小説(ボクもの)

2009/07/30

頬杖

 頬杖ついているあの子は、何を想っているんだろう。多摩川の土手に腰掛けて、じっと川のほうを眺めている。
 声をかけてみたいような。
 でも、そんなことができるわけもない。
 俺は、子供には、いや誰にもただの小父さん。それも変な小父さんに過ぎないのだ。
 あと、ほんの数年もすれば太鼓腹になりそうなお腹を見ると、遠くで、できるだけ遠くで見つめているしかない。

 あの子の視線の先を追ってみる。川面? そうかもしれない。川の向こう岸の釣り舟が珍しくて、関心が奪われているだけなのかもしれない。

 ぼーんやり、川を眺めている。

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2009/07/18

梅雨空に寄せて

 昔、星と月とは相性が悪いのではないかと考えたことがある。
 どちらも晴れ渡った夜の空になくてはならない存在なのだけれど。

 そう、あまりに月が煌煌と照ると、本当ならもっともっと数多くの星々が煌くはずが、月の光の故に、星がその影を薄めてしまい、夜の空が淋しくなってしまう、そんな気がしたのである。
 そうはいっても、晴れてさえいれば、月が照り映えていても、星たちは精一杯に輝いていてくれる。星は月の有無など、知らぬ顔で、ひたすらに光の矢を届けつづける。

 いつだったろうか、何かの本で、今、見ている星の光は、数年前、数百年前、数千万年前、中には数億年前のものもあると知ったのは。
 月だって、太陽の光の反射で、光はあっという間に届くとはいえ、一秒余り前の光なのだ。

 だけど、星の光の凄さには敵わない。

 今、自分が夜の空を眺めていると、この瞳には無数の時間が同時に届いている。水晶体の中で共鳴し合っている。脳裏の何処かで木霊し、時にボクを震撼させる。

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紫陽花の雨

 あれはオレが初めて恋をした時のことだ。
 小学四年になって間もない頃だった。

 当時のことを思い出すと、オレはボクになってしまう。

 雨の降る中、学校から急いで家に帰ろうとした。走れば家まで数分。朝から雨が降っていたって、傘なんか差さない。傘なんて、邪魔なだけ。濡れたって、着替えればいいんだし、へいっちゃら。

 もっとも、その日は、朝は降っていなかったはずだ。天気予報にもない、不意の雨だったのかもしれない。
 その日は、校庭の隅っこにある用具室の裏でグズグズしていた。
 そこからは校門がよく見える。

 そう、ボクの好きなあの子が下校するのを待っていたのだ。彼女は、ピアノの教室に通っている。だから、学校が終わると、すぐに帰宅することをボクは知っている。

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2009/03/05

ボクの猫

 この頃、妙な夢を見る。
 いい年をした私が、何故かあの頃のボクになっている。大人になってしまった今の私のような、幼かったあの頃のオレのような、宙ぶらりんな自分が、長いような、短いような旅をする。

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 夢の中のボクは子供なのか五十路となった大人なのか、自分でも分からない。
 きっと、私は何歳になってもボクなのだろう。

 旅…といっても、迷子になった<ボク>が彷徨っているだけなんだけど、夢の中のボクにとっては心の旅に違いない。

 その夢には何故か、必ず猫が登場する。
 それが一番、私には不思議だ。私には猫に絡む思い出などない。猫を飼ったこともない。
 なのに、どうして猫が現れるのか。

 似たような夢を繰り返し見る。
 いつも、最後には猫にそっぽを向かれてしまう。
 で、ボクは声にならない声で咽び泣くのだった。

 でも、とうとうある日、違う結末の夢を見たのだった。


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2008/03/31

メロディが鳴っている

 突然、懐かしいメロディが聴こえてきた。
 家の近くにある用水に架かる小さな橋を渡っていたときだった。

 引っ越してきて、家の周辺を一人で散歩するのは初めてだった。
 何日か前、誰かと一緒にこの橋も渡ったことは覚えている。
 初めての橋じゃない。

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 辺りには誰もいない。
 直前に見知らぬ人が自転車で駆け抜けていったから、もしかしてその男がとも思ったけれど、後姿はとっくに小さくなっていた。鼻歌も何も聴こえるはずがない。
 大体、近付くときには何も聴こえなかったはずだ。

 周囲を見回してみた。
 せいぜいこの十年ほどの間に建ったような家々が並んでいる。
 人影はない。窓も扉もしっかり閉じられている。
 春が近いとはいえ、まだ寒いのだ。

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2008/02/10

滑り台

 あれはずっと昔のこと。もう、記憶の彼方になっている。
 でも、忘れられない。
 忘れられないけれど、一体、何があったのか、自分でも分からない。
 分からないけれど、何かがあったんだと、疼く胸がハッキリと伝えてくる。

 オレは、あの日、一人で公園の滑り台で遊んでいた。その滑り台は、今にして思うと、人研ぎ滑り台という形だったと思う。
 当時は当たり前の形だったような気がするけれど、ま、そんなことはどうでもいい。

 滑り台の上に登っては、滑る。登っては、滑り降りる。降りては、駆け上っていって、天辺からまた、勢いよく滑り降りる。
 滑り台の下のほうは、傾斜がなくなっているので、降りていっても、ちゃんとブレーキがかかるようになっている。無論、滑り降りた先には砂場がある。

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2008/01/29

ふでおろし

 我が家の伝統で、息子の筆下ろし(ふでおろし)には父と母が立ち会うことになっている。

 それは、水ぬるむ5月の初めだった。
 祭日の朝、いつもより早く、突然、母が真面目な顔をしてボクを起こしにきた。

――父の書斎に来られ。

 そこでは父が、座卓に向かい何か書き物をしている。
 父は大切な人には、わざわざ硯で墨を磨り、毛筆の手紙を書いて送るのである。手紙の隅には、顔彩で山里の風景やら田園風景やら、あるいは庭の雑草などを軽く描き添える。
 我が父ながら、なんとも息を飲む見事さだ。鼻には墨の香りがツンと来て、なんとも心地いい。

 その間、ボクは坐って待たされる。
 でも、父の手際に見惚れているから退屈はしない。いつかはボクだって父のようになりたい。母もボクの斜め後ろで父が用件を終えるのを黙って見守っている。

 日頃、カカア殿下の我が家でも、書斎では父が断固、上席なのである。口を挟ませない。この四畳半の限られた空間だけが父の天下なのだ。

 やがて、用件を片付けた父が、語り始めた。
 その表情は、いつもと違う。

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2008/01/23

犬とコロッケ

 あれはいつもと同じように一人で学校から帰る途中での出来事だった。
 あの頃の俺は、みんながそれぞれ友達と帰るのが羨ましかった。いつかは俺だってと思っても、結局は一人ぼっちで帰る羽目になってしまう。

 みんな連れ立って一体、何処へ行くんだろうか。
 単に帰る方向が一緒だから、すぐそこまで一緒になるだけなのだろうか。それとも、何処かに秘密の面白い場所があって、ワクワクする思いでそこへ向かうのだろうか。
 だから顔があんなにもにこやかなのだろうか。

 俺には何も分からなかった。

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2008/01/19

誰かが見ていた

 何歳の頃のことだったかよく覚えていない。
 物心付いたかどうかという頃だった。
 まだ雪が降っていなかったから、師走だっただろうか。

 父のあとに付いていった。
 土間。秋口までは農作業で人の出入りで賑やか。足踏みの脱穀機やら千歯こきやら竈(かまど)やら稲藁やらで足の踏み場もないほど。

 でも、農閑期ともなると、冷たい空気が肌を刺すだけ。竈も臼や杵が隅っこで大人しく出番を待っているだけ。

 父が何の用事があって土間に向ったのかは覚えていない。

 多分、最初から分かっていなかったと思う。好奇心だったのだろうか。
 それとも、何か無言の圧力のようなものが引っぱっていったのか。

 深々とした土間の隅で父が突然、蹲(うずくま)った。
 そいこは古い角材が積み重ねられていた。その裏のほうから何かを引っ張り出した。

 見ると、手に何やら金網のようなものを手にしている。

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2007/08/24

夕焼け雲

 ずっと昔、ずっとずっと昔のこと。
 おれがボクだった頃のこと。
 
 ボクにはお兄ちゃんがいた。頼りになる近所のお兄ちゃんだ。ボクがいじめられていると、助けてくれる。
 でも、二人っきりだったりすると、時々、ボクをいじめるので、そんな時はボクはお兄ちゃんをオニちゃんと声に出さないで呼んでいた。

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← 真っ青な空。空の青以上に紺碧の運河の水面。

 ある日、何処かの町をボクはお兄ちゃんと歩いていた。
 はっきり覚えていないのだけど、縁日へ行く途中だったような気がする。
 一人ぼっちで庭先でしょんぼりしているボクを見かねてお兄ちゃんがボクを連れ出してくれた…ような。
 お兄ちゃんは縁日は隣の町でやっているという。
 隣の町!
 ボクには遠い遠い、山の向こうとも思える。そんな見知らぬ町へ行くなんて、ボクには大冒険だ。

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2007/07/17

虹の彼方に

 あれは…オレが五つか六つだった頃のこと。

 激しかった雨が上がったと思ったら、白い雲があるだけで真っ青な空が広がり始めた。
 示し合わせたわけでもないのに、近所のガキ連中が集まってきた。
 集まる場所は大体、決まっている。何故だか大きな土管が隅っこに置いてある原っぱだ。
 そこで、野球をやったり、縄跳びしたり、石蹴りしたり、鬼ごっこをしたり。
 土管の中で、お医者さんごっこもしたっけ。

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 小学校の高学年の子もいたはずだから、土曜日の午後か日曜日だったのか。

 集まったからには、何かして遊びたい。
 でも、みんなの考えが纏まらないうちに、誰かが、虹だ! と叫んだ。
 
 雨上がりの青い空に雲から突き出る七色の剣のような虹が姿を現していた。
 でっかい虹だった。
 あんな虹は、ボクは、いや、とっくにガキの心を失ったオレも見たことがない巨大な虹だった。

 しばらくはみんなあまりの見事さに見惚れていた。

 そのうち、仲間のリーダー格である兄ちゃんが、虹の根元って知ってるか、と聞いた。

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2007/06/25

丘 の 河 童

第二十四回 Mystery Circle」参加作品です。詳細は、「「Mystery Circle」の夜」を御覧ください。
 要は、「列車の警笛がなりひびき、金属製の車輪が路線をとらえる音が、どんどん近づいた。」が始まり(近く)で、「そのあとは、何もかも真っ白になった。」が文末(近く)が縛りとなっている創作、という課題に則った作品なのです。

 お題の出典は、下記:
『ペンドラゴン 死の商人』 著:D・J・マクヘイル

丘 の 河 童

 列車の警笛がなりひびき、金属製の車輪が路線をとらえる音が、どんどん近づいた。

 ああ、兄ちゃんがやってくる!
 あの列車には、あの兄ちゃんが乗っているのだ。我が家に遊びに来るんだ。


 いつのことだか、はっきり覚えていない。ボクがお袋に連れられてお袋の田舎に行った時のことだということは分かる。まだ保育所に通っていた頃のことだったろうか。
 細切れだけれど、何処か懐かしい風景を思い出せる。
 でっかい家で、垣根に囲まれていて、垣根の向こうには田圃や畑が何処までも広がっていて、なんだか、凄いところに来たなという感じがあった。

 ボクの家だって周りは田圃だらけなんだけど、その規模が違っていた。田舎じゃ、何処まで真っ直ぐ走っても、隣りの家には辿り着けないような気がした。少し霞んだ彼方には、鬱蒼と生い茂った森が見えた。
 森の中に一際、陰の濃い一角があって、誰に聞いたのか忘れたけど、あそこが「チンジュの森」だと教えられた。
 あの頃、ボクには「チンジュ」という言葉の意味が分からなかった。ただ、幽霊とか魂とかお化けとか、漫画か何かで見知った得体の知れないものを連想していたような気がする。

 お袋は、郷里にいて、のんびりしているようだった。お袋の姉妹たちや親戚の人たちが一杯いて、心置きなくお喋り三昧というわけ。まるで娘時代に帰ってしまって、ボクのことも、ほったらかしだった。
 お袋のお母さんやお父さんは、いたんだろうか、覚えていない。家の奥の座敷に居て挨拶したような気がするけれど、記憶はあいまいだ。

 兄弟姉妹は何人もいたけれど、ボクと同年代の子供はいなかった。みんな、ボクよりずっと年上か(といっても、四つか五つ程度だけど)、でなかったら、赤ちゃんだった。
 ボクは、年齢的に、ちょうどみんなの玩具にされる年頃だったようで、ちやほやされたり、何かというとお八つをくれたり、嬉しいんだけど、こそばゆい感じがして、なんだか面倒だった。

 そのうち、みんなに構われるのが嫌になって、特別興味もなかったのだけど、玄関に置いてある木彫りの動物たちを眺めていた。そこにはタヌキやらクマやらキツネなどの動物が並んでいた。
 中にはどうみても、裸の少年の彫り物もあった。

 見上げると壁に巨大な亀の甲羅が飾ってあった。ボクなんかより図体がデッカイ! 甲羅はワックスでも掛けられていたのか、顔が映りそうなほどにピカピカなのだった。
 
 すると、後ろから声が掛かった。
「それ、何か、分かるか」
 ボクは咄嗟のことで、返事できなかった。でも、内心は、答えが分かっていた。「カメ」って言いたかった。けれど、何故か口ごもってしまった。

「なんだ、知らないのか。河童だぞ」
「えっ、カッパ?」

 ボクは悔しかった。河童くらい、ボクだって知ってるさと言い返したかった。でも、内心、カメじゃないのっていう思いもあって、どう反応していいのか分からないでいた。

 お兄ちゃんは、ボクがためらっている間に、奇妙なことを言い出した。
「この河童、川にいた奴を似せて作ったんだぜ。ここに並んでいる動物は、みんなそうさ。近くの森にいる奴らを模したものなんだ」
「みんな?」
「ああ、みんなだ。山のほうへ行けば、クマもいれば、キツネもいる。河童も近所じゃないけど、いるんだ。裏の川を遡っていくと、河童の奴が棲みついている場所があるんだぜ」

 それから、おもむろに付け足した。
「お前、これ、カメだと思っただろ」
「そんな…」
「河童だなんて言うと、大抵の人は馬鹿にするから、カメに似せているけど、もともとは河童だったんだ」

 ボクは、河童は空想の動物だってことを聞かされていたから、あまりのことに驚いた。

「えっ、河童って、ホントにいるの?」
「いるさ。だから、ここにこうして置物になってるんじゃないか。俺んちの父ちゃんが捕まえたのさ。檻に入れてさ、殺しちゃう前に、記念だからって、得意の腕を揮って、木彫りの彫刻にしたってわけさ。河童の甲羅なんて、そのままじゃ、やばいからって、亀に似せたってわけさ」

 ボクは訳が分からなくなった。目の前の置物は、とても本物らしく見えた。足のヒレとか、頭の皿とか、細かなところまで掘り込んであって、どうみても、本物のカメそのものに思えていた。

「どうだ、河童、見てみたいと思わないか。それとも怖いか?」
 ボクは兄ちゃんの表情がなんとなく怪しくて、断りたかった。でも、あまりに魅力に満ちた誘いだった。男の意地もあった。怖がっていると思われたくなかった。知らず、頷いているのだった。

 裏の川は、さすがに当時のボクには無理だけど、中学生ほどになれば、飛び越せるような細い川だった。タニシとかをお兄ちゃんが獲ってくれたりしたこともある。
 その用水路のような川の土手沿いの道を、お兄ちゃんと二人、何処までも歩いていった。チンジュの森の奥へ分け入っていった。家がドンドン小さくなっていく。終いには深い木立にさえぎられて家が見えなくなってしまった。
 いつもは口数の多いお兄ちゃんが、何故か沈黙を守っていて、ひたすら先を急いでいるようだった。
 
