雨は、部屋の中の俺さえも濡らしてくれる。俺の目。俺の頬。俺の枕。
 雨は、この世界を歪めてくれる。世界が思いっきり形を崩して、そうして俺の心と同じほどに崩れ去ったなら、その時は、俺はやっと息衝くことができるのかもしれない。

 怯えきった心。日の光をみない目。咲かない花。
 あまりに深い夜。底の見えない夜。終わりのない目覚め。堰き止めようのないダム。塞ぎようの無い亀裂。
 何者でもない俺。あの人の影。
 夜の果ての旅を何処までも続けて、やっと俺はあの人の影を見た。この世の何処にも居ないあの人は、黄泉の原に咲き誇る黄色い花を捧げ持つ。
 あの人は、静かに歩いている。
 その先にあるのは? 奥津城。誰の?
 ああ、俺のじゃないか!
 待ってくれ。俺はこれでも生きているんだ。お前の仲間などじゃないんだ。俺はお前を愛している。けれど、俺はこの世の人間のはずなんだ。そうだろう?
 ああ、早まるんじゃない。その花を手向けたなら、俺は本当に死んでしまうんだぞ。それでもいいのか?!

 けれど、歩みを止める気配はまるでなかった。あの人の氷の彫刻のような横顔が見えるばかりだった。違う。俺は死にたいんじゃない。それどころか、死ぬのが怖くてならないんだ。俺は臆病者なんだ。俺が死ぬのが怖いのは、俺は一度も生きたことがないからなんだ。お前をあの日、拒否したのも、二人で生きることが怖かったからだ。だから、お前だけがあの世で生きる道を選んだ。

 ダメだ。もう、止まってくれ。許してくれ。臆病な俺を見逃してくれ。お願いだ。俺など、どうでもいいじゃないか。そうだろう? 

 けれど、あの人は立ち止まることはなかった。不思議なことに、あの人だけは濡れていない。部屋の中にも雨が降っていたはずなのに、あの人は秋の日の高い空の下、白いドレスの裾を翻し、墓の前に立った。そして、ついに手向けの花を墓に供えた。と同時に、俺は消え

                         (03/09/17)

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2007/08/03

ハーフロック

[本作は、「Mystery Circle 企画MC 《Funny story Mystery Circle》」参加作品です。制作の背景事情などを、「「ハーフロック」アップ!」に書いておきました。]


ハーフロック

 あった。あの店だ。
 オレは浩美に教えてもらった店をようやく見つけた。

 やっぱり、あの店だったんだ。

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 小さなネオンの看板があることはあるが、灯りが弱々しい。人がやっと擦れ違えるほどの通りをしばし歩かないと見つけられない店。夜半にはまだ時間があるけど、閉店間際に入るのは嫌だった。だから、早めに辿り着けてラッキーだった。

 場所からして、誰が見ても常連しか相手にしてないような店のように思えるだろう。
 浩美がつい先日の夜に寄ったという小さなジャズ・バーだ。
 別にジャズの生演奏が聴けるわけではない。店が女性好みの洒落た作りってわけでもない。男が一人旅の町でふらっと入りたくなるような雰囲気。せいぜい、そんなところか。

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2007/06/25

丘 の 河 童

第二十四回 Mystery Circle」参加作品です。詳細は、「「Mystery Circle」の夜」を御覧ください。
 要は、「列車の警笛がなりひびき、金属製の車輪が路線をとらえる音が、どんどん近づいた。」が始まり(近く)で、「そのあとは、何もかも真っ白になった。」が文末(近く)が縛りとなっている創作、という課題に則った作品なのです。

 お題の出典は、下記:
『ペンドラゴン 死の商人』 著:D・J・マクヘイル

丘 の 河 童

 列車の警笛がなりひびき、金属製の車輪が路線をとらえる音が、どんどん近づいた。

 ああ、兄ちゃんがやってくる!
 あの列車には、あの兄ちゃんが乗っているのだ。我が家に遊びに来るんだ。


 いつのことだか、はっきり覚えていない。ボクがお袋に連れられてお袋の田舎に行った時のことだということは分かる。まだ保育所に通っていた頃のことだったろうか。
 細切れだけれど、何処か懐かしい風景を思い出せる。
 でっかい家で、垣根に囲まれていて、垣根の向こうには田圃や畑が何処までも広がっていて、なんだか、凄いところに来たなという感じがあった。