 川はやがて、細い筋になっていったと思ったら、そのうちに林の中に呑み込まれていくのだった。これじゃ、どうやって河童が棲めるんだろう。勘の鈍いボクも、そんな疑問を抱いた。

 でも、林を分け入っていくと、すぐにそんな疑問は氷解した。
 突然、ゴーという水が激しく流れ下る音が聞えてきた。と思ったら、水しぶきの上がる渓流が眼下に見えたのだ。

 そう、ボクたちが辿ってきた筋は、もっと大きな川のほんの小さな支流に過ぎなかったのだ。

 崖の上にボクたちは上っていった。上流のほうを望むと、滝があった。高さはどれくらいだったろうか。ガキのボクには、迫力を感じるばかりだった。あまりに意外な景色に、呆然と見惚れていた。

「あそこが河童の棲み処さ」
 お兄ちゃんの声だった。
「えっ、何処?」
「あの滝壷の辺りに河童が棲み付いているんだ」

 ボクは、しばし、轟々と流れ落ちる水の迫力に圧倒されていた。
 水しぶきは夢の中で見た竜のような、蠢く巨大な蛇のような、不思議な生物となって、滝を落ち、水面と衝突し、白い噴煙を上げ、一気に破裂するのだった。
 光の加減なのか虹が出来て、それがまた水しぶきを竜の胴の鱗のギラツキに見えるのだった。

 兄ちゃんに促されるままに、滝の真下近くの岩場に立った。水しぶきが顔だけじゃなく全身をずぶ濡れにするのだった。
 水面は、巨大な竜の胴体をやすやすと飲み込み、深い深い水の底へと引き摺り込む。
 汚れのない綺麗な水のはずなのに、渦巻いていて、水面を覗き込んでも、水底など、まるで覗き見ることは叶わなかった。

「河童はな」と、お兄ちゃんは、滝の音に負けないよう、大声でボクに言った。
「この水底に棲んでるんだぜ」

 ボクは足が震えていた。今にも河童の奴が水面に顔を出し、それどころか手だって伸ばして、僕の足首を掴まえ、水の中に引っ張り込む、そんな恐怖を覚えてならないのだった。

「お前さ、河童って、どんな恰好してるか、知ってるか?」
「河童? 知ってる。図鑑で何度も見たことあるし」

 すると、兄ちゃんは、ふふふと不気味な笑いをするのだった。

「お前、勘違いしてるぜ」
「勘違い?」意味が分からなかった。

「あの、頭が皿で、ヒレがあって、背中にカメの甲羅みたいなのを背負った奴を河童だと思ってんだろう」
「そうじゃないの。ちゃんと図鑑で見たよ。空想の動物だって書いてあったけど…」

 ボクは、空想の動物ということを強調したかった。存在して欲しくなかった。そんなもの、見たくなかった。もう、帰りたい一心だった。
 すると、兄ちゃんは、また、ふふふと得体の知れない笑い声を上げた。

「何がおかしいの?」

 しばらく、奇妙な沈黙があった。滝の轟音ばかりが鳴り響いていた。

「お前に河童の正体を見せてやる」
「河童の正体?」
「そうさ。お前、ウチに裸の子供の彫り物があったの、覚えてるよな」
 そう、言いながら、お兄ちゃんは服を脱ぎだした。
 そして、真っ裸になった。

「ホントの河童は、オレなんだよ」
 そう言うと、兄ちゃんは、ボクの背中を押して、水面へ突き落としたのだった。
 そして、あとから兄ちゃんも飛び込んできた。

(ボクは丘の河童なんだ、泳げないんだ。溺れちゃうよ!)

 でも、水の中では声になるはずがなかった。ゴボゴボ、ガボガボという哀れな音がこもっているだけだった。

 水中には、ホントに河童がいた。兄ちゃんという河童が。兄ちゃんの魔の手がボクの足首を握って、水の底深く、引きずり込もうとしているのだった。

 それからあとのことは、何も覚えていない。透明なような、濁っているような、泡だらけのような、真っ白な雲の海のような、真っ暗闇な押し入れのような、高周波音の鳴り響く無音の宇宙のような、訳の分からない真っ赤な闇の時空を駆け巡っていた。

 気が付くと、ボクは、岩場の何処かに横たわり、青い空、白い雲を眺めていたようだった。が、すぐにまた、紅い闇の坂道を転げ落ちていった。
 そのあとは、何もかも真っ白になった。

 やがて気が付くと、大きな屋敷の奥の座敷に一人、寝かされていた。襖の向こうの、はるか遠くの茶の間からは、みんなの賑やかな談笑の声が聞えてきた。
 中でも、兄ちゃんの笑い声が、一際大きかったことをボクは覚えている…。
 
 あの事件のことは、兄ちゃんにはただの冗談だったのだろうし、とっくに忘れていることらしいけど、オレは決して忘れちゃいない!
 あれから6年。オレはもう、あの頃のガキなんかじゃない。

 オレは密かに誓っていた。今度はオレが河童になってやる。
 そして、兄ちゃんを…。

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2007/04/10

蜃気楼の欠けら

 バスが魚津にあるまいぼつりん博物館の駐車場に着いた時は、ボクはフラフラだった。
 ボクはバスに弱いのだ。
 バスの排気ガスに酔うのか、揺れるバスに弱いのか、ボクには分からない。
 乗ってものの十分もならないうちに、それこそ、まだ発車していないうちにでも、バスに乗ったというだけで、酔う。
 酔っているような気分になる。
 酔わないと、かえって自分が変なのかもと心配になるほどだ。
 だから、遠足なんて、大嫌いなのだ。

 先生が何か言っている。
 バスを誘導し終えたバスガイドさんが降り口のところで、立っている。乗り物にも弱いけれど、見栄っ張りでもあるボクは、足元がふらつかないよう、懸命に降りた。

 ああ、きれいなおねえさん。
 でも、ボクは、言ってらっしゃいというガイドさんの声に返事も出来なかった。
 酔っていたから、それとも、恥ずかしかったからなのか、考えないことにした。

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2007/01/21

ボクの金閣寺

 冬の北陸特有の鉛色の空だった。
 分厚い雲が垂れ込めていて、庭に出て北東の空を見ても立山連峰は見えない。
 夏の白銀に輝く、天空の襟首を飾るような巨大な屏風も、北陸の冬の空にはすっかり凍えてしまっている。

 皮肉だ。夏よりはるかに純白な衣装に身を飾っているというのに、姿がまるで見えないなんて。
 そうか、今は遠くの空より一面に降り積もった眼前の雪を見ろ、ということなのか。
 雪の眩しさに目が瞑れてしまえ、ということなのか。

 ああ、どうでもいいようなことばかりが頭に浮んでくる。
 憂鬱なのだ。
 何か鬱屈したものが蟠(わだかま)っている。
 暗い情の河が堰き止められて、今にも溢れてしまいそうなのを感じる。
 こんな時は、何もかも吐き出してしまうことだ。

 不意に目頭が熱くなるのを感じた。

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2006/11/26

今夜も兄ちゃんがやってくる

 夜、ボクは近所の兄ちゃんに連れられて外に出た。

 どこへ行くの?
 もう、ボク、寝る時間なんだよ。

 夜の町を探検しに…。
 
 兄ちゃんは、そう、ポツリと。

 どこまで歩いていくのだろう。もう、とっくに町外れに来ている。
 見たことのない家、石垣、崖、曲がり角。
 
 とうとう家など一軒もなくなっていた。
 夜だから見えないのだろう、そう自分に言い聞かせてみた。
 でも、目を凝らしても何も見えない。
 見えるものというと、鬱蒼と生い茂る木々の枝葉。

 それだって、本当は怪しい。
 枝葉だと思っているけれど、何か巨大な怪物の横っ腹なのかもしれない。
 ゴツゴツしてシワだらけの分厚い皮膚。
 死んだ時のジイちゃんの手の平の感触。

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2006/08/05

雪人形

[本作は、ホーソーン著『ホーソーン短篇小説集』(坂下 昇編訳、岩波文庫)所収の「雪人形」という佳品を読んで触発されて書いたもの。ただし、ホーソーンの世界とはまるで違うものとなっている。「無精庵徒然草」で公表したものを「創作の庵…掌編、俳句、川柳の東屋」であるここ「無精庵方丈記」に転記しておく。]

 五つか六つの頃、ボクは田舎の一軒家に住んでいた。

 あれは雪の降りしきる日のこと。
 ボクは雪の野に不思議な光景を見ていた。
 我が家の畑の隅っこに勝手に雪だるまが出来上がっていったのだ。
 降る雪は視界をさえぎるほどだったけど、風は吹いていなかった。
 なのに、我が家の庭の杉の木の天辺ほどの高さまで雪が舞い降りてくると、白い花びらたちは不意に落ちる行方を一点に決められていたかのように、庭の隅っこに向っていった。
 雪だるまはボクだって作ったことがある。新雪を手袋をした手ですくい、それこそ絨毯を丸めるようにして次第に固めていき、やがて真ん丸の雪のかたまりを大小二つ作る。
 二つの真ん丸を重ね、そこに炭か何かで目玉を付け、帽子をのっけて出来上がりだ。

 でも、あの日、出来上がっていった雪だるまはとても、そんなものではなかった。
 雪の日本人形だった。
 女の子の人形にしか見えなかった。

 おかっぱ頭で、瞳が大きく、睫毛だって長い、可愛い女の子。
 まるでボクにも彼女が欲しいなと夢の中で願っていた女の子が、いきなり目の前に誕生したみたいだった。

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2006/07/31

花火大会の夜に

 高校二年になって間もない頃のこと。
 ボクは、ついに彼女とのデートにこぎつけた。
 といっても、授業が終わって駅に付くまでの間の束の間のデート。

 本当なら自転車で通っているボクだけど、彼女が最寄の駅まで歩いていくことを知ったボクは、自転車が盗まれてしまったと言い訳して、歩いての通学に切り替えていた。
 そして、駅まで一緒に歩いていく。彼女は、結構、山のほうに家があって、授業が終わるとそのまま家のほうへ向い、家の近所にある琴の先生の家に行く。
 ボクはというと、ずっと帰宅部。クラブというクラブには所属したことがない。集団行動が大嫌いなのだ。
 せいぜい、二人が限界。
 そう、彼女との二人きりの集団生活…。
 Siontenjinhanabi
→ 紫苑さんに戴いた日本三大祭の一つ大阪天神祭(他は、京都の祇園祭、東京 の神田祭)での花火の画像です。船渡御も花火も御覧になったとか。この画像を見た瞬間、花火にちなむ掌編を書いてみようかなと思い立ちました。

 集団じゃないって? そんなこと、どうでもいいじゃん。

 ボクはいつまで経っても、駅までの数分のデートに歯がゆい思いをしていた。
 といって、琴の練習、お茶と、まるでボクには縁遠い生活を送る彼女に付け入る隙がありそうにない。
 一緒に歩いてくれるだけでも、嬉しいと思うべきだ、そんな風に自分に言い聞かせていた。

 そんなある日、彼女が駅の改札に消えていくのを見送った後、とある公園の脇を通りかかったとき、公園の片隅にあるブランコに高校生の男女がいるのを見つけた。

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2006/03/18

夜明け前

 ボクの一生が決まったのは、あの日だったような気がする。
 でも、何があったわけじゃない。
 きっと、昨日と同じようなありふれた日だったのだろう、みんなには。

 あれが始まったのは、夜明け前頃だったと記憶する。
 あれ…。
 あれと言っても、そう、口じゃ表現できない、不思議な感覚。
 むしろ、気づいた、と言うべきかもしれない。
 
 それは地上にポッカリ空いた穴。
 みんなが地上の世界にいるのに、ボクだけ穴の中にいる。
 穴の底からみんなを見上げている。
 みんなは?
 みんなは穴があるなんて気が付いていない。
 まして、穴の底にボクが落っこちたままだってことに気が付くはずもない。

 そう、だから、ボクが孤独なのも仕方がないと諦めていた。

 でも、違った。みんなは穴の存在に気が付いている。分かっている。
 だって、穴の傍に来そうになると、なんだかんだ言って、そこを避けていくじゃないか。
 ボクはそこにるんだよ。ああ、もうすぐじゃないか。あと一歩、そのまま歩いてくれたら、もう、ボクの真ん前のはず。
 なのに、誰かが、あ、忘れ物した! とか、用事を思い出しちゃった! とか、さも当然のように、穴を避けていく。避けるだけじゃない、遠ざかっていく。
 
 ボクはここだよ。ここにいるよ。

 昨日、そう、あの夜明けを迎えた前の日、ボクはみんなのほうへ近付いていった。誰も来ないんだったら、ボクが行くしかないじゃない!

 同じだった。潮の引くように、みんな、さーと引いていく。引き遅れた潮は、浜辺の端っこで慌てて、そうして水溜りになり、渦を巻き、やがて砂に吸い込まれていく。陽光に蒸発していく。

 残ったのは痕跡だけ。みんながいたという余韻だけ。木の葉が一枚と、空っぽのビニールの袋と、潮騒の音だけ。
 そこには穴が開いている。一緒には居られないから、せめてボクにその穴に潜れっていうこと? 穴で戯れていろっていうこと?
 たださえ、穴の底から狭い狭い空を見上げるばかりのボクが、またみんなの作った穴に埋まれっていうこと?

 姉ちゃんが来た。ボクの世話をしてくれる。誰もが他人行儀なのに、姉ちゃんだけは違う。姉ちゃんは橋だ。ボクとみんなとをつなぐ橋なんだ。

 ねえ、みんな、この子と遊んでやってよ。
 ああ、姉ちゃんはどうしてそんなに勇気があるんだろう。みんなが毛嫌いしているボクを、そのボクをみんなに売り込んでくれる。ボクだってみんなの仲間の輪に入りたいんだって、入って、みんなとはしゃぎたいってこと、分かってくれる。
 一人で居るのは好きじゃないんだ。穴の中にいるのは、生まれつきで、どれほど抜け出したくて足掻いたか、どれほど夜毎に泣き暮らしたかしれないんだって、もしかして、姉ちゃん、気が付いていたんだろうか。
 ボクは臆病者。自分が一人ぼっちだってことに気が付きたくないほどに。
 泣くときは、惨めだから忍び泣く。しくしく泣く。布団の中で、ね。

 だから、父ちゃんにも母ちゃんにも姉ちゃんにもボクが泣き暮らしていることは内緒のこと。誰も知るはずがないんだ!

 でも、姉ちゃんは隣で寝てるんだものね、気づかないわけがないんだって、間抜けなボクはずっとずっと後になって気づいたのさ。ボクは自分のことで一杯で、まわりのことに、それどころか姉ちゃんの気遣いにさえ、気づかないできたのだった。
 
 あの日、姉ちゃんは、近所の兄ちゃんたちと喧嘩したらしい。
 らしい、だけで、誰も教えてはくれない。姉ちゃんも黙っている。
 それでもいつかしらみんなの雰囲気や言葉の端々で、鈍感なボクだって分かってくるものさ。

 ボクは、この子は、こいつは、みんなと同じなんだって? 同じじゃないさ! どう見たって違うじゃないか!
 同じよ! 仲間よ! 言葉をうまく喋れないなんて、どうってことないじゃない! 顔が変だって、どうってことないじゃない! 
 姉ちゃんは一人でみんなと絶望的な戦いをした。で、負けた、らしい。

 
 そう、ボクに分かるのは、らしいってことだけ。
 真実なんて、誰も知らない。姉ちゃんだって、当時は小学校に上がったばかりで、夢中だっただけのようだし。
 
 近所のガキ仲間の中に起きた波は、ただの細波だった。一瞬にして大海の波に呑まれていった。

 いや、姉ちゃんは勝ったのかもしれない。
 ある日から、みんなの様子が変わったし。ボクは仲間の輪に加わったようだし。

 違う、加わった真似をしただけ。
 ボクだって懸命だった。姉ちゃんに不毛な苦労をさせるわけにいかない? 
 そんな殊勝なことを考えるガキじゃない。
 ボクは、仲間になったと思い込みたかっただけなのさ。金魚のウンコになったのさ。
 それでも、世界の端っこに居所を見つけたような気がしたし。

 ボクは…。ボクはというと、鳴門の渦潮に呑まれるばかりだった。渦は海にあるものって、みんなは思い込んでるんだろうな。
 でも、ボクには渦はそこらじゅうにあるもの。渦を巻いて風が全てを吹き飛ばしていく。何もかもを遠ざけていく。渦を巻いて地が裂けていく。ボクを呑み込んで地の底へ引きずり込んでいく。
 空の高みの眩しさと、地の底の闇の温みとがボクの全て。

 あの夜明け前、ボクは何に気が付いたんだろう。
 とにかく、ボクは何かに気が付いてしまった。
 ボクは決めた。ボクのために姉ちゃんまでが孤立しちゃう。そんなこと、許されない。許すわけにいかない。
 ボクはだから決めたんだ。姉ちゃんは姉ちゃん、ボクはボク。
 ボクは、独立する。ボクのために誰も犠牲になる必要なんて、ない!
 
 ボクは、あの夜明け前を最後に泣くことをやめた。
 泣くことをやめると決心した。
 布団を引っかぶって、そうして体を縮めて、蓑虫になった。貝の身になった。世界とボクは分かれた。ボクはボクだけの無意味を生きる。
 世界は、そう、どうぞ勝手にやってくれ! だ。

 そう、思った瞬間から、ボクはずっと楽になった。人へも世界へも、風にも木にも、あの空にも、海にだって、山にだって、別れを告げたのだ。
 想うタネが一切、消え去ってしまった。沈黙があるだけだった。哀しみも喜びも消え去った。闇さえ遠ざかってしまった。あれほどボクに寄り添っていた闇だったはずなのに。
 永遠の穴が開いているだけ。空っぽ。
 空っぽさえもない。ボクは何も感じない。

 そうしてボクは、あの日から幸せになった。何一つ、わずらうことなどないのだから、これほどすばらしいことがあるだろうか。何一つ、人と分かち合うものがない、この幸福を誰に告げよう!

 あれから、あの夜明け前の瞬間から、何年が経ったろうか。
 数年? 十数年? 数十年? 同じことだ!
 透明なパイプの中をボクは今も滑っている。滑らかだ。ざらざらしたところなど、何一つない。手応えなどない。
 
 はるか遠くに光明が見える。眩しい光の点が迫っている。穴の底の底に近付いているってことなんだろうか。
 全てはもうすぐ終わる。至福の時も終わる。

 ああ、あの夜明け前に覚えた不思議な感覚。空白感としか言いようのない、眩暈のしそうな、金属音が遠くで鳴っているような、それとも風が唸っているだけのような、限りなく透明な感覚。
 ボクはあの感覚に魅入られてしまったのだ。
 この世を失っても、世界を手放しても、世界に見放されても、あの不可思議な感覚の魅力には勝てない。
 
 それにしても、ボクは一体、何処にいるんだろう。

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2006/01/22

たき火

「ただいまー」
 玄関でそう、叫んでも薄暗い廊下の奥はシーンと静まり返ったまま。
 ランドセルを玄関の隣の座敷に放り投げて、家の裏手に回ってみた。
 昨夜、降った雪が日中の天気に溶けてしまって、納屋や土間の隅っこに点々と残っているだけ。
 田んぼにもまだらに雪が残っていて、なんだか田んぼが真っ黒に見えてくる。

 あれ、誰もいない。
 父ちゃんは仕事だから仕方ないけど、ねえあんもおかんもいないのはどうして?

 仕方なく、仏間の裏のぬかるむ砂利道を駆けて、ボクらのたまり場へ向かった。
 だけど、そこにも誰もいない。
 いつもはいるはずの近所の兄ちゃんは、今年の春は中学に上がるとかで、遊んでられないなんて。
 お父さんの都合もあって、中学は他所の県だとかって…。

 他のみんなは、何処へ行ったんだろう。
 また、みんなして何処かに集まってゲームしてる?

 ボクは原っぱの隅の土管に腰掛けて、暮れていく空を眺めていた。
 そのうちに、きっと誰か来る。

 でも、ボール遊びも何もできそうにないほど暗くなっても、とうとう誰も来なかった。
 ひとりぼっち。おいてけぼり。

 そうだよな。ボクなんかいなくたって、みんなそれぞれに楽しみがあるんだ。
 
 じゃ、ボクにはどんな楽しみがあるんだろう。
 遊んでもらうのが楽しみなのに、相手にされなかったら、ボクは途方に暮れるだけだ。
 
 ああ、なんてボクってつまらない奴なんだろう。いなくたって、みんな大丈夫なんだ。
 みんな…、あっちを向いている。そっぽを向いている。

 ボクは土管に腰掛けていて、すっかり腰が冷えてしまった。
 ボクは動きたいんだ。ただ、わーわーって、やりたいんだ。
 
 すると、原っぱの隅に木の柵の残骸が落ちているのが見えた。
 土管から降りて、拾い上げてみる。
 それはちょうど刀ほどの長さの棒っ切れだった。
 いい。刀だ。

 ボクは宙を切ってみた。
 ビュッ! ビュッ!
 いい音だ。
 でも、味気ない。
 ボクは土管を叩いてみた。
 カーン、カーンと耳に痛いほど音が響く。

 でも、音はすぐに消えていく。宵闇が音を飲み込んでしまうみたいだ。
 ボクは木偶の坊の自分を感じていた。
 ボクは遊んでもらわないと何もできない奴なんだ。
 ボクだけじゃない、みんなも。
 そう、兄ちゃんがいなくなったら、ボクらはみんなバラバラになってしまう。

 空を見上げてみた。空っぽすぎるような気がした。何もないんだ。石を思いっきり投げても、何処へも届きゃしない。誰も拾ってくれない。誰も、コラーと叱ってもくれない。投げたボールは、最初は勢い良く飛ぶけど、そのうち地面にパンッて落ちて、あとはトントンと転がり、やがて在り場所も分からなくなる。
 一人じゃ、誰も投げ返してなどくれない。

 ボクはたまらなく退屈になって、棒っ切れを放り投げてしまった。
 いいんだ。投げやりなのはボクにお似合いなんだ…。

「おい、危なかろがいね!」
 
 あれ? 兄ちゃんの声だ。どうして兄ちゃんがここに。今頃、勉強に忙しいんじゃ?

「そうだよ。こんなもん、投げる奴、あるがかよー」
 チー坊の声だ。
 そう言いながら、棒っ切れを拾い上げた。
「そやちゃ、そうやちゃ!」
 カースケの声も混じってる。

 ああ、みんなの声だ。
 声だけじゃない、宵闇の中からみんなの姿が浮かび上がってきた。
「なんだ、こんなところで、何、やっとんがいね」と兄ちゃん。

 兄ちゃんの顔がちょっとにやついている。
 ああ、今にも泣き出しそうなボクの気持ちが見透かされた?
 ボクには返す言葉が見つからなかった。

「よお、どうだよ、みんなでたき火、しないか」
「たき火?」
「そうさ、たき火さ。ヨッチがさ、お前のかあちゃんと一緒に柿の木の枝を落としてたがやし。」
 兄ちゃんはねえあんをヨッチと呼ぶ。二つ、ねえあんが年下なんだ。
「あれ、今から燃やすんだって。」とチー坊。
「そうよ。どうせなら、お前んとこのドラム缶で燃やすより、たき火のほうが楽しかろがいね。」
 ボクが返事もしないうちに、
「おい、カースケ、チー坊、みんなしてヨッチのところへ行ってさ、枝、貰って来い。」
 と兄ちゃん。
 貰って来いとは、とにかく持って来いってことだ。
「枯れ枝とか木のきれっぱしがあったら、何でも持って来いよ。あ、それと新聞紙か何かもな。マッチも、誰か、せしめて来られや!」
 
 とうとう原っぱに枯れ枝の山ができた。あっという間だ。
 ねえあんまでが柿の木の枝だけじゃ足りないと、原っぱでせっせと枯れ枝集めしていたんだ。
 ねえあんが兄ちゃんを見る目。

「盛大にやるぜ。みんなで原っぱで遊べるのも今年限りやしな。中学へ上がったら、勉強しろって、うるさくてさ。たき火で豪勢に祝おうぜ。」
 
 何を祝うのか分からないけど、ボクはワクワクしていた。
(叱られるんじゃないの)なんて問いは、喉の奥に飲み込んだ。

 すると、まるでボクの疑問が聞こえたかのように兄ちゃんが、
「へん、どうせ、叱られるのはオラやちゃ。どうってことないさ。誰か来たら、みんな、逃げな」
 ボクには兄ちゃんが頼もしくてならなかった。兄ちゃんはボクらのボスなんだ。ヒーローだ。

「それにしても、集めすぎたかな。これじゃ、キャンプファイアーだぜ。ま、いっか。記念のパーティだ! さ、始めるぞ。マッチはどうしたがよ?」
 まるでその言葉を待っていたかのように、ヨッチが、ねえあんがマッチを兄ちゃんに渡そうとする。
「ヨッチ、お前、燃せ!」
「えっ」と、一瞬、たじろいだけど、ねえあんは素直に従った。
 マッチを擦り、新聞紙に火を点ける。
 闇の中にねえあんの横顔が浮かび上がった。兄ちゃんがねえあんの仕草を見守っている。
 そうじゃない、ねえあんの顔を見ている。
 ボクは、やっと、そうかと気づいた。たき火は口実だったんだ。兄ちゃんがねえあんを呼ぶための…。
 もしかして、兄ちゃん、ねえあんのことが好きなんじゃ…。
 もしかして、ねえあんも、兄ちゃんのことが好きなんじゃ…。

「おーおー、燃えてきたぜ。燃え上がってくるぞー。いいなー、こうだちゃ。こうでなくっちゃな。」

 カースケもチー坊も、オレンジに燃え上がる炎を見て興奮している。
 ねえあんも、兄ちゃんも、そしてボクもたき火に見入っていた。
 冬の寒空に真っ赤な炎が一人、立ち向かっているみたいだった。
 ああ、ボクにもあの炎が欲しい。
 でも、もしかして炎が欲しいって思ってるのは兄ちゃんかも。

 カースケもチー坊も、たき火に蹴りを入れる真似をしている。
「ちきしょー、敵は手ごわいぞ!」
 ゲームでもしてたんだろう。たき火を敵に見立てているんだ。

 みんなの顔が紅潮している。
 みんなの気持ちが一つになっている。
 
 なのにボクは訳もなく寂しかった。みんな燃えて灰になってしまう。消えていってしまう。燃えるだけ燃えたら、灰が残るだけなんだ。
 兄ちゃんは他所の県に行っちゃうし、ねえあんは塾とか付き合いとかで忙しくてボクの相手などしてくれないし、カースケもチー坊もファミコンとかに夢中になっている。

 燃え盛るたき火を前にボクは、まるで闇夜に取り残されたみたいな気分を味わっていた。
 でも、違う。寂しいのは兄ちゃんのはずだ。打ち明けられないで去っていく。ヒーローのくせして、弱気なんだ。
 ねえあんだって…。

「あー、くそ! サツマイモか何か、ありゃよかったがに。失敗したー。」
「何か、探して来よか?」と、ねえあん。
「なーん、いいがやちゃ。そう、思っただけだちゃ。」
「思っただけけ?」
「いいが。」
「ホントにそれでいいがけ。」
「いいがって言っとろがいね!」
 兄ちゃんは、怒ってヨッチを睨む。閻魔様の顔。
 ねえあんの顔がこわばってる。
 でも、二人とも段々、表情が崩れていって、ついにはまるで泣きべそをかいているようになって…。

 パチ、パチ!
 たき火はますます勢いを増して燃え上がっていた。
 燃えている。けれど、燃えたあとには灰が残る。みんなチリヂリバラバラになってしまう。今日の日は二度と来ない。
 いっそのこと、たき火の中に飛び込んじゃえばいい。枯れ枝を灰にするんじゃなくて、自分が灰になっちゃえばいい。
 ボクはそう思った。
 でも、そう思っただけだった。

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2006/01/11

ずる休み

 朝、目覚めたら喉が痛い。
 風邪?!
 ああ、用心してたのに、とうとう引いちゃったか。オレの風邪は喉から始まる。そこから頭や額が痛くなり鼻水が出始め、文句なしの風邪引きさんである。
 その気になれば会社へ行けないこともない。デスクワークだけど、それほど人と接することもないし、マスクさえしていれば、今日一日はやり過ごせそう。
 でも、残業は…。
 残業だけはしたくない。
 そうはいっても、ノルマがある。終わらないと帰れない。体調不良だと、能率が悪そうだし、うまくいって十時か。
 会社の雰囲気は残業を断るなど論外だ。え、お前、帰るの? みんな、やってんだぜ、お前だけいい思い、するってえのか!
 だけど、今日はとうとうオレも切れてしまった。残業手当もないのに、ノルマだからって、こう連日じゃ、バカみたいだ。
 オレは休む。
 断固、休む。
 電話すべきだと思ったけれど、それも面倒になり、携帯電話で会社にメールした。
 風邪を引いたので本日は休ませてもらいます。
 文面はそれだけ。
 
 断固休む…。今は一人暮らしなので自分が決めたら、それが決定だ。ああ、自分の意思で行動が決定できる快感。
 オレはふと、ベッドの中でガキの頃のことを思い出していた。
 あれは、オレが小学校の三年か四年生の頃のことだ。夏休みの印象も濃かったから、九月だったろうか。

 ボクは寝床の中でモンモンしていた。
 どうしようか、迷っていた。
 いくべきか、でも、休みたい。
 学校へ行くには時間がない。
 さっき、おかんに起こされたのに、それからもグズグズしていたし。

 気持ちは決まっていた。
 今日は行かん! 行かんがやちゃ!
 なんてこと、おかんに言えるはずもない。
 だから、布団を頭からかぶって温もりの中に閉じこもっている。

 襖からおかんの顔が覗くのを今か今かと待っている。
 休むって、どうやっておかんに言ったらいいのか…。

 学校でのことが頭の中でワンワンしている。
 でもボクは、そのことさえも目に布団を掛けて思い浮かばないようにしている。
 思い出したくない。
 まして、あれがきっとこれからもずっと続くだなんて信じたくない。
 でも、きっと続く。ずっとずっと続く。

 ボクが学校でそんな目にあっているなんて、おとんにもおかんにもねえあんにも言えない。
 自分だって信じられない。
 何がなんだかさっぱり分からない。

 おかんには頭が痛いって言おうか。
 ああ、本当に頭が痛くなりそうだ。

 ガタ! と襖が大きく開かれた。
 たーすけ! 何やっとんだいね。起きられんがいね。
 
 ねえあんだ。ねえあんはボクと一緒の部屋で寝ている。とっくに起きて、中学へ行く格好になっている。
 おかんに言われてきたんだろう。
 そのねえあんとも、来年からは別の部屋で寝ることになっている。もう、中学生だから、ボクと一緒じゃ嫌だって、ごねたらしい。
 
 んんー…。
 ボクは何も言えないでグズッている。
 
 どうしたがいね。風邪でも引いたがけ。頭、痛いがけ。

 う、うん…。
 ボクは嘘が言えずに、あいまいに返事するしかなかった。

 ふーん、じゃ、かあちゃんにそう言うよ。

 ああ、おかんとかおとんに問いただされたら、どうしよう。
 目を覗き込まれて風邪け、なんてきかれたら、どう答えたらいいんだろう。

 すると、ねえあんが風邪薬と水を持ってきた。
 これ呑んで、寝とられって。
 あとで、おかゆ、持ってくるからって。
 わしは行くからね。
 ボクはねえあんっ子だ。なにもかも、ねえあんに頼っている。頼りすぎて、自分がねえあんがいないと一人じゃ何も出来ないことに気づいていないほどだ。
 きっと、ねえあんがおかんにうまく言ってくれたんだ…。

 呑みたくはなかったけれど、ねえあんが持ってきた薬を水と一緒に飲んだ。白い粉が口に入りきらなくて、口元が苦くなる。
 なのにまだ薬が残っている。
 ボクは残った薬を敷布団の下にまいて、そうして掛け布団をバタバタやった。

 そこへおかんがやってきた。プンといい香り。急にお腹が空いていたことに気づいた。
 
 薬、飲んだがけ。
 
 う、うん。

 頭、痛いがけ。

 ああ、おかん、手を額に当てる…。
 まずい!