 ボクの家だって周りは田圃だらけなんだけど、その規模が違っていた。田舎じゃ、何処まで真っ直ぐ走っても、隣りの家には辿り着けないような気がした。少し霞んだ彼方には、鬱蒼と生い茂った森が見えた。
 森の中に一際、陰の濃い一角があって、誰に聞いたのか忘れたけど、あそこが「チンジュの森」だと教えられた。
 あの頃、ボクには「チンジュ」という言葉の意味が分からなかった。ただ、幽霊とか魂とかお化けとか、漫画か何かで見知った得体の知れないものを連想していたような気がする。

 お袋は、郷里にいて、のんびりしているようだった。お袋の姉妹たちや親戚の人たちが一杯いて、心置きなくお喋り三昧というわけ。まるで娘時代に帰ってしまって、ボクのことも、ほったらかしだった。
 お袋のお母さんやお父さんは、いたんだろうか、覚えていない。家の奥の座敷に居て挨拶したような気がするけれど、記憶はあいまいだ。

 兄弟姉妹は何人もいたけれど、ボクと同年代の子供はいなかった。みんな、ボクよりずっと年上か(といっても、四つか五つ程度だけど)、でなかったら、赤ちゃんだった。
 ボクは、年齢的に、ちょうどみんなの玩具にされる年頃だったようで、ちやほやされたり、何かというとお八つをくれたり、嬉しいんだけど、こそばゆい感じがして、なんだか面倒だった。

 そのうち、みんなに構われるのが嫌になって、特別興味もなかったのだけど、玄関に置いてある木彫りの動物たちを眺めていた。そこにはタヌキやらクマやらキツネなどの動物が並んでいた。
 中にはどうみても、裸の少年の彫り物もあった。

 見上げると壁に巨大な亀の甲羅が飾ってあった。ボクなんかより図体がデッカイ! 甲羅はワックスでも掛けられていたのか、顔が映りそうなほどにピカピカなのだった。
 
 すると、後ろから声が掛かった。
「それ、何か、分かるか」
 ボクは咄嗟のことで、返事できなかった。でも、内心は、答えが分かっていた。「カメ」って言いたかった。けれど、何故か口ごもってしまった。

「なんだ、知らないのか。河童だぞ」
「えっ、カッパ?」

 ボクは悔しかった。河童くらい、ボクだって知ってるさと言い返したかった。でも、内心、カメじゃないのっていう思いもあって、どう反応していいのか分からないでいた。

 お兄ちゃんは、ボクがためらっている間に、奇妙なことを言い出した。
「この河童、川にいた奴を似せて作ったんだぜ。ここに並んでいる動物は、みんなそうさ。近くの森にいる奴らを模したものなんだ」
「みんな?」
「ああ、みんなだ。山のほうへ行けば、クマもいれば、キツネもいる。河童も近所じゃないけど、いるんだ。裏の川を遡っていくと、河童の奴が棲みついている場所があるんだぜ」

 それから、おもむろに付け足した。
「お前、これ、カメだと思っただろ」
「そんな…」
「河童だなんて言うと、大抵の人は馬鹿にするから、カメに似せているけど、もともとは河童だったんだ」

 ボクは、河童は空想の動物だってことを聞かされていたから、あまりのことに驚いた。

「えっ、河童って、ホントにいるの?」
「いるさ。だから、ここにこうして置物になってるんじゃないか。俺んちの父ちゃんが捕まえたのさ。檻に入れてさ、殺しちゃう前に、記念だからって、得意の腕を揮って、木彫りの彫刻にしたってわけさ。河童の甲羅なんて、そのままじゃ、やばいからって、亀に似せたってわけさ」

 ボクは訳が分からなくなった。目の前の置物は、とても本物らしく見えた。足のヒレとか、頭の皿とか、細かなところまで掘り込んであって、どうみても、本物のカメそのものに思えていた。

「どうだ、河童、見てみたいと思わないか。それとも怖いか?」
 ボクは兄ちゃんの表情がなんとなく怪しくて、断りたかった。でも、あまりに魅力に満ちた誘いだった。男の意地もあった。怖がっていると思われたくなかった。知らず、頷いているのだった。