 熱はそれほどじゃないがね。

 喉が…。

 喉、痛いがけ。
 卵のおかゆ、持ってきたから、無理にでも食べられ。
 食べて寝とりゃ、なおるちゃ。

 ボクはおかんが部屋を出て行くのを目を閉じたまま待っている。
 うまそうにすするわけにいかないし。

 おかゆ、うまかった。なおさら腹が減った。
 ああ、おかゆだけじゃ足りない! 

 おとんがねえあんと一緒に外に出ていく気配がする。
 おかんが台所で何かやっている。
 あとは、家の中は静まり返っている。

 何が何だか分からない。学校へ行って、おはよう! と言うと、みんなおはようって返事を返してくれるのに、ある日から、さっぱり返事が来なくなった。男の子は前と変わらなかったけど、女の子は全員、つんと澄ました顔をして目をそらすようになった…。
 気のせい?
 でも、気のせいじゃなかった。本当にみんな、女の子は挨拶しても知らん顔なんだ。
 
 ただ、そんな中、一人だけ、ボクの挨拶に返事してくれる女の子がいた。ミーちゃんだ。
 それなりに可愛い子。
 でも、ボクには他に好きな人がいる。ミーちゃんはタイプじゃないんだ。
 そのミーちゃんは妙にボクに付きまとう。積極的で、ボクが何処へ行っても現れて、ボクたちが仲良しだってことをみんなにアピールしようとする。
 ボクにはそう思えた。
 ああ、そんなの困る。ボクにはなっちゃんがいるんだ。なっちゃんに誤解されたら困るじゃないか!

 ボクはミーちゃんから逃げるようになった。特に、そう、学校でフォークダンスを全員で踊ったことがあって、順繰りに男の子と女の子が手をつなぐことになる。すると、順番がやってきた。みーちゃんとボクが手をつないで踊る。一瞬のことだ。我慢すればいい。
 ところがミーちゃんはボクの手を離してくれない。いつまでもしっかり握って、とうとうボクはミーちゃんに引きずられていった。
 恥ずかしかった。
 同時に屈辱的だった。
 好きでもないのに、どうしてあんな真似をするんだ!
 怒り心頭だった。吐き気さえ覚えていた。
 
 それ以来、ボクはミーちゃんを敬遠するようになった。さんざん逃げ回って、これだけやったら、いくらミーちゃんでもボクの気持ちが分かるだろうと期待した。
 それだけじゃない。気の小さいボクだったけれど、なっちゃんに近づくようにした。ボクがなっちゃんを好きだってことを、口じゃ言えないけど、態度で示した。
 
 そうして、あの日がやってきた。そう、女の子が全員、朝や帰りの時の挨拶をしても、ボクをシカトする。あの、なっちゃんまでもが!

 そんな中、ミーちゃんだけがにこやかに挨拶を返す。

 ボクは嫌だった。ミーちゃんだけと挨拶を交わすなんて嫌で嫌でたまらなかった。
 挨拶をするなら、みんなとしたい。
 
 ボクは決めた。ミーちゃんとは挨拶しない。みんなが挨拶するようになったら、ミーちゃんとも挨拶くらいはするって。
 思えば、ボクが一人で考えて決断したなんて、生まれて初めてのことじゃなかろうか。ねえあんにも、一言も相談していない。
 
 ボクの思惑は空回りした。
 ボクの気持ちでは、みんなが挨拶してくれるようになったら、ミーちゃんとも挨拶すると決心していたのだけど、何日もボクがミーちゃんの挨拶にシカトしていると、とうとうまるでボクがミーちゃんだけに挨拶しないような評判が立った(もしかしてミーちゃんが流した?)。
 他の女の子たちどころか、男の子までが、ボクをシカトするようになった。それはボクがミーちゃんを理由もなく毛嫌いしているから、ということらしかった(でも、誰もそんな説明などしてくれない)。

 ボクはみんなと平等に公平に挨拶したいだけなんだ。朝や下校時の挨拶じゃないか。
 
 気が付いたら、ボクはミーちゃんに意地悪する偏屈な男の子ということになってしまった。
 孤立していた。誰とでも気兼ねなく挨拶するようにしたい。女の子がみんなで、示し合わせたようにして朝も下校時もボクの挨拶を無視する、そんな真似を早くやめて欲しかっただけなんだ。
 でも、そんなボクの思いは意味を成さなかった。
 ボクがミーちゃんをシカトしている、という事実だけが現実だとみなされた。

 ボクにも意地があった。あの日、突然、ミーちゃん以外の女の子がボクの挨拶に返事しなくなったのは、女の子たちの(ミーちゃんの働きかけでの)計算があったんじゃないか。
 他の女の子は冷たい。そんな中、ミーちゃんだけ、ボクに暖かい。
 そうしてボクとミーちゃんを近づけようというコンタン。
 
 ああ、でも、ボクの勘違いかもしれない。何か他に理由があって、ミーちゃん以外の女の子が挨拶を交わしてくれなくなったのかもしれない。
 違う。やっぱり、ミーちゃんとボクをくっつけようというサクリャクに決まっている!
 ただ、証拠が何もない。ボクの見当違いだと言われたらお終いだし。

 気が付いたら、クラスの中でボクは一人ぼっちになっていた。 
 そこまでいっても、ボクは意地を曲げることはできなかった。見掛けだけミーちゃんと仲良くなって、そうしてやがてみんなと元通り仲良くなる。そんなダサンは見え透いていて、シャイなボクに到底、無理な話だった。
 みんなが前みたいにさりげない挨拶を交わすようになったら、そしたらミーちゃんとだって、挨拶する。それがボクの最低限の意地であり(だって、仕掛けてきたのは女の子たちのほうじゃないか。折れるのは、仕掛けたほうじゃないとおかしいだろう!)、ボクの男としてのプライドでもあった。
 
 ボクは頑固過ぎるんだろうか。

 冷蔵庫のような学校の雰囲気。最初は登校時・下校時の挨拶だけの問題だったのが、日常会話もまるでなくなっていた。
 ミーちゃん…。
 ミーちゃんのことなんて、どうでもいい。タイプじゃないんだし。肝心のなっちゃんまでがボクを毛嫌いするみんなの仲間になっている。
 違う! そうじゃないんだ!
 なんて、言う機会もありそうになかった。
 そして、とうとう小学校を卒業するまで誰ともよりを戻すことはなかったっけ。

 ボクは、あの朝、限界に来ていたんだと思う。内気なボクには気持ちを誰かに打ち明けるなんて、死んでもできない相談だった。
 気持ちが誰かに知られるくらいなら、それこそ死んだほうがましなのだ。それがボクなのさ!

 おかゆを食べて、ますますお腹が減った。寝床の中で空きっ腹を抱え、これからもえんえんとハッポウフサガリ日々が続くことを胸に痛いほど予感して、ボクは頭が痛かった。

 そのうち、ボクはとうとう我慢がならず起き上がって、おかんのところへ行こうとした。
 すると、そこへおかんがやってきた。手にはおかゆとボクの大好物のバナナが載った盆が。
 寝ててもお腹、空くがやちゃね…。
 割烹着を着たかあちゃんが去っていく。
 一人になってボクは口をもぐもぐさせていた。
 ああ、もう、考えるの面倒になっちゃった!

 それでも頭の中は勝手にふくれちゃう。
 どうしたらいいんだろう。
 ボクにはどうする知恵もない。ねえあんも来年は別の部屋に移る。
 ボクは一人で道を決めないといけない。
 でも、このドンくさいボクに道などあるはずがない。
 ハッポウフサガリの藪の中を行くだけなんだろう…。

 そんな自分でも半ばは信じていなかった予感が的中してしまったことを今では明晰に理解している。
 ボクはボクの予言者だったのだ。
 オレはそれを理解している。
 今日は断固、休む。自分にできる反抗は、それだけしかない。今日一日休むというこれだけのことが限界。
 それでもいい。少しはオレも成長したってことなんだろうし。

 

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2006/01/01

兄ちゃんの姫始め

 ボクと兄ちゃんは六つ年が違う。兄ちゃんがそろそろ小学校に上がろうかという頃、ボクが生まれたらしい。ボクは自分が生まれた日のことは覚えていない。母ちゃんに聞いたら、母ちゃんも知らないという。姉ちゃんに聞いたら、バーカ、覚えてる人なんているわけないじゃんて、笑われてしまった。
 悔しい。兄ちゃんにバカにされるのも癪だけど姉ちゃんに笑われるなんて絶対、我慢ならない。

 そのボクも小学校に上がった。これで立派な社会人の仲間入りだと誇らしく思っていたけど、学校へはいつも姉ちゃんが一緒。ボクはもう一人立ちできる年頃だというのに、本当に悔しい。
 ボクの力を誰も認めていないんだ。

 学校の行き帰りは危ないからって、先生も母ちゃんも近所のニイチャンも言う。
 行き帰りが危ない? みんな何も知らないんだ。一番危ないのは家の中だってことを。家の中なら、いつ誰もが不在の時間となるか、ボクも知っているし、近所の連中だって知っている。
 犯罪は夜、行われる? とーんでもない。白昼堂々さ。
 大体、ボクだって、さんざん悪さしちゃったし、これからだってするよ!
 ま、悪さだから宣言することはないけど、止められないんだよね、これが!

 実を言うと、ボクにはもう一人、ニイチャンがいる。
 こっちのニイチャンは、ボクの兄ちゃんより三つ年上だ。ボクの兄ちゃんはボクをガキ扱いする。ランドセルを背負って通うボクを、無事で帰ってこいよ、なんてニヤニヤしながら言ったりする。
 その点、あのニイチャンは大人だ。ボクを一人前に遇してくれる。最後は自分で身を守るんだ、なんて真面目な顔をして忠告してくれる。
 身を守る知恵も力もない奴から最初に犠牲になっていくのさ…、とも。

 ボクだって、ガキじゃないんだ。何処にどんな危険があるか母ちゃんや先生たちよりは知っているのさ。

 さて、小学生となり、最初の冬休みも半ばが過ぎていた。
 年が明けて遊び呆けていたボクも、そろそろ遊びのネタに困っていたある日、ボクは耳寄りな情報をゲットした。兄ちゃんがひめはじめするというのだ。
 ひめはじめ…。
 ああ、なんてなまめかしい響きだろう。大人の世界の匂いがプンプンする。真っ暗闇の空にオレンジ色の光がパーと燃え上がるみたいだ。溜まったオシッコが出口を見失い逆流して頭の中に溢れ返り煮え滾っているみたいだ。

 小学校へ上がるという春のある夜、ボクは兄ちゃんに内緒話をされたことがある。
 それは兄ちゃんが保育所に通っていた頃のこと。
 兄ちゃんの夏休みも終わりの頃、ニイチャンが近所の悪ガキ連中を家に集めたことがあった。お盆の夜で、父ちゃんも母ちゃんも町内会の世話とかで家を出払っていた。
 ガキ連中の中には、男の子も集まっていたし、勿論、兄ちゃんもいたし、近所の女の子も呼び集められていた。姉ちゃんもいた! 
 夜中になって女の子たちが寝静まった頃、それは始まった…。
 でも、何をするわけでもない。ただ、寝ている女の子たちの布団をはぎ、着ている浴衣を脱がし、懐中電灯で秘められた部分を照らし出すだけだ。
 そんなわけがないと思って、兄ちゃんの目をじっと眺めたら、ま、指で割れ目ちゃんをなぞってみただけだよ、あんなに深そうな裂け目なのに、指は中に入らなかったよ、なんて、言い訳がましいことをぶつぶついう。物足りなかったのだろうか。それとも、ホントはもっと凄いことをやったのだろうか。
 ボクには分からなかったのは、女の子たちは寝ていて気づかなかったのだろうか、ということだ。気づいていたに違いない。でも、気づかないふりをしていたに違いないんだ。
 ああ、でも、これはボクの意見なのか、兄ちゃんがそう言い張っていたのか、今となってははっきりしない。

 ボクも大きくなったら、そんな祭りに参加できるのかな。疼くような思いでボクはその日を待ちわびた。
 でも、もうニイチャンはそんな悪さをする年頃は過ぎていた。
 兄ちゃんは悪さの音頭取りをするようなタイプじゃない。そもそも祭りの夜だろうと、子供たちだけの集まりを許すような雰囲気は町から消えている。
 ボクは肩透かしを食らったような気分だ。なんのために今日まで辛抱したというのだ!

 あれ、なんの話だっけ。
 そうそう、兄ちゃんがひめはじめするという噂だ。ボクは、その噂を姉ちゃんから仕入れた。兄ちゃんは隠し事をできない人間なんだ。特に兄ちゃんには妹に当たる姉ちゃんには、その浮かれた、でもどこか不安そうな表情で何かあると睨まれ、とうとう白状させられたのだ。
 その話をボクは姉ちゃんから教えられた、というわけだ。
 
 兄ちゃんがひめはじめする。
 一体、何をするんだろう。今更、中学生になって、夜、何処かに女の子を集めて懐中電灯で気になってならない部分を照らす、なんてわけもないだろう。
 大体、兄ちゃんがそんな計画を作るセンスがあるわけもない。
 姉ちゃんが兄ちゃんから探り出したところによると、どうやら段取りをニイチャンがつけたらしい。
 だったら、分かる!

 兄ちゃんがそわそわして落ち着かない。心、ここにあらず、だ。
 いよいよその日が近づいている証拠だ。
 姉ちゃんもボクに目配せする。ボクが兄ちゃんの隠し事を知っていると言うのは姉ちゃんとボクとの秘密だ。ボクも姉ちゃんも素知らぬ顔をしている。
 その日が今日だ、というのは滑稽なほど明らかだった。放課後、一端、家に戻ったけれど、今から塾へ行くという。ちゃんと英語と数学のテキストの入ったバッグも肩に担いでいる。
 でも、ノートも筆記用具も机の上に置きっ放しなのを姉ちゃんは見逃さない。
 姉ちゃんは、兄ちゃんが出かけた後、兄ちゃんの後を追った。ボクも一緒だ。行き先は、何処だろう。
 後を追ってみると、行き先はどうやら塾らしい。変だ。本当に塾へ行くんだろうか。テキストを突っ込んだだけのバッグだし、勉強にはならないはずなのに。
 それでもやはり兄ちゃんは塾へ入っていった。やっぱり今日は塾?!
 塾といっても、民家の一階を塾にしている。塾がある日は、襖が取っ払われていて、玄関から八畳の間とさらに奥の四畳半の仏間が見通せるようになっている。
 ところが、その日に限っては、様子がまるで違う。まず、玄関の戸が閉まっている。ただ、鍵は掛けられていないようで、戸が小さく開いている。隙間から覗くと、玄関には兄ちゃんの脱いだ靴だけがポツンとあるのが見える。他には見当たらない。下足箱には家の人の靴しか入っていないはずだ。
 家の中が薄暗い。シーンと静まり返っている。
 兄ちゃんは?
 兄ちゃんの靴がある以上は、中に入ったのは間違いないはず…。

 取り払われているはずの襖は閉まったままだ。八畳の左脇の階段も、階段下の縁側に面する廊下も、雨戸が閉められていて、隙間から僅かに忍び込む一条の日の光が薄闇を濃くしているようだった。

 兄ちゃんは何処へ行った。塾はやってないのか。
 すると、姉ちゃんは玄関の戸に張ってある紙を指差した。本日は事情があり休みます。
 誰も来ていないということは、今日の休みは事前に通知されていたということだろうと姉ちゃんがボクに言う。

 どうする?
 入ってみようよ。開いてるんだし…。兄ちゃんの靴だってあるんだし…。
 
 ボクと姉ちゃんは家の中に入っていった。塾が開かれるはずの八畳の間を覗こうと、襖を開けてみた。やっぱり、誰も居ない。電気だって灯っていない。人気がない。
 でも、不気味だった。兄ちゃんが居るはずなんだ。人っ子一人いないなんてはずはないんだ!