 裏の川は、さすがに当時のボクには無理だけど、中学生ほどになれば、飛び越せるような細い川だった。タニシとかをお兄ちゃんが獲ってくれたりしたこともある。
 その用水路のような川の土手沿いの道を、お兄ちゃんと二人、何処までも歩いていった。チンジュの森の奥へ分け入っていった。家がドンドン小さくなっていく。終いには深い木立にさえぎられて家が見えなくなってしまった。
 いつもは口数の多いお兄ちゃんが、何故か沈黙を守っていて、ひたすら先を急いでいるようだった。
 
 川はやがて、細い筋になっていったと思ったら、そのうちに林の中に呑み込まれていくのだった。これじゃ、どうやって河童が棲めるんだろう。勘の鈍いボクも、そんな疑問を抱いた。

 でも、林を分け入っていくと、すぐにそんな疑問は氷解した。
 突然、ゴーという水が激しく流れ下る音が聞えてきた。と思ったら、水しぶきの上がる渓流が眼下に見えたのだ。

 そう、ボクたちが辿ってきた筋は、もっと大きな川のほんの小さな支流に過ぎなかったのだ。

 崖の上にボクたちは上っていった。上流のほうを望むと、滝があった。高さはどれくらいだったろうか。ガキのボクには、迫力を感じるばかりだった。あまりに意外な景色に、呆然と見惚れていた。

「あそこが河童の棲み処さ」
 お兄ちゃんの声だった。
「えっ、何処?」
「あの滝壷の辺りに河童が棲み付いているんだ」

 ボクは、しばし、轟々と流れ落ちる水の迫力に圧倒されていた。
 水しぶきは夢の中で見た竜のような、蠢く巨大な蛇のような、不思議な生物となって、滝を落ち、水面と衝突し、白い噴煙を上げ、一気に破裂するのだった。
 光の加減なのか虹が出来て、それがまた水しぶきを竜の胴の鱗のギラツキに見えるのだった。

 兄ちゃんに促されるままに、滝の真下近くの岩場に立った。水しぶきが顔だけじゃなく全身をずぶ濡れにするのだった。
 水面は、巨大な竜の胴体をやすやすと飲み込み、深い深い水の底へと引き摺り込む。
 汚れのない綺麗な水のはずなのに、渦巻いていて、水面を覗き込んでも、水底など、まるで覗き見ることは叶わなかった。

「河童はな」と、お兄ちゃんは、滝の音に負けないよう、大声でボクに言った。
「この水底に棲んでるんだぜ」

 ボクは足が震えていた。今にも河童の奴が水面に顔を出し、それどころか手だって伸ばして、僕の足首を掴まえ、水の中に引っ張り込む、そんな恐怖を覚えてならないのだった。

「お前さ、河童って、どんな恰好してるか、知ってるか?」
「河童? 知ってる。図鑑で何度も見たことあるし」

 すると、兄ちゃんは、ふふふと不気味な笑いをするのだった。

「お前、勘違いしてるぜ」
「勘違い?」意味が分からなかった。

「あの、頭が皿で、ヒレがあって、背中にカメの甲羅みたいなのを背負った奴を河童だと思ってんだろう」
「そうじゃないの。ちゃんと図鑑で見たよ。空想の動物だって書いてあったけど…」

 ボクは、空想の動物ということを強調したかった。存在して欲しくなかった。そんなもの、見たくなかった。もう、帰りたい一心だった。
 すると、兄ちゃんは、また、ふふふと得体の知れない笑い声を上げた。

「何がおかしいの?」

 しばらく、奇妙な沈黙があった。滝の轟音ばかりが鳴り響いていた。

「お前に河童の正体を見せてやる」
「河童の正体?」
「そうさ。お前、ウチに裸の子供の彫り物があったの、覚えてるよな」
 そう、言いながら、お兄ちゃんは服を脱ぎだした。
 そして、真っ裸になった。

「ホントの河童は、オレなんだよ」
 そう言うと、兄ちゃんは、ボクの背中を押して、水面へ突き落としたのだった。
 そして、あとから兄ちゃんも飛び込んできた。

(ボクは丘の河童なんだ、泳げないんだ。溺れちゃうよ!)

 でも、水の中では声になるはずがなかった。ゴボゴボ、ガボガボという哀れな音がこもっているだけだった。

 水中には、ホントに河童がいた。兄ちゃんという河童が。兄ちゃんの魔の手がボクの足首を握って、水の底深く、引きずり込もうとしているのだった。

 それからあとのことは、何も覚えていない。透明なような、濁っているような、泡だらけのような、真っ白な雲の海のような、真っ暗闇な押し入れのような、高周波音の鳴り響く無音の宇宙のような、訳の分からない真っ赤な闇の時空を駆け巡っていた。

 気が付くと、ボクは、岩場の何処かに横たわり、青い空、白い雲を眺めていたようだった。が、すぐにまた、紅い闇の坂道を転げ落ちていった。
 そのあとは、何もかも真っ白になった。

 やがて気が付くと、大きな屋敷の奥の座敷に一人、寝かされていた。襖の向こうの、はるか遠くの茶の間からは、みんなの賑やかな談笑の声が聞えてきた。
 中でも、兄ちゃんの笑い声が、一際大きかったことをボクは覚えている…。
 
 あの事件のことは、兄ちゃんにはただの冗談だったのだろうし、とっくに忘れていることらしいけど、オレは決して忘れちゃいない!
 あれから6年。オレはもう、あの頃のガキなんかじゃない。

 オレは密かに誓っていた。今度はオレが河童になってやる。
 そして、兄ちゃんを…。

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2007/05/11

乗っていいのよ

 五月晴れの一日も暮れそうな宵の口のこと。
 オレはある住宅街を歩いていた。
 とある家の塀の物陰に人影が見える。
 何か怪しい雰囲気が漂う。
 オレは急ぎ足で通り過ぎようとした。

 すると、
「乗っていいのよ」という囁くような声が。
 見ると、ちょっと垂れている髪で顔がハッキリ見えないが、体型からして二十代後半と思われる女だ。
 オレの足元を伺っているような気がする。

(乗っていい? 乗っていいってどういうことだ?)

 頭の変な女かもしれない。
 第一、声が小さかった。聞き間違いってこともある。
 オレは気のせいだろうと、先を急いだ。

 するとまたもや、
「乗っていいんだってば」という声。

 今度はオレのすぐ間近だ。
 女はさすがにオレの目に合わせようとはしない。
 後ろめたい気持ちがあるのだろう…。

 今度は聞き違いなどでは断じてありえない。
 女の横顔が街灯に浮んだ。
 美人だ!
 こんないい女がどうして、こんなところで。
 よっぽど夫婦生活がうまく行っていないのか。

 声の調子からすると、女は少々苛立っているようだ。
 それでもオレは関わりになるのが嫌で女から遠ざかろうとした。

「乗りなさいって、言ってるでしょ。後ろに乗りなさい!」
 ああ、そこまで言うのか。オレはMの気があるのか、女の命令口調に案外と弱い。
 しかも、オレたちだけ。
(でも、奥さん、いくらなんでも、こんなところで…。)

 それでもオレは、何かの間違いだとしか思えなかった。
 女は、オレとは目を合わさない。何処か柱の陰を伺っているようだ。
 誰か人が来るのを怖れているのか。

「何をグズグズしてるの。早くしないとダメでしょ」
 せかされると弱いオレなのだ。
 立つものも立たなくなる。
 でも、ここで知らん顔で通り過ぎてしまったら、男がすたる。
 気がつくと、何のほうはオレより気が早くて、とっくに前向きになっている。

(さっさとやって、さっさと消え去ろう。行(ゆ)きがけの駄賃ではないか。)
 オレはズボンの前を開いて女に向っていった。

すると、
「ホラ、グズグズしてるから、変な男がやってきたじゃない!」
 そう吐き捨てるように言うと、女は男の子を柱の陰から引きずり出し、自転車の後ろの籠に載せ、宵闇の中、ママチャリを漕いで去っていった。

 ……。
 ああ、オレを置いて行かないで。
 ……。
 行っちゃった!