 八畳の間を過ぎ、奥の四畳半へ続く襖も開けてみた。仏壇があるだけ。
 しばらくはキツネに抓まれたような気分だった。静けさが一層、深まったような気がした。
 すると、階段がギーと小さく鳴った。
 足音だ。誰かが降りてくる。
 固唾を呑んで見守っていると、それは兄ちゃんだった。
 なーんだ、やっぱり居たんじゃない!

 でも、表情が硬い。あの間抜けな兄ちゃんではなかった。
 しかも、足音は一人分だけじゃない。
 その後に、もう一人が続く。
 ニイチャンだ!
 なんだ、兄ちゃんは塾だと言っておいて、実はニイチャンと合う算段だったんだ。
 でも、ひめはじめは?!

 ボクらの呆然とした顔を見て、ニイチャンはニヤッと笑った。
 そして、ようこそ、われわれの姫始めの舞台へ、と言う。
 
 えっ、ここがひめはじめの舞台。
 どういうこと。
 姉ちゃんは逸早く直感したようだった。
 でも、もう、遅かった。兄ちゃんが姉ちゃんの後ろに立っている。前にはニイチャンだ。
 
 お前も参加するかと、ボクを見遣るニイチャン。

 意味が分からなかった。
 ボクが参加するって、どういうこと。
 兄ちゃんがボクを黙って押しやった。
 お前は出て行け!
 出て行けって、どういうことさ、なんて、口の中で言うだけだった。
 兄ちゃんのあんな鬼の形相は初めて見た。
 姉ちゃんは凍りついたように立ち尽くしている。

 ボクは訳も分からないままに玄関の外に追いやられた。
 玄関に鍵が下りる音がした。

[参考にならない参考:]
 題名は「姫始め」だけど、「ナンセンス小説」と、全くジャンルの違う掌編に、「姫始め」があります。

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2005/12/24

勘違い

 バスン! バスン! バン! バシ!

 仕事の帰り、何処かの公園の脇を通りかかったら、何かが地面を叩くような音が聞こえてきた。
 音のするほうへ目をやると、中学生だろうか、数人の男の子たちが古びたビルのコンクリートの壁を使ってミニバスケットをやっている。どうやら、3on3での対戦らしい。
 近く取り壊される予定なのか、ヒビが幾筋も入っているビルが鉄板で覆われている。鉄板の上がちょうどバスケットのゴールの高さというわけだ。
 そう、公園じゃなくて、路上でバスケットに興じているのだ。
 ボールが弾ける音が冬の空気を鋭く軋ませる。アスファルトの路面を伝った振動が行きすぎようとする中年男の心臓にまで響いてくる。
 バスケット…。
 ふと、遠い日の思い出が蘇ってきた。

 遠い日のことで、幾つかのシーンだけが脈絡もなく浮かんでくる。
 体育館の中のコートの隅っこで立ち竦んでいるボク。
 あの日、どうしてボクは立っていたんだっけ。
 疑問形にしている。
 分かっているくせに。

 ボクは、あの日の午後。ある光景を目にした。 
 ボクの好きなあの子が下駄箱の並ぶ部屋に入り込んでいく。
 下駄箱に真っ白な手紙を入れている。
 こっちからは見えなくたって、何をやっているかくらいは、分かろうというものだ。

 自分でも思い出せないのだけど、ボクはその日、あの子が学校の玄関脇の下足箱のある部屋にやってくるのを知っていた。

 盗み聞きした?
 分からない。覚えていない。
 覚えているのは、眩しいほどに真っ白な体育の服装を着ていたあの子のことだけ。どのクラブにも所属していないボクとは違って、あの子は卓球部の選手でもあり、マネージャーもやっていた。
 そして、ボクのライバル…のあいつもクラブ活動に勉強にと、花形だった。同じ中学生とはとても思えない、男のボクが見ても格好いい奴。
 でも、ボクは密かにライバルって思っていた。ボクだけは。
 とうとうあの子、奴に想いを告げるんだ。
 ボクが、ぼんやりしている間に、何もかもが終わってしまう。
 あの子があいつを好きなのは、ボクだけは知っていた。それは、ボクだけの秘密だった。
 
 あの子は、周囲を見回して、誰もいないのを見透かして、立ち去っていった。辺りを眺めた時、一瞬、目が合ったような気がした。気付かれたかと思った。
 大丈夫だった。あの子は何事もなかったように、消え去ってくれたのだ。

 気のせいか、あの子のホッペがいつもより赤かったような。冬のせいだったのだろうか。

 記憶では既に薄暗くなっていたような気がする。ちょうどクラブ活動に熱がこもる時間帯で、体育館以外は、校内は怖いほどに寂しい。職員室もひっそりしている。

 ボクは柱の陰から下駄箱のほうへ静かに歩いていった。心臓がバクバクしていた。
 一体、何を仕出かそうというのか、自分でも分からなかった。
 分かっていたけれど、何も見えなかった。
 見ると、入りきらなかったのか、それともあの子が焦っていたのか、手紙の端っこが下駄箱から少し、食み出している。

 ボクは、気が付いたら手紙を手にしていた。

 ボクは、ただ、あの子の手紙を読みたかったのだ!
 
 真っ白な封筒をセーターの中に忍ばせて、最初はゆっくりと、けれど、玄関を出たらもう我慢がならなくて、校門に向かって夢中になって逃げた。
 近所の家の屋根に数日前だったかに降った雪が宵闇の中で蒼白く輝いていた。街灯が黒っぽくなりかけた道を透明な青に染めている。

 ボクは走った。吹き寄せる風に頬が刺されるようだった。刺されて、破裂しそうな胸が本当に弾けてしまうかと思った。

 手紙の中身を今ではまるで覚えていない。忘れてしまった…のだろうか。思い出したくないのだろうか。
 分からない。分からないことだらけだ。
 覚えているのは、真っ赤なハートのマークと、宛名が書いてなかったことだけ。
 でも、名前が書いてないことが、余計にボクを嫉妬させた。名前なんか書かなくたって、想いを寄せる相手はあなただけと言っているように思えたのだ。
 
 そうして、次に覚えているのは、学校の裏山の傍にある小さな公園のこと。
 日曜日だったのだろうか。
 ボクは、児童公園の中のブランコに揺られているセーラー服姿のあの子を見たのだった。
 いや、違う、一人でいるあの子を見るために来たのだった。
 いや、それも違う。うまくしたら、やつの変わりにボクが…。

 不思議なのは、あの子の傍に手紙が忍ばせてあった相手の奴ではなく、他の奴が立っていたことだった。
 どうして奴が来なくて、あのボクと同じくらい成績も悪ければ運動だってダメな、身長だってボクと競っているような、あのちんけな奴がそこにいるのか。
 格好のいいあの奴が来ないのは、当然だ。デートをあの子が手紙で申し込んでいたとしても、奴が知るわけもないし。

 でも、じゃ、あいつがあの子の傍にいるわけは?

 …ああ、何もかも分かっているくせに。
 自分のあまりの醜さに思い出すことさえ、躊躇っている。

 ボクは、他の奴に想いを寄せるあの子が憎たらしくて、そうしてデートをぶち壊したくって、奴に来ないようにするだけじゃ、飽き足らなくて、ボクが一番嫌いだった、あのちんけな奴にデートの日時のことを教えたのだった。
 なんてこと、したんだろう。

 ボクは、公園の隅っこからあの子と奴の様子を伺っていた。

 なんだって奴なんかに教えたんだ。あの子が一人でいるところを偶然を装って通りかかればそれでいいじゃないか。
 でも、手遅れだった。ちんけな奴がにやけた顔をしてあの子を見下ろしていた。
 ブランコの音がギーギー鳴っている。
 あの子の胸の悲鳴のような、切ない泣き声のような。
 
 ごめんよ。こんなマネ、するつもりじゃなかったんだ。
 魔が差したんだ。

 胸が張り裂けそうだった。電柱のかび臭いような匂いが頬っぺたに擦り込まれそうなほど、ボクは柱にしがみついていた。立っていられないような気がしていたのだ。
 今すぐ出て行って、そうして彼女に謝ろうか。そうすべきだ。そうだ、今なら、まだ間に合う…。
 
 そんな勇気など、ボクにあるはずもなかった。

 せめて、彼女にその場を立ち去ってほしかった。
 ボクが先に消え去るわけにはいかないような気がしていた。
 せめて最後まで成り行きを見守っておくんだ…。

 すると、信じられないような光景が目に飛び込んできた。
 なんと、あの子がブランコから立ち上がったかと思うと、二人はにこやかな表情を浮かべて、肩を並べ公園を後にするじゃないか!
 二人が公園の角に消えていく最後の瞬間、あの子がボクのほうを見やったような気がした。まさか、奴ったら、ボクのことを教えたんじゃ…。

 でも、違う。好きな人っていうのは、どんな角度から眺めても、遠くから眺めても、その人の視線の先に自分が居るって、つい思ってしまうものなのだ。齢を重ねた今ならそんな虫のいい、ちょっと悲しい錯覚が人間はしてしまうってことが理解できる。

 なんてことだ!
 どうなってんだ?!
 奴じゃなくて、あいつでも良かったってことなのか。
 何がなんだか分からなかった。
 
 置いてけぼりを食らって、ボクはしばらくは呆然としていた。気が付いたら、あの子が座っていたブランコに腰掛けていた。揺らしてみると、鉄の鎖がギーギーという音が鳴る。ボクはいつまでも音に聞き入っていた。

 その翌日だったろうか。
 朝、憂鬱な気分で教室に入ったら、いきなりあの子がそこにいた。背中を向けているけれど、晴れやかな表情を浮かべているのがはっきりと分かる。
 教室はいつものようにガヤガヤとうるさい。見ると、窓際にいる奴も他の誰かと談笑しながらも、ボクのほうをチラッと眺めては、にやにやしている。
 ボクはチクショウーと思った。
 勘に過ぎないけれど、あの子はもう、ボクの仕業を知っているんだ。奴がバラシテしまったんだ。覚えてろ!
 
 それにしても、不思議なのはあの子の表情だった。格別、ボクを怒っているふうではないのだ。
 ボクのことなんか、どうでもよくって、それより奴と仲良くなれたことが嬉しいのだろうか。
 奴?! 一体、どっちの奴だ。あのチンケな奴か。それとも、あっちの花形クンか。
 
 ボクには事情が何も分からない。ボクの手の届かないところで物語がドンドン進行している。話の筋を周囲のみんなは知っているけれど、そう、知らないのはボクだけ。

 悶々とした一日が終わった。クラブ活動に行く奴らは、さっさと教室を後にしている。その日は、ボクが掃除の当番だった。あの子もだったのだろうか、彼女も一緒に掃除している。掃除が終わったらすぐに卓球部へ行くつもりなのだろう、テキパキと黒板拭きもバケツの水の入れ替えもやっている。そうなんだ、この甲斐甲斐しい彼女が好きなんだ!
 いいんだ。ボクは。彼女と、今、一緒に掃除している。それだけで十分じゃないか。
 一生の思い出になるってものさ!

 やがて掃除を済ませた彼女は、部室のほうへ向かった。
 ボクは、学校に用事など何もないのに、帰るに帰れないでいた。
 自分には関係ないこととはいえ、あの子がどっちの奴と仲良くなったのか、それを確かめないことには帰るに帰れない!

 体育館へ向かった。板張りの体育館では、サッカー部の連中がバスケット部の連中とバスケットをやっていた。冬になると、雪で校庭がグジャグジャになってしまうので、例年、体育館の使用が春から秋までとは違う使い方になってしまうのだ。
 すし詰めというと大袈裟だけど、とにかくいろんなクラブの奴らが入り乱れて練習しているのである。

 いた! 奴だ。やっぱり、うまい。憎たらしいほど光って見える。
 あの子は…。いない。
 じゃ、あっちの奴と一緒? まさか。
 ボクは、ごった返す体育館の隅をボールや動き回る運動部の連中の間を縫ってステージ裏へ向かった。用具類を仕舞う裏手の一角に卓球部の部室が、無理やりという感じで設置されているのだ。 

 いた! あの子だ。ボクのあの子だ。
 帰宅部のボクは、いつものように、あの子の練習する姿、みんなの世話をする眩しい姿をチラッとでも見てから帰ることにしているので、部の連中も、一瞬、またか、という顔をするが、すぐに無視してくれる。
 あの子もそうだった。
 いや、そうじゃなかった。
 いつもと違って、ボクを見て、にこっ、とする。

 どうしてボクを見て、微笑を浮かべるんだろう。
 ボクの無様な仕打ちをあざ笑っているふうにも思えない。
 
 でも、訳の分からないボクは、そのうち居たたまれなくなって、すぐに卓球部の部室を去った。
 もう一度、奴の姿を見ていくか。ボクには眩しいだけの、憎たらしいほど格好いい奴を。
 あんな花形だったら、負けたって、彼女が盗られたって仕方ないしな…。

 ボクは、奴の姿を目に焼き付けようと思った。奴とボクとの違いを目に痛いほど感じておくんだ。そうしたら、諦めが付くってもんだ…。

 バスン! バスン! バン! バシ!
 
 奴の姿はなぜか見かけなかったけれど、目まぐるしい動きがそこにはあった。運動音痴のボクには、到底、マネのできない展開の速さ。
 ボクの住む世界とはまるで違う世界がそこにある…。
 
 どれほどの時が経ったろうか、気が付くと、背後に気配を感じた。
 奴だった。それも、二人の奴が並んで立って、ボクをニヤニヤしながら眺めている。
 最初に口を開いたのは、どっちの奴だったか覚えていない。

「ちきしょー、持てる奴が憎たらしいぜー」

 ボクは、なんのことだか、さっぱり分からなかった。
 
「あの子、お前に告白したんだってな」

 何の話か見えないボクは、キョトンとしているしかなかった。

「あの子、お前の下駄箱に手紙を入れたんだってな」

 バスン! バスン! バン! バシ! どやしつけられるようなバスケットボールの音がますます胸に響く。

「それにしても、お前、せっかくのラブレターをオレに見せるんだもんなー、参ったぜ」

 二人はにやにやしている。

 それでも、ボクは話が見えないままだった。

 えっ、あの手紙、あの子が奴に出したんじゃないの?