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2007/05/03

窓の隙間から

 時々、俺って何処で生まれたのだろうって思うことがある。
  「何処からって、お袋さんからに決まってるじゃないか!」
 そんな答えを求めていたわけじゃないのに、「そりゃ、そうだなって」笑ってごまかす。

(俺って、何処から来たのだろう)

 これも愚問なのだろうか。又、「自分で自分の住所くらい、分かんねえのかよ!」っ て言われて、シュンとするしかないのだろうか。
 目の前にあるのは開かれることのない本。
 ちょっと脇を向くと窓枠に絡まる蔦が 隙間風に揺れている。

(そうだ、隙間風に聞いてみよう)
 俺はふと、そう思った。風ならこの世のしがらみに 囚われることなどなく、気侭に天地を巡っているに違いないのだから。
 けれど、いざとなると声が出ないのだった。声を発したつもりなのに、声は単なる音 となり、やがて風に紛れるようにして掠れていくばかりなのである。

「お前はって野郎は…。息ってのは風の戯れなのだってことを知らないのか、愚かな奴」

 俺は風にまで馬鹿にされてしまった。

(俺って何者なのだろう)
 愚問は湧いてくるばかりで止むことはなかった。

(今度は声に出さないで頭の中で疑問を追いかけてみよう。それなら誰にも邪魔される はずがないから)

「俺の目をごまかせるとでも思ってるのか。それだからお前はダメなんだ」

 思わず辺りを見回してしまった。誰もいない部屋のはずなのに、心の中までが見透か されているとはと、恐怖するばかりだった。

(こうなれば、俺は見るだけにしよう。何も考えないで、ただ黙って窓の隙間から青い 空を見上げるのだ)

「どこまでも情けない野郎だな、お前は。お前の部屋から空が覗けるはず、ないだろう が!」

 そんなことは分かりきっている。
 それでも覗きたいものはどうしようもないのだ。
 俺 は祈るような気持ちで青い空の白い雲を探し求めようとした。
 遠い昔、友達の誰かが小 説の冒頭に「青い空、白い雲」なんてやるものだから、俺は思いっきり罵倒してやった ものだった。

 それが今になって、その芝居の書割にも描かれない紋切り型の風景に憧れている。焦がれさえもしている。

 青い空と白い雲。
 それがこんなにも素晴らしいものだったことに、今になって気づくとは。

(俺は何処から来たのだろう)

 もう一度、見えもしない空を俺は捜し求めた。
 鉄格子越しに見えるのは灰色の壁だけ。
 青い空も白い雲も見えるはずがないのは分かりきっているのに。
                                (2001年作)

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2007/04/22

トーストとミルクとホセと

 久しぶりの休日なのに、タケシは朝から不愉快だった。
 夜来の雨がやまないから?
 違う。
 不快のタネはメールだった。コーヒーを片手にパソコンに向かい受信トレイを開くと、来るわ来るわ、迷惑メールの嵐だったのだ。
 係長という立場にあって、タケシは休日返上の日々が何年も続いていた。
 ようやくの思いで取れた休みなのである。

 この前、大方のスパムメールは「送信者を禁止する」機能で片付けたはずなのに、また、増えている…。

 チェッと舌打ちしながらも、片っ端から「送信者を禁止する」機能で処理していく。
 案外とこの処理が楽しかったりする。
 世の中の汚物を始末しているような、妙な快感を感じているような気がしていたのだ。安価なゲーム機で敵を打ち落とす感覚にどこか似ていた。

 こんな単純作業を続けているうちに、ふと、タケシは思い当たることがあった。


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2007/03/04

何処へ消えた?

 これはオレがまだ、現役の泥棒だった頃の話だ。

 かねてより、物色していた物件があった。共稼ぎの夫婦の家だった。当然ながら、二人とも、日中はいない。先に帰ってくる女房も、早くても五時半過ぎの帰宅だ。旦那の帰宅時間までは把握出来ていない。まあ、夕方以降ということだろう。

 午前の十時を二十分ほど回った刻限だった。
 主婦達の、ゴミ出しや掃除、その他の家事が一段落し、近所も一時的に閑散とする時間帯を狙って、家に忍び込んだ。
 どうやって鍵を開けたかって。それは内緒。営業上の秘密さ。ま、何も道具なんてなくたって、それこそピンの一本もあれば、大概の家は入れるのさ。

 案の定、家には誰もいなかった…、いないはずだった。
 オレは、父親がゴミを片手に、慌しく出勤するところも、母親が割烹着の格好で、歩いて十分ほどの総菜屋にパートの仕事をするために向ったのも、近くのビルの外階段から覗いて確認していたのだ。

 なのに、薄暗い家の中に人の気配がする…。商売柄、人の影には敏感なのは言うまでもない。

(気付かれたか…。大丈夫か…。)

 オレは、廊下の突き当たりの隅で石になっていた。静寂。オレの心臓の高鳴りだけがドクンドクンと、やたらと煩い。 不意に柱時計がボーンとなった。十時半。

 床を踏む音はまるで聞えない。しかし、誰かいる。オレには分かる。勘だけれど、狂いなどありえない。鴬張りの廊下じゃあるまいし、廊下が鳴くわけがないのだが、廊下がキュッキュッ泣いている。誰かが風呂場と思われる辺りからやってくるのが感じられた。

 すると、しばらくして小さな男の子の姿が現れた。どうしてガキが?! 二人暮しじゃなかったのか?!

 ガキは次第にオレのほうにやってくる。廊下の隅っこの長持の陰に身を潜めているけれど、見つかるのは時間の問題だ。あまりに予想外で、ちゃんとした隠れ場所を確保する余裕などなかったのだ。

(くそっ、どうする?)

 逃げるに逃げようがなかった。こうなったら開き直るしかない。
 動悸が、苦しいほどだ。ガキ一人、殴るかどうかして、逃げればいい…。泥棒はしても、人に手は上げないのが信条だったけれど、今回ばかりは仕方ない…のか …。万事休すだ。

 とうとう男の子は、オレの前に立った。不覚にも、つい目を閉じていたオレは、恐る恐る目を開けた。が、男の子は、そこに誰もいないかのように、そのまま過ぎ去っていった。
 回りの様子など眼中にないかのようだった。

 ガキは襖を開けて座敷に入った。そこには黒い大きな物体があった。目を凝らして見詰めてみると、その物体の正体は、どうやら巨大な冷蔵庫らしいと分かった。
 座敷に、しかも、あんなにでかい冷蔵庫!

 ガキには重そうなドアを開けると、庫内から灯りが洩れる。気のせいか、冷気がこちらまで漂ってきている気がする。ガキの顔はドアの陰になって表情を窺うことは出来ない。背中ばかりが白熱灯の光に照らされ丸く見える。

 突然、ガキは、「見つけた!」と叫んだ。
 オレは、黙れ、声を上げたら、まずいじゃないかと叱ってやりそうになった。

 ガキは、庫内の奥に上体を突っ込んでいる。感じでは、手を思いっきり伸ばしているようだ。が、なんだか様子がおかしい。手が抜けないようなのだ。一体、何をしているのか。オレには分かるはずもなく、もどかしかった。ガキは懸命に手を引っ張り出そうとしている。
 そのうちに、庫内の何かを引き摺り出そうとしているのだと分かってきた。

 ガキは、なんだかブツブツ呟いている。(こんなところに隠れちゃ、ダメだよ)と言っているように、オレには聞えたけれど、断言はできない。
(かくれんぼなんだから、見つかったら、あきらめなくちゃ)とも、言っている?
 そのうちに、ドスンという小さな、しかし妙に鈍い音がした。とうとう何かを畳の上に出すのに成功したのだ。
 一体、獲物は何なのか。
 身を乗り出して確かめたいという衝動を辛うじて制した。

(かくれんぼは終わりだよ)という声が聞こえたかと思うと、不意にまた、パタンという音。
 どうやら冷蔵庫の扉が閉められたらしい。
 が、男の子の影が見当たらない。
 死角になったのだとしても、気配くらいはあるはずだ。なのに、家の中の、人の体に由来する微妙な空気の変化の源は、どう探ってみても、オレの辺りにしかない。
 つまり、居るのはオレだけだということだ。
 ガキは何処へ消えた?!