 ボクは呆然と立ち尽くしているしかなかった。

 それから何十年も経つというのに、未だに女房がオレに言うのだった。
「あんたに出したラブレターを人に見せるんだもんねー。せっかくあんたに分かるように手紙、入れといたのに、私、焦っちゃったわよ。公園で事情が分かって、安心したけどねー。」
 そういって女房はガハハハと笑うのだった。

 路上の3on3の音が、オレは何処か女房の笑い声とダブって聴こえるのだった。
 

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2005/12/14

銀箭(ぎんぜん)

 遠い遠い昔の話である。私が未だ小学校にやっと上がった頃の話だ。もう、四十年の昔になる。
 ついさっきまでのカンカン照りの天気が嘘のような不意の雨に見舞われた。ボクと妹は、慌てて神社の境内の社に逃げ込んだけれど、青いシャツもパンツも下着までがスッカリ濡れてしまった。妹も全身がびっしょり濡れている。
 見上げると、空が真っ暗になっている。そのうち、雷も鳴るに違いない。ボクは雷は怖くない。でも、妹の奴は雷って奴が大嫌いだという。
 嫌いというより、とにかく怖いらしい。ボクには何が怖いのかさっぱり分からない。あんなの空が光ってるだけじゃないか。ちょっとゴロゴロ鳴っているだけじゃないか。
 別に強がっているわけじゃなかった。それどころか、ボクは雷とか台風とかが大好きなのだ。テンペンチイって奴が生じると、世の中のみんなが大騒ぎする。もしかしたらその騒ぎようが好きなのか…と思ってみたけれど、そうでもない。
 空とか海とか山とかに異変が起こると、ただただワクワクしてしまう。大地が生きてるって感じがしてしまう。
 一度、学校の仲間にそんな感じを話したら、変な顔をされたので、今はボクの本音を黙っている。そうか、怖がるのが普通なんだと、みんなの態度から学んだのだ。人様の前では、そこそこに怖がり、そこそこに平気を装っている。
 内心は、雷が鳴ると授業中でも外に飛び出して、雷鳴轟く中、土砂降りのグラウンドを走り回りたい気持ちで一杯になってしまう。

「兄ちゃん、怖いよー」妹はそう、呟いたまま、震える体をボクに押し付けて、体を丸めているばかり。
 妹の白いシャツもびっしょり濡れている。顔をボクの膝に埋めているので、妹の背中がやけに大きく感じられる。その背中は、濡れた薄い半透明の布切れを被せたようで、妙に生々しくボクには持て余し気味になってしまう。
 夕立に過ぎず、小一時間も雨宿りしていれば、雨も雷も峠を越すはずだった。なのに、空はますます暗くなる一方だった。さすがにボクも途方に暮れてきた。
 実を言うと、ボクは豪雨や雷や疾風には平気なのだけど、夜の闇が怖いのだった。こればっかりはボクにはどうしようもなかった。別に奇異な現象ではないし、日常の当たり前の風景に過ぎないのに、暗くなると足が竦んでしまう。闇夜に正体の知れない灯りが浮かんだりすると、狐火か、それとも人魂かと思われてならなくなる。
 ボクは内心、妹を置きざりにして、暗くならないうちに家に逃げ帰りたかった。
 雷よ、早く去れ!
 妹とは違う理由で、雷雨の早く過ぎ去るのを待ち望んでいた。

 さすがにいつしか雨は小降りになってくれた。雷鳴も稲光も過ぎ去って行った。
「ほら、起きろよ」
「もう、大丈夫、兄ちゃん?」
「うん、行っちゃったみたいだよ。」
「じゃ、目を開けるね」頭を起こしながら、お河童頭の妹は薄目をしてみせた。
「大丈夫だよ。行っちゃったってば」
 妹は、やっと大きく目を開いた。
妹の髪も服も体も、そして瞳も濡れていた。ボクはその時の妹の目が可愛くてならなかった。
「さあて、雷も消えちゃったし、帰るか。」
「うん」
「あんにゃ、うちの方角、どっちか分かるか?」
「うん!」そう言って、妹は、早く内に帰りたいのか、ボクの手を引いて歩き出した。しめしめである。ボクは闇夜が怖くて先になって歩けそうになかったのだ。
 今度はボクのほうが、薄目になって妹に手を引かれて歩き出した。妹は無邪気に、ただ一心にボクの手を引っ張るだけだった。

 その日の夜のことだった。
ボクがそろそろ寝ようとして、便所から妹が先に寝ている寝床の部屋に向おうとしたら、親父とお袋が何かひそひそと話しているのに気づいた。普段は隣近所にも響くような声で喋る父母なので、ボクはビックリした。何かボクか妹に聞かれては困る話なのだろうか。
 ちょうど、その頃、童話を読んだか、それとも誰かのを聞いたかで、人さらいとか、貧乏していると子どもを売り渡す家もあるという知識が仕込まれたばかりのボクだった。ボクは、根拠もなしに、まさか…、もしかして…、ボクか妹を売り渡す算段をしているんじゃないかという疑いを抱いてしまった。
 しかし、父母は、ボクが囲炉裏の間と仏間の間の柱の陰にいることに気づいて、すぐに話を止めた。
 ただ、ギンゼンという言葉だけがボクの耳に残っていた。

 ボクが盗み聞きを咎められたような気がして、身動きが出来ないでいると、
「何、しとんがけ。早く、寝られま」とお袋が言った。
 その声で、やっとボクは動けた。その場を去ってもいいと許可を受けた気分だった。

(何をこっそり話してたのか…。ギンゼンって何だ…。それともギンセンだったっけか。でも、ギンセンにしても、意味が分からない…。ん? それともキンセンだったかもしれない…。)最初は濁った発音だと思っていたのに、キンセンという言葉が思い浮かぶと、間違いなくキンセンだと思わてきた。
(やっぱり、そうなんだ。キンセン、金銭、おカネ…、ボクか妹をおカネが欲しくて…、それで…、売り飛ばすんだ!)

 ボクは寝床で散々考えた挙げ句、自分の推理に間違いがないと確信してしまった。
(内はそんなに貧乏だったっけ。確かに食べるものというと、田圃や畑で採れるものばかりで、何処かの店で買ったようなものは、めったに食卓に並ばない。御飯に味噌汁。味噌汁の具は、ダイコンとかジャガイモとか、ワカメとか、チボイモとか、フキとか、キャベツとか…。おかずというと、やっぱりダイコンにニンジンにナスにキュウリにイチゴにレタスに…。おやつというと、トウモロコシとかサツマイモとか、スイカとか、ジャガイモだ。そういやたまにキュウイもあったな。近所の家じゃ、しょっちゅう出前を取るのに、内じゃ、お袋が風邪を引いて倒れでもしないかぎり、出前なんて考えられない。そうか、内は貧乏だったんだ。そういや、親父は倹約しろよの一点張りだし…。今まで気付かなかったボクがバカだったんだ…)
 眠れないままに、今日の夕方の一齣を思い出されていた。父母の寝室からは、何か啜り泣きのような、悲鳴のようなお袋の声が微かに聞こえてくる。しまいに、親父がお袋をしかりつけているのか、親父の呻き声さえ、洩れ聞こえてきたのだった。
(そうだ、ボクが妹を置きざりになんて、考えるからいけなかったんだ。そんなボクだから、お袋だってうんざりして、家にはそんな子は置けないと考えたんだ…。闇が怖いだなんて、妹を捨て去るのと、どっちが大変なことか、もっと考えるべきだったんだ…。でも、ちゃんと我慢して一緒に帰ってきたじゃないか…、なのに…)
 その夜はボクはとうとう一睡もできなかった。

 翌朝だった。ボクは覚悟を決めて囲炉裏の間に坐った。既に食卓には朝から食べきれないほどの御飯やオカズが並んでいる。
(今日が最後の日だから…、だからせめてご馳走を並べてくれたんだ…)
 何も知らない妹が哀れだった。
(いや、妹は別に悪くないんだ。悪いのはボクだけなんだ。何処かへやられるとしたら、それはボクだ。仕方ないよな…。)
 しかし、朝食の時間はいつもの通り、何事もなく淡々と過ぎていった。妹は朝は目覚めが悪いので黙ったままなのは、いつも通りだし、お袋が台所と囲炉裏の間を頻繁に往復しながら、あれこれ喋るのもいつも通り。親父は、お袋の話を聞いているのか聞いていないのか、ボクには分からないのも、いつも通り。「どうした、おまえ、今日はやけに静かじゃないか」
 来た! とうとうその時が来た!
 ボクは掠れがちな声を絞って話した。
「何か話があるがじゃないけ?」
「話だと。何の話だ?」
 さすがに親父も話しづらいのかもしれない。
「だって、夕べ、キンセンがどうしたとか…」
「キンセン? 何だ、そりゃ。おい、かあさんや、わし等、キンセンの話なんてしたっけ、夕べ」
「キンセン? なーんも。」ダイコンのお漬物を運びながら、お袋は返事した。
 が、台所へ向おうとして、ふと、足を止めた。
「ああ、ギンゼンじゃないの。」
「ギンゼン? ああ、あの話か」
 ドキ! やっぱり、そうだ。親父とお袋は、ボク(たち)を…。謝るしかないと思った。
「夕べは御免。もっと早く帰るつもりだったがやけど、雨が」
「そうだよ。ギンゼンって、雨のことながよ」とお袋。全然、ボクの話を聞いていない。
「ギンゼン、雨?! どういうこと?」
「夕べね、凄い雷雨が突然、来たでしょ。でね、ラジオでね、夕べみたいな凄い夕立をギンゼンって言うんだって、やってたのよ。ギンは銀でしょ。銀色ね。つまり雨ね。で、ゼンって、難しいけど、火箭(ひや)というか、火箭(かぜん)のゼンのことなのね。火矢ね。よく時代劇の映画とかで、飛ぶらしいんだけど。つまり激しい雨脚を、銀の矢に見立てたわけね。洒落た表現があるのねって話をしてたがんぜ。分かったけ?」
「分かった…」
 狐に抓まれた気分だった。
(本当? 誤魔化してんじゃないが?)

 とにかく、それからも何事もなく過ぎ去ったのだから、最初は親父達を疑っていたボクも、そのことは次第に忘れていった。
 ただ、どうしても、引っ掛かることがあった。それは、じゃ、どうして、そんな話をヒソヒソ声でしなくちゃいけなかったかということだった。いつも通り、大声で喋ればいいじゃないか、そんなこと。内緒にする話でもあるまいに。ボク達が寝ていたって、平気で大声で喋る二人じゃないか。

 それから何年してからだったろうか。親父達がひそひそ声で喋ったわけが、或る日、不意に分かった。そうだ、二人は、今夜はやるぞ! オレの銀箭が飛ぶぞ! という話をしていたんだ。
 だから、ついつい、声を顰めてしまったんだ!


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2005/12/12

雪の帰り道

 小学生になって二年目のある雪の日の夕方だった。姉がバッグを肩に背負って玄関を出ていった。
 ちょうどボクが遊びつかれて帰宅したのと入れ違いになった。
 なんとなく澄ましたような、他人の顔。

 こんな時間に何処へ。雪だって降ってるのに。
「かあちゃん、ねえあん、何処、行ったの」
 ねえあん、というのは、ボクの姉を指す呼び名。ねえちゃんとも言えなくて、妙に半端な呼びかけになっていた。
「ん? 塾」
 かあちゃんは、台所で洗い物をしていて、見向きもしないで言う。
「じゅく?」
 闇の中に消えていった姉の背中。
 牡丹雪が足跡をやんわり消していこうとする。
 ボクは、急に不安になって、ねえあんのあとを追いかけた。
 不安。というより、おいてけぼりを食らったような気がしたのかもしれない。
 ねえあんにボクの知らない世界がある!
 それが我慢ならなかったのかもしれない。
「じゅく」
 ボクは、呪文のようにその言葉を繰り返しながら、姉のあとを追い続けた。
 街灯のお陰で、ねえあんが曲がり角を左へ消えていくのがちらっと見えた。
 雪にこぶりながら、ボクは必死になって追いかけた。
 アノラックのフードに雪の花びらが当たって、耳元でさらっさらっという乾いた音がする。
 闇夜から、ふんわり落ちてくる雪が、ボクの体にぶつかる瞬間だけ、擦れるような小さな音を立てる。雪の降る中、傘を差しながら、ずっとその音だけに耳を傾けながら歩くのが好きだ。傘に雪が溜まったら、傘をグルグル回して雪を降り飛ばして、同じことを繰り返す。
 幻想でも夢でもないんだよ、ボクらは本当に天から舞って来たんだよと告げているようだ。
 でも、今はそんな場合じゃない。
 ねえあんが何処へ行くのか、確かめなくちゃ。

 何処かの石の門柱のある家の前でねえあんに追いついた。
「どこ、行くが?」
「塾だちゃ。」
「じゅく?」
「そろばん塾」
 ねえあんは、息を弾ませて聞きただすボクに、いつものように淡々と答える。せっかちなボクとはまるで性格が違うのだ。
 しばらく、門前で佇んで、雪が溶けて頬を伝うボクを見つめていたけど、そのうち、黙って「じゅく」とやらの中へ入っていった。
 そこにはボクには窺い知れない世界があるようだった。玄関には所狭しと色とりどりの何足もの長靴が見えた。
 中に入って、「じゅく」で何をやるのか、確かめたかった。
 でも、臆病なボクにはそんなことはできない。
 
 ボクは、ただ、すごすごと雪の中を帰るしかなかった。ねえあんも、遠くなってしまった…。
 
 頭の中では、保育所時代の思い出が蘇っていた。
 春先だったろうか、何処かの原っぱでみんなが草野球をして遊んでいる。
 そんなみんなを隅っこで眺めているボク。

 醜いと言われた自分。鏡の中でゆがんだ顔をもっとゆがませ、おどけてみせるのが好きな、ひとりぼっちの自分。
 いつか、ボクも、みんなの仲間に入れるだろうか。そんな日が来るんだろうか。
 みんなの歓声が耳に痛い。はしゃぎまわる姿が眩しい。
 そのうち、ボクは、いつものように、ひとり、はぐれて石ころなど蹴って立ち去っていくんだろう…。

 そう思っていたら、不意に背中を叩かれて、我に帰った。
 そこにはねえあんがいた。
「何、しとんがいね。」
「ううん、なんも。」
「みんなと遊べばいいがないが。」
 そんなことができるくらいなら…。喉まで文句が出掛かっていたけれど、言葉に詰まるばかりで、ただ、「いいがやちゃ!」と言うのがやっとだった。
 
 そうしてどれほどの時が過ぎただろうか。
 不意にボクの足元にボールが転がってきた。
 拾おうとしたら、ねえあんが横取りした。
 そして、びっくりするほど大きな声で、
「ねえ、あんたらち、この子も混ぜてやってよ!」と言うではないか。
 ねえあんはボクを立たせ、肩に手を置いていた。

 ボクは絶え入りたいほど恥ずかしかった。
 ねえあん、何、言うんだよ、やめとけよ…、なんてことさえ、言えない。
「うん、いいよ。」
 呆気ないほど、簡単だった。
 ねえあんは、ボールをボクに渡してボクの背中を押した。

 ボクは、その日、日の暮れるまでみんなと遊び興じたっけ。

 それだけのことだった。
 でも、ポンと背中を押すねえあんの手の感触が忘れられないのだった。

 どうしてそんなことを今、思い出したのか…。
 
 はっと、気付いた。ねえあんが違う世界に行ったら、ボクはまた独りぼっちになるから…、それが怖いから…、だからねえあんを必死になって追いかけたんだ、と。

「じゅく」からの帰り道。ボクは途方に暮れていた。
 そうだ、いくらなんでも、もう、ボクはねえあんなしでも友達を作れなくっちゃいけないんだ。今更、ねえあん、ねえあんっていう年でもないんだ。

 そう思うと、必死になって追いかけてきた自分が恥ずかしくてならなくなった。
 
 そうだ、ねえあんはねえあんだ。ボクはボクなのだし。
 
 雪は降りやまない。牡丹雪が粉雪に変わってきて、フードの隙間から耳へ鼻の穴へ、目の中へ容赦なく降りかかるのだった。
 道の両脇へと掻き分けられた雪の道を、ボクは呆然と眺めていた。
 これから、一体、どうしたらいいだろう。
 何も見えないじゃないか!
 それでも、地の世界を埋め尽くす真綿の絨毯の上を、夢見心地で歩いていった。ついさっき、駆けてきた足跡は、とっくに消えていた。
 ねえあんとの思い出も消えていく。「じゅく」にねえあんが消えていったように。
 真っ白な雪が降り積もっているというのに、道の先は真っ暗だった。
 闇の空から白い魔物が舞い降りてくる。なにもかもがうずもれていく。
 頬をまた溶けた雪が雫となって流れ落ちて、今度は喉元へと流れ込んでいった。

 冷たい!
 そうなんだ。この冷たさが本当なんだ。
 なのに、なぜか、妙に開放されたような気がした。白い絨毯の道を歩く。足跡を掻き消す天の道。あるのは、弾むような息遣いだけ。

 ボクは、ハーと思いっきり息を吐いてみた。すると、吐息は自分でも驚くほど、真っ白なのだった。
 一瞬、雪さえも消えてしまう。
 雪より白い吐息!
 吐息が、いつだったか、かあちゃんの言っていた「たましい」って奴に見えた。
 そうだ、ボクには、「たましい」があるんだ。その気になったら、いつだって口から吐き出してみせることができる!
 その日、ボクは、バカみたいに何度も立ち止まっては、大息を天に向かって吐きながら帰った。
 きっと、今日という日のことは、一生忘れないだろうな。
 雪の帰り道。一人ぼっちの影。
 違う。ボクと「たましい」との二人ぼっちの道なのだ。

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2005/12/04

いつか来た道

 どこを歩いているのか分からないでいた。遠い昔、気が遠くなるほどに遠い昔、一度だけ歩いたことのあるような道。薄闇にかすかに浮かぶ竹垣の家の曲がり角が、なんとなく見たことがあるような気がする。

 そうだ、ガキの頃に、追いかけっこか鬼ごっこをしていて、必死になって逃げる際に、あの角から出っ張っていた竹か、それとも竹垣から突き出ていた松の枝だったかにセーターの袖が引っ掛かってしまって、一瞬だけど身動きできなくなって、懸命にもがいていたんだった。
 あの時、鬼に追いかけられていた。鬼ったって、近所の兄ちゃんだったはずだけど、なんだかホントに鬼のように思えた。掴まったら食べられてしまう、お寺かどこかで見た地獄に落ちた悪人のように魔物たちにパックリ呑み込まれてしまう、でなかったら閻魔様のところに引き摺られていって、お前はなんて悪い子なんだと、怖い顔で睨まれてしまう…。
 鬼ちゃんの、じゃない、兄ちゃんの足音が聞こえる。今、思えば、兄ちゃんは、わざとゆっくりと追い掛けてくる。簡単には追いついたりしない。だから慌てる必要なんてなかったんだけど、そんなことがあの時のボクに分かるはずもない。
 ボクは泣きそうな思いでセーターの袖口を引っ張った。裂けようが穴が開こうが、そんなことはどうでもよかった。だけど、焦れば焦るほど、毛糸が絡まって毛玉みたいになって、しまいにはボクは本当にワーワー泣き出してしまった。
 どれほどの時間、泣いていたのだったろう。気がついたら、日が落ち始めていた。周囲はシーンと静まり返っている。誰もいない。日中はともかく夜ともなると、誰も通らない道。
 ふと、袖の辺りを見遣ると、裂け解れた毛糸が毛玉になってダラリとぶら下がっている。けれど、もう、何処にも絡まってなどいない。
 そうだ、ボクは無我夢中で力任せに逃げようとして、どうしても解れなくて、とうとう気力が萎えて、ホントは何処へも逃げられるのに、へたり込んでしまっていたのだ。
 秋口で、寒くはないはずだけど、でも、背筋がゾクゾクし始めていた。
 鬼ちゃんは、じゃない、兄ちゃんは、どうしてボクを捕まえてくれなかったんだろう。他に獲物があったからなのか。
 薄闇の竹垣の道。街灯などあるはずもなく、ボクの大嫌いな小父さんの家の窓から溶けたアイスクリームのような、だらしない灯りがそこらに垂れ零れているだけ。あの時、空に月とか星とか見えたっけ。

 オレは、何処とも知れない道を歩き続けていた。馴染みのあるような、でも、よそよそしい道。あの時のオレはどうしてあんなにも必死に逃げたのか。今では分かっている。そうだ、鬼ちゃんのあの性癖のせいなのだ。兄ちゃんは、獲物を捕まえたら、何処かの藪に連れ込んで、なんだか訳の分からないことをする。ボクは、その光景を何度となく見詰めてしまった。そうだ、ボクは逃げ足が速かったから、それに可愛いほうじゃなかったから、鬼ちゃんの餌食にはならなかった。
 でも、兄ちゃんに掴まってさんざんに可愛がられた女の子は何人もいる。女の子がいないときは、可愛ければ男の子だって餌食になる。兄ちゃんの玩具になる。真っ裸にされて、そして裸のお兄ちゃんの裸のどこかに潜り込まされる。
 オレは、そんな真似をさせられるのが嫌で嫌でたまらなくて逃げた…。そう思っていた。ずっと、そう思ってきた。いや、そう思いたかったのだ!
 でも、もう、今じゃ、さすがにオレは分かっている。そうだ、オレはあの時、兄ちゃんから逃げようとしたんじゃなかったんだ。オレは、お兄ちゃんのいるほうへ急いで行きたかったんだ。そして、お兄ちゃんのやることを、玩具となったやつらの哀れな格好を、えげつない仕草を眺めたかったんだ。オレはあいつらみんなが何故か憎かった。みんな可愛くて、無邪気で、親に大切にされていて…。
 だけど、そのときは、焦ってしまって、兄ちゃんの与えてくれる楽しみに間に合わなかった。鬼ちゃんが餌を呑み込むさまを、いや、呑み込まさせる光景を一緒になって、そう、自分も食っているような、食わさせているような気分になって楽しむ、その愉しみがフイになってしまうことが惜しくてならなかった。オレはそのことを悔しがっていた…。

 オレは、何処とも知れない道を歩いていた。そうだ、今度はオレが鬼ちゃんになるんだ。そのために、今、薄闇のいつか来た道を餌を求めて歩いているのだ…。


                          03/12/24 21:04

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2005/09/17

相合傘

 授業が終わった。みんなワイワイ言いながら帰っていく。ボクも帰る。何も用事がないし。
 ボクはグズグズしている。雨が降っているからだ。傘がないからだ。
 みんなどうして傘を持ってるんだろう。
 誰だっけ。男はさ、傘なんて持たんもんなんだぜ、なんて言ってたのは。
 そう、あいつさ。

 あいつ、いつも真っ先に傘の中、帰っていくんだ。友達の傘に飛び込んでさ。
 そうだよなー、そうすりゃ、傘なんてなくなって、平気だよな。
 ま、あいつのことだから、ずぶ濡れになったって、格好がいいんだよな。
 ボクがやると、どうして惨めに見えるんだろう。気のせい?

 ボクは一階の玄関へ通じる廊下の隅っこに立っていた。みんながドンドン、雨の中に消えていく。夏の終わりの雨。ボクの大好きな雨。軒下なんかに入ってさ、泥んこの道に水溜りができていくのを、ジーと見ている。
 いつも、水溜りが巨大になって、道一杯になって、そうして町中にあふれ出すのを楽しみに見てるんだけど、ダメ。たいてい、そのうちに雨が小降りになって、町が水浸しになるっていうボクの願いは叶えられない。
 ボクもだけど、雨の奴も根性なしだ。

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2005/09/08

シャボン玉の夢

 ある日、ボクは気づいた。ボクと出会う人がみんな石になってしまうことに。
 裏通りを歩いていたら、お兄ちゃんの姿を見かけた。いつもボクと遊んでくれる兄ちゃん。弱気なボクを励ましてくれる兄ちゃん。
 その兄ちゃんに「こんちわ」って声をかけたら、チラッとボクを見ただけで、何の表情も見せないで、黙って行き過ぎてしまった。
 まるでボクがありふれた動物か何かで、ゲエーとか、ギャーとかって鳴いたから、どんな動物か見たけど、つまらない奴なんで、興味がまるでわかないみたい。
 ねえ、兄ちゃん、ボクだよ、ボク。
 何か心配事があるのかな。ボクのことを構う余裕も無いのかな。
 ボクは、一言でいいから声をかけて欲しくて、兄ちゃんのあとに付いていった。
 気付いている。ボクがあとから追いかけていることが分かっている。
 なのに、振り向きもしない。足を緩めようともしない。
 歩いているうちに汗ばんできてしまった。息が弾む。苦しいほどになった。
 でも、歩き続ける兄ちゃん。
 ボクはとうとう我慢がならず、駆け出して、兄ちゃんの前に出てみた。
 そうしたら、さすがに兄ちゃんだって、ボクのことに気付いてくれる。「おお、なんだ、お前かよ」って、気さくに応じてくれる…。
 最後の元気と勇気を振り絞って、兄ちゃんの目の前に立ってみたんだよ。
 だけど、兄ちゃんは、路肩のお地蔵さんでも眺めるみたいに、黙りこくったままだった。
 それどころか、石ころでさえない。兄ちゃんの目はボクを透かして、あらぬほうを見ているだけ。

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2005/07/17

石ころ

 ボクは体の中の石ころにムカムカしていた。どうやっても、体内の石ころを取り出すことができない。胃の中あるわけじゃないらしいから、吐くこともできない。
 時折、首筋の辺りに石ころの奴、移動するらしくって、そうなると、大変。ノドチンコと石ころとで喉が狭まって、息が詰まる。ほとんど、喘ぐように息をする。
 まるで、そうだ、コンクリートの道路の片隅から生えてくる雑草。僅かな透き間を見つけて、辛うじて生きている。
 ま、やつ等ほど、ボクはタフじゃないんだけど。

 石ころはフクラハギに隠れたり、お腹に収まって、大人しくしていることもある。そんな時のボクは機嫌がいいみたい。近所の連中とも気軽に遊んだりもする。
 でも、石ころが頭の中とか、最悪、目玉の中に忍び込んだときは、どうしようもなくなる。
 ボクは、懸命に石ころをえぐり出そうとする。父さんに教えられた方法で。

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2005/04/11

メロンの月

 これもボクがガキの頃のことだ。ボクとしては思い出したくないのだけど、姉と喧嘩してしまったのだった。それというのも、メロンの分け方が喧嘩の種だった。
 ある日曜日、お袋の妹の家からメロンを送ってきた。我が家は大騒ぎになった。果物は、家でも苺やら葡萄やらキュウイなど、あれこれ採れる。トウモロコシだって採れるし、果物かどうか分からないけど、ジャガイモなんて、たっぷり採れて、お八つ代わりだった。
 が、メロンとなると、別格だった。というか、見たこともなかった。その頃は、我が家にテレビなどなかったし、ホントに実物どころか映像も見たことがなかったのだ。
 その噂にばかり名高いメロンは、箱からして豪華だった。何故か熨斗(のし)などされていた。何かのお祝いだったのだろうけれど、ボクは覚えていない。とにかく、香りが漂っていて、ボクは早く食べたくてならなかった。

 でも、こういう時って、えてして良くないことが続くんだよね。
 箱には、三個、入っていた。が、運悪く、近所の小母さんがやってきて、なんだかんだ、おしゃべりした挙げ句、一つ、もらわれていった。それ以来、ボクは、その小母さんのことが大嫌いになった。きっと、小母さん、臭いを嗅ぎ付けてやってきたに違いないんだ。いつもなら、玄関で片言喋ったら、他の門構えの立派なうちへさっさと行っちゃっていたのに、その日に限って居間に上がりこむんだから。

 残ったのは、二個。我が家は、父、母、姉、ボクの四人だから、計算上、一人頭、メロン半分ということになる。その意味じゃ、三個が二個に減ってよかったのかもしれない。
 ところが、そこにまた、邪魔者が遣って来た。うちを檀家だと思っているお寺のお坊さんが、法事でもないし、今日は来る日じゃないはずなのに、やってきたんだ。
 メロンは? ちゃんと隠してある? うん、ちゃんと台所の外だ。盥に浮かべ、その盥を井戸に沈めてある。しっかり冷やそうというわけだった。
 大人同士の退屈な話が延々と続いていた。ま、ボクにはどうでもいいことだし、漫画の本を読んでいた。といっても、何も買ってくれないので、父が昔、買ったらしいのらくろ二等兵とかいう漫画だった。父の習慣で、黒い表紙を張り、紐を通したりして、製本してある。なんだか、宝物みたいだった。
 ボクには、ちょっと退屈な漫画。もっとも、親父たちのお喋りほどじゃ、ないけれど。
 そのうち、やっとお坊さんが腰を浮かし始めた。とにかく話が長い。その間に、お袋は、小さな紙の包みを用意している。お坊さんの目が、さりげなくそちらに向いたのをボクは見逃していない。
 お喋りするだけで暮らせるなんて、いい商売だな、羨ましいな、ボクの将来はこれで決まりかな、なんて、思いながら、お坊さんの立ち去るのを待っていたら、最後にとんでもない<事件>が起きたのだった。お袋ったら、去り際のお坊さんに、縄紐で括ったメロンを手渡しているじゃないか! とんでもないこった。
 ボクが将来、なる仕事からはお坊さんは、外れた。人に恨まれてまでやる職業じゃないと思ったのだ。

 残るメロンは、一個だけ。まさか、このなけなしのメロンまで人に遣るはずはないだろう。これまで人に遣っちゃうんだったら、もう、親子の縁を切ってやる。親でもなければ、子でもない! ボクはそんな悲壮な覚悟を決めていた。
 メロンは、すっかり冷えているはずだった。ボクのほうはといえば、頭の中がヒートアップするばかり。数分毎に、井戸のほうを窺っていたものだった。うん、大丈夫、メロンは安泰だ。
  一個だけだけど、四人で分ければ、四分の一、まあ、贅沢とは言えないけれど、めったに口に出来ないものを口に出来るのだ、文句はない。
 とにかく、食べたい!

 が、その日は日曜日である。しかも、やたらとお客の多い休みだった。いよいよ、午後の四時過ぎだったか、五時前だったかに、「メロンを食べよう」というお袋の心地いい声が聞えてきた時だった、玄関の戸がガラガラと開いて、誰かの「こんにちは」という声が居間にまで届いてくる。
 今ごろ、誰だ?! って、お客が来るには、変な時間というわけじゃないのだった。ボクの知らない人だったけど、父の知り合いのようだった。お袋が、ちょうどいいところにいらっしゃいました、今、メロンを食べるところでしたの、一切れですけど、どうぞ、なんて言っている。
 何がちょうどいいところだ。最悪じゃないか。ボクは、お袋がお客さんに挨拶しなさいと言われた時、思いっきり、しかめっ面してやった。当然じゃないか! 誰が愛想など、振り撒くものか!
 が、姉は、ちゃんと、お客さんに、頭を下げ、こんにちは! なんて、言っている。なんだい、裏切り者。ボクは、危うく、姉の足を踏んづけるところだった。さすがに、お客さんの前なので、我慢した。ボクも結構、大人になったのだ。
 メロンを四つ切りし、さらに半分に切って、八つの切れっ端が皿に載っていた。薄いメロン。でも、薄くて、半透明なだけに、その淡い黄緑の実が美味しそうで、それだけに、その一切れを、いや、ついには無遠慮にも二切れをも口に運ぶ客の奴が、憎たらしくてならなかった。なんて、非常識な奴なんだろう。このメロンをなんと見る、なんて、啖呵を切りたいくらいだった。
 と、思ったら、客の奴、なんと、三切れ目を口にし、終いには、四切れ目をも口にしやがったのだ。四切れというと、つまりは、メロンの半分を奴が一人で平らげたことになる。残ったのは、四切れだった。
 といっても、父が一切れ食べたから、実際に残っているのは、三切れだった。 母は食べなかったように記憶する。遠慮なく、食べなさい、なんて、お袋が言った。だから、ボクと姉は、一切れずつ、食べた。美味しかった。
 これがメロンか! それまでの怒りが吹き飛ぶようだった。姉も黙って食べていた。

 でも、皿には一切れ残っている。
 少なくとも、ボクには、その場に、凄まじい緊張が生じているように思えた。一体、誰が手を出すのか…。
  その一切れを前に、空々しい会話が<弾んでいた>。白々しい時が流れていった。とっくにメロンは、生温かくなっているに違いない。でも、そんなことは問題じゃない。
 そのうちに、「遠慮なく、食べなさい」なんて、誰かが言い出した。そんな科白を吐いたのは、誰あろう、客の奴だった。客の目はボクに向けられていた。
 てめえに言われたくねえよ! って、言えたら、どんなにスカッとしたことか。
 ボクは、まるで客に指示され許可されて食べているようで、味などまるで分からなくなっていた。もやもやした気分が、ボクの胸を暗くしていた。憎たらしい客の言いなりになる自分…。最悪だった。