 どれほど身を潜めていたのだろう。一時間? まさか! せいぜい数分のはずだ。泥棒の仕事は、安全・的確・迅速が旨なのだ。無用な長居などするはずもない。
 ただでさえ、予想外の出来事に窮しているというのに。
 オレは、何も盗らないで逃げることにした。

 が、ガキが何を冷蔵庫から取り出したのか、確かめたいという欲求には勝てなかった。空いている襖から座敷の中を覗き込んでみた。
 何もない! 誰もいない!
 ガキは何処へ消えた?!
 それとも、間違って冷蔵庫に閉じ込められてしまったのか?!

 オレは軍手をした手を冷蔵庫の扉の取っ手に懸け、思い切って開いてみた。

 開いた瞬間、大量の水が畳の上に零れてしまった。幸い、オレの足までは水は飛び散らなかった。
 恐る恐る中を覗くと、庫内の下段に油紙で包まれ麻縄で括られた丸っこい物体が室内灯に照らされているのを発見した。
 さすがに荷を出して、紐を解く余裕などない。正体を確かめるなんて論外だ。
 もう、時間がない。不審なことだらけだったが、逃げるしかないのだ。

 数日して、新聞に小さな記事が載っていた。
 その共稼ぎ夫婦が自首した。自分たちの子どもを殺したというのだ。

 何でも、留守中に家に泥棒に入られ、よりによって冷蔵庫の中まで荒らされ、庫内に冷凍していた子供が見つけられてしまった、だから、二人で相談し、観念して自首することにした、そう記事には書いてある。

 体罰を加え、衣服で一杯の箪笥に押し込んでおいた、でも、ある日、気が付いたら子供は死んでいた、とも。

 近所の人の話では、子供は病気で隣町の病院に長期入院していることになっていたとか。

 泥棒? オレのことか。けれど、オレは何もしてないぞ。未遂だ。発見したのはガキなんだぞ。
 オレは掴まっていない。だから、真相は誰にも漏らしていない。
 真相…?
 そうだ、あのガキが何処から来て何処へ去ったのか、オレには未だにさっぱり分からないでいるのである。
                          (04/04/22 記)

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2007/02/09

幽  霊

「お前はさ、幽霊って信じる」
 いきなりの質問だ。といっても、それが奴の癖みたいなものだ。奴だけに流れるリズムがあって、どうやら突然、疑問が浮かぶらしいのだ。
 いつもマイペースの奴は、疑問が浮かぶと我慢できない性質だ。そばにいる誰彼に質問をぶつける。
 今日の奴の質問癖の犠牲者は俺だということ。

「ゆ、幽霊?」
「うん、幽霊。この世の中に存在すると思う? 存在すると信じてる?」
 幽霊のことなど考えたことなどない、と言うと、ちょっとばかり嘘が混じる。でも、真剣に考えるわけもない。こんな時は、逃げるが勝ちである。相手に同じ質問を投げ返してやればいいってわけだ。

「そういうお前はどうなんだ、信じてるのか」
「僕か? 僕は信じてるさ。存在しないわけないよ」
「へえ、信じてるだけじゃなくて存在しないわけないだなんて、やけにハッキリ断言してくれるじゃないか。どうしてだよ。信じてるってだけなら、分からんでもないけど、存在するって決め付けられると、なんだか問い詰めたくなるな」
 俺たち二人は、居残りの仕事を終えたばかりだった。
 事務所でお客の問い合わせに四苦八苦したものだから、やっと開放されてホッとしたというより、脱力感で一杯だった。
 もともと俺は夏バテなのか、今日は体調がすぐれなかったのだ。

 が、頭がボーとしているのは、俺だけのようだった。奴は、仕事の興奮が覚めやらないという感じなのである。
 そういえば、電話で相当、激しい遣り取りを交わしていた。顔を真っ赤にして、怒り心頭に達するのを懸命に堪えていたのが、傍にいても察せられたものだ。
 まさか、客と幽霊談義でもしてたのだろうか、それで今になって俺に質問をぶつけているのか。まさか。

 俺たちは街灯の弱々しい町外れの道をトボトボと駅を目指して歩いていた。
 あと一時間もすると、始発の電車が来る。駅のロータリーの噴水近くで屯(たむろ)しながら電車を待つのが、この頃の週末の習いになっていた。せめて土日は休みたくて、金曜日の夜は時間に関係なく仕事する。
 というより他の連中は早々と帰ってしまうので、俺たち二人が残って仕事を片付けるしかないのだ。
 残業。でも、只働き。そんな不遇を共に味わっている。なんとなく、俺たち二人には戦友みたいな気分があるのだった。だからこそ、突拍子もない奴の質問にも付き合うって訳だ。

「あのさ、人間って何だと思う?」
「えっ、今度は人間かよ」
「いや、だからさ、人間って、やがて死ぬだろ。で、死んで灰になるとして、あとには何も残らないのかなってことさ」
「そりゃ、だから灰だろ、骨だろ、何かの遺品だろ、運がよけりゃ財産が少々かな。あと、何だろ…」
「ってことはよ、人間の気持ちのようなもの、魂なんて大袈裟なことは言わないけどさ、心というのかな、そんなものは消え去るってことか?」
「そうだろ。残るって思うのか。残るとして、何処に残るんだ。この世で浮かばれないで漂ってるってか」
「だからさ、幽霊は存在するかって聞いたんだよ。あのさ、医学が発達して、血液なんてとっくに輸血とかで他人と交換できるだろ。骨だって内臓だって、皮膚だって、交換できるか、ま、そのうちに自分の細胞から人工の、それこそ免疫の…、その…、なんだ、とにかく拒否の心配なしの、いいのができるわけだ」

 俺はとっくに半分、意識が薄れていた。できれば道端にバタッと倒れこみたいくらいだった。奴の言葉が分厚い壁越しの呟きに聞こえる。
「それがどうした」
「だからさ」
 だからさ、というのは、奴の口癖である。
「だからさ、ということは、その人がその人であるものって何なのかってことさ。だって、みんな交換可能なんだろ。人工で作ることができるんだろ。遺品とか財産の類いなんて、簡単に消えるし、盗まれるし、どっちにしても、死んだらあの世に持っていけるわけじゃないし」
(ああ! こいつは当たり前のことを言っている。それがどうしたというんだ!) 意識朦朧としている俺は、自制心も利かない。
 そのうち癇癪を起こしそうだった。何だってこいつはこんなに元気なんだろう。何なら、頭をぶち割って、脳味噌を覗いてみたいものだ。

 その瞬間、俺の脳裏に閃光が走った。
 まさか、こいつは俺の過去を知っているんじゃなかろうか。俺が消し去った女のことを。誰も知るはずもない、その女とのことを当てこすってやがるんじゃなかろうか。

「ってことはさ、俺が俺である証拠って、どこにあるんだ? 身の回りの品なんて、どれも代替可能だし、どっちにしても誰のものであってもいいわけだし、それが現代じゃ、体まで代替可能で、要するこの体だって、たまたま俺が所有しているだけってことじゃないか。じゃ、俺は一体、何者なんだ。そもそも肉体以外に俺ってありえるのか?」

 俺はもう、眠気と疲労で吐き気がするほどだった。その上、疑心!
 脳髄の奥がガンガン鳴り響いていた。やっと仄見える駅の赤い灯りが血の滲みに感じられていた。赤黒い滲みが脳髄に伸び拡がって、やがてあの無様な格好で横たわる女の姿を思わせたりするのだった。
 まさか、彼は女のことを探るために俺に近づいてきたのか。人嫌いな俺に親しく付き合うのは、そのせいなのか。俺と奴とは仕事上の戦友だなんて、俺らしくないお笑い種だったのか。

 空は晴れている。気持ち、霧か靄が立ちこめている気もする。なのに、星が数え切れないほど瞬いている。それは星の煌きというより、頭をハンマーで叩かれた瞬間の赤い衝撃のようだった。月が山並みに姿を没している辺りには、光暈(こううん)がワンワン湧き立っている。闇の底に微かに夜明けの予感が漂っていた。
 早く帰って寝たい。何なら、そこらの公園で寝たって構わない!

「その肉体が、実は交換可能な仮初のものだとしたら、俺は一体、どこにいるんだ。俺って何なんだ?」
(そんなことは、こっちが聞きたいよ!)怒りで、思わず叫びそうになった。
(今更、昔のことを持ち出すんじゃないぜ。もう、この世から消え去った女じゃないか!)
 このままじゃ、何が口を突いて出るか知れたものじゃなかった。

 が、幸か不幸