 いつ、どのようにして、その客が帰っていったのか、ボクはまるで覚えていない。ただ、気が付いたら、村の鎮守様の境内でブラブラしていたことは間違いない。すっかり、辺りは暗くなっている。人影など、あるはずもない。
 そこへ、姉がやってきた。心配して来てくれたのだ。
 が、それから、何故か喧嘩が始まった。お客にどうしてメロンなんかを遣るんだ。他に茶菓子だってあったじゃないか。それをよりによって、メロンを出してしまうなんて、母ちゃん、どうかしてるよ。姉ちゃん、どうして、あんな奴に挨拶なんて、するんだ…。
 ボクは駄々を捏ねていたのだろう。姉に怒っていたわけじゃなかったんだろう。でも、憤懣をぶつける相手は姉しかいなかった。
 とうとう、口喧嘩が、取っ組み合いの喧嘩になってしまった。ボクは、当時、四つか五つ、姉とは三つ年が離れている。まともにやったら敵わないのだけど、ボクは、ヤケクソになって暴れていた。ボクのあやふやな記憶だと、姉が、私だって悔しかったんだから…とか、言っていたような気がするけれど、それは後で仲直りしてから言っていたのかもしれない。とにかく、ボクは、手を振り回し、足をバタバタさせ、暴れ者になっていた。

 いつの間にか、お袋がやってきたようだった。ボクは、気が付いていたけれど、なんだか恥ずかしくて、一層、喚き立てていた。今更、冷静になんて、なれるはずがなかった。
 突然、お袋が、「メロン!」と、一言、発した。
 ボクは、あまりに素っ頓狂な言葉に、呆気に取られ、呆然と、お袋のほうを見た。お袋は、夜空を仰いでいた。姉も、ボクも、お袋の視線の先を追った。
 すると、そこには、新月から数日も立たないような薄い薄い三日月があるのだった。
 梅雨の中休みとかで、五月晴れのように爽やかな日だったから、湿気もなく、空の星も眩いなら、十六にも切り分けたメロンより薄いような三日月も、輪郭も鮮やかに浮かんでいるのが印象的だった。
 あ、メロンだ! ボクも思わず叫んでしまった。
 姉も、メロン、メロン、なんて、訳もなくはしゃぐように口走っていた。
 誰が言い出したか、メロンの月だということになった。
 そうだ、メロンの月だ。
 なんだか誤魔化されたような、救われたような、宙ぶらりんの気持ちのまま、メロンの月に見守られて、ボクたちは家路を急いだのだった。 

(04/06/21 作)
[ある作品とTBで繋げるため、HPからブログへ転載しました。 (05/04/11 記)]

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2005/01/22

テイスティング

 外は吹雪いている。こんな日に出かける用事がないということ、会う人など誰一人いないということ、訪ねてくる人もいないということは、なんてありがたいことだろう。
 窓のカーテンも開けきっている。窓枠には雪が儚く鋭く悲しく積もっていて、どんな額縁よりも外の世界を疎遠にしてくれる。
 それとも、縁取られ孤立した空間に落ち込ませてくれる。ガラス窓には凍て付いた氷がモンドリアンの描くブギウギより愉快な幾何学模様を形作っている。窓の外の景色が歪んでいる。まるで涙に滲む暗い海のように。
 窓に生まれやがて消えゆく氷と雪との巧まざる芸術。どんな天才も創るあたわざるレリーフ。ガラスさえもが水の変幻となりたがっているようだ。
 氷が雪が水の偶さかの位相に過ぎないとは信じられない気がする。窓を開けて手を差し出し、事の真相を確かめてみようか。
 部屋の片隅では薬缶のお湯がシュンシュン唸っている。この湯気があの雪の仲間だとは。部屋を満たし、やがて溢れた湿気が壁や窓の隙間から漏れ出していく。叶うなら、その分子たちに紛れ込み、世界を旅して回りたい。
 水は、きっと、光の仲間なのだ。いや、仲間になりたいのだ。光を嫉妬しているのかもしれない。水には時間という桎梏が運命のように付き纏う。
 けれど、光には時間がない。光は世界を経巡っているというのに、常に今なのだ。光は寄り集まって物質という恍惚の時をも味わえる。
 貯蔵庫には秘蔵のワイン。灯油を消そうか。室内の温度を確かめる。18℃。文句なし。
 今日は、白は試さない。赤に専念する。テーブルに赤ワインとグラスを持ってくる。勿論、水彩画用の白い紙を敷いてある。
 そう、白い紙を背景にしてワインの色を確かめるためだ。
 色を楽しむのだ。
(誰にも秘密にしていることがある。それは、ほんの一滴だけだが、ワインを紙に零すのだ。白い紙にワインの赤紫が滲んでいく。血の滴りのえげつない丸みとは違う、何処かか弱げな、形のない形を描く。そう、ハンカチに広がる血の涙の滲みにも似た、夢のような幻想にじっくりと眺め入るのである。)
 ウイスキーの琥珀色のあの濃密なる神秘。醸造の過程で無色透明のはずの原酒が琥珀に生まれ変わる瞬間の奇跡に、いつか立ち会いたい。そのウイスキーをグラスで傾ける時も、画用紙を用意して、色をトコトン堪能する。香りを嗅覚中枢に、脳味噌に漲らせる。
 でも、今はワインだ。
 ワインはグラスに三分の一ほど。静かに傾け、ディスクと呼ばれるワインの表面をまず、見透かす。透明でなければいけない。濁りがあってはならない。くすみが微かでもあったら、失格である。
 また、ディスクの厚みを確認する作業も大切な過程だ。
 ふむ、十分な厚みがある。熟成されたワインの証拠だ。コクのあることが保障されたも同然なのである。
 テーブルに脱ぎ捨てられたドレス、いや、ただの画用紙だった…、その白い世界を背景に色合いや色の濃さを観る。
 心は急(せ)いている。逸る心を抑えるのが大変だ。涙を見たいのだ。ワインの涙を。
 ワインをグラスをゆっくり回すことで、ワインを優雅に転がしてみる。すると、ワイングラスの壁面に縋りつくように残る微量のワインが見える。やがてはディスクに覆われたワインの海に流れ落ち混ざっていくのだけれど。
 その壁面に流れるワインをワインの涙と称するわけだ。時にワインの脚と呼ぶこともある。脚が若い女性の脚を意味するならいいけれど、脚だけでははっきりしない。だから、ワインの涙という呼称が相応しいに違いないと思う。
 
 不意に窓を叩く音がする。カチンという金属音…。否、氷の罅割れたような、何処か親しみのある音。
 ふと、遠い昔を思い出す。
 姉と喧嘩した夜のことを。
 あれは、近所の小母さんにもらった羊羹をめぐっての姉弟喧嘩だった。あまりに小さい切れなので、誰が食べるかで、奪い合いになったのだった。
 いや、その前に、羊羹は、もっとたくさんあったはずなのだ。けれど、あの日、学校で雪合戦をやっていて帰りが遅くなった。帰宅してみると、姉がいる。いないはずの姉が。確か、そろばん塾に行く日のはずなのに、なぜ、居たのだろう。
 でも、驚いたのは、炬燵板の上にあった羊羹だった。そうだ、小母さんはちゃんと箱に入った一本の羊羹を持ってきてくれたのだった。それを切り分け、皿に盛り、みんなで食べていた。父はいなかったので、母と近所の小母さん夫婦も一緒にということで食べていたらしい。
 残ったのが、小母さんの分の一切れ。事情は忘れたが、小母さんは全く手を付けないまま、旦那さんと一緒に帰っていった。
<事件>が起きたのは、それからだった。どうしてボクの分を取っていてくれなかったの。あんたは、今日は遅いはずじゃなかったの、と姉。姉ちゃんだって、今日は算盤じゃなかったの。今日は、雪がひどいから塾は休みにするって電話があったのよ。そういうあんたは、どうなのよ。学校の帰り、みんなで映画に行くって言ってなかったっけ。ボクは、言われてカッとなってしまった。約束を忘れていたことに、今になって気付いたからだ。雪合戦が楽しくて夢中になりすぎて、約束のことなど、きれいさっぱり忘れ去っていたのだった。ボクは…、ボクは…。そんなことより、羊羹、ボクだって食べたいよー。
 口喧嘩しているうちに気付いたのは、姉も帰宅したばかりで、羊羹はまるで食べていないことだった。姉も甘いものには目がない。
 けれど、ボクは、なんとなく姉がもう、既に食べているのだと思い込んでいた。思いたかったのかもしれない。姉が食べたのなら、残りはボクのものだと言い張れるわけだ。
 姉も食べると言い張った。姉の口の回転には敵わないけど、意地だけはボクも負けてはいなかった。母は呆れて、黙っていた。とうとう、バカらしくなったのか台所に引っ込んでしまった。
 ボクと姉は二人、延々と喧嘩し続けた。終いにボクは姉の口に負けそうになった。ついにはボクは情ないことに泣き出してしまった。ボクだ、ボクが食べるんだ、羊羹はボクのもんなんだ。姉ちゃんは他に食べるもん、あるだろー!
 そのうち、母が姉ちゃんを台所に呼んだ。泣きじゃくるボクを他所に、何事か話している。そのうち、姉ちゃんは喧嘩している最中より顔を真っ赤にさせた。「あんたは姉ちゃんなんだから…。」という一言だけが聞えてきた。
 そして、羊羹なんか、アンニャにあげるわよ! そう言い捨てて、目を真っ赤にして寝室に引っ込んでいった。
 母ちゃんも、臍を曲げきったボクを置きざりにして、台所で食器などを洗っていた。あんた、食べられ、と、一言、優しく言われたような気がする…。
 ボクは、居間で一人になった。炬燵板の上には、一切れの羊羹がある。目障りなほどに色鮮やかな焦げ茶色の羊羹。濡れているような、それでいて乾くことを知らないかのような濃密なる甘美の塊。
 ボクは、誰も居ない部屋で炬燵に座り込み、しばらくは羊羹を眺めていた。久しぶりに見る御馳走だった。お八つに羊羹が出たのは、いつのことだったか。
 喉から手が出るほどに欲しい羊羹。
 でも、手が出ない。
 出ないはずが、出てしまった。食べたかった。
 ボクは姉ちゃんが断念したこと、お袋に言い含められたことを幼いながら直感していた。
 でも、ボクの我が侭が勝った。勝ったけれど、気まずい。気まずいけれど、羊羹の魅力には勝てない。
 末っ子の甘えん坊の勝利。
 羊羹がどんな味だったのか、さっぱり覚えていない。
 覚えているのは、シーンと静まり返った居間の空虚感だけ。お袋も、いつの間にか台所から姿を消していた。姉のところに行ったのだろうか。
 そうだ、寝室で瀬戸物か何かが割られるような音がしたので、慌てて母ちゃんが飛んでいったのだった。
 味わうこと。一人で味わうこと。ボクは、あの日、一人で味わう楽しみを覚えてしまったのだ。
 
 シューという音が耳に障った。後ろで薬缶が沸き立っている。
 目の前には赤ワインがある。今はテイスティングを楽しむ時なのだ。
 さあ、続けよう。たった一人であることを味わうというテイスティングを。
 でも、面倒になって、ワインを一気に飲み乾してしまった。
 グラスの壁面に一杯の涙が流れるのを見たくなって。
 もう、姉も母もいないのだ。


 

[テイスティングは、「ワインテイスティングの技法」というサイトの、「第3章 ワインテイスティングを始める(実践編)」の頁を参照させてもらいました。]

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2005/01/10

雪の古城にて(1)

 あれはいつのことだったろう。確か高校生の頃、友人と二人で小さな旅行をした。
 友人に誘われての日帰りの旅。ボクは友が恋をしていることを知っていた。
 なぜって、ボクは、彼の恋人に相談されたことがあるから。
 それは、ある秋の日の午後、空は真っ青に晴れ上がっていて、秋の高く透明な光を惜しげもなく降り注いでいた。
 ボクは、クラブ活動など一切しない帰宅組。といっても、真っ直ぐ内に帰ってもすることがない。なので、放課後も、校庭で練習に余念のない連中を、どうしてスポーツに熱中できるのか、などと漫然と思いながら眺めていた。
 羨ましいような、でも、面倒臭いような。仲間の輪に加わりたいような、でも、一人の気楽さを失う気には到底なれない。
 体育館のコンクリートの階段に腰掛け、テニスボールの音が遠くにあるコートから響いてくる。かと思うと、野球部の連中の、妙に喉を潰したような声が耳を障る。
 高い日。でも、一気に暮れる予感が、なぜというわけもなく漂っている。
 空っぽすぎるような空の高さに、ボクは眩暈しそうだった。
 すると、突然、女の子の声がする。
「そこ、坐って、いい」
 彼女などいないボクに声を掛ける女の子。嬉しさと驚きとで、声のほうを見遣ると、それはサッチャンだった。
 サッチャンなんて、馴れ馴れしい呼び方をするが、それはボクの友人がそう呼んでいるからで、ボクはというと、ただ、無愛想を装ったような声で、「どうぞ」と言うのが精一杯だった。
 ボクは、押し黙っている。何を喋ればいいのか、さっぱり分からない。冗談の一つも言えるような奴じゃないんだ。
 が、サッチャン、いや、紗代さんも、頷くボクにただ黙って隣りに腰掛けるだけ。
 その行為がとってもさまになっている。
 スカートの裾がふわっとして、女性が傍にいるという感覚が、風に乗って広がる。
 ボクは、スカートの裾を腕で折り込んで坐る彼女に、あれ、スカート、汚れちゃうんじゃないのか、などと頓珍漢な心配をしていたっけ。
 だって、男なら、立ち上がった際に、お尻等をパンパンと叩(はた)けばそれで済むけど、女性はどうなんだろう…。
 黙り込むボクに辟易したのか、それとも、ただ、喋るタイミングを待っていただけなのか、紗代さんは、ポツポツと語り出した。
「あのね、彼のことで相談があるの」
 ボクは失望もあって、思わず、「彼?」と聞き返してしまった。
「ええ。わたしのこと、聞いてるでしょ。わたしたち、付き合ってるの。」
 わたしたち…。なんて羨ましい言葉。それも、奴のいない場所で彼女が「わたしたち」なんて、当然のように言う。ボクにもいつかは、そんな女(ひと)が現れるのだろうか。
「ああ、聞いてる。知ってるよ。」
 といっても、ボクは、奴から彼女のことは詳しくは聞いたことがない。ただ、彼女がいる、それは紗代さんであり、下校も時間を示し合わせていることは知っていた。でも、どんな付き合いなのか、うまくいっているのか、そんな仔細など知る由もない。
 二人はそれぞれにテニス部であり、華道部で、帰宅組のボクには、二人が連れ合って歩く姿も、一度か二度、目にしたことがあったかどうか、だった。
 ボクは、暗くなる前に帰る…。少なくとも、学校は去る。公園をぶらついたり、繁華街をうろついたり、映画館を梯子してみたり、時間をどう潰すかということで頭が一杯なのだった。
 こんなボクと奴は親しい気でいる。ボク等は親友だとさえ思っている。いつぞやは、打ち明けたいことがある、近いうちに相談に乗ってくれ、などとも言われたりする。
 ボク等。それは、わたしたちと同じほどに、ボクには縁のない言葉なのに…。
 どうして、みんな、自分たちのことを複数形で表現できるんだろう。家族。友人。ああ、そういえば、ボクも友人と言っている。友とも。でも、それはそう表現できる相手が、ボクにだっていることを自分に示したいからに過ぎない気がする。弱いからなんだ。
 だったら、他の人も弱いからボク等とか、わたしたち、なんて言うのだろうか。
 遠い世界から声が聞えてくる。ボクは不意を打たれたようで、一瞬、度を失った。
「あのね、彼ね、最近、冷たいの。なかなか付き合ってくれないの。」
 それがどうした、などとは言えない。ボクは、先を促すように彼女の顔を覗き込む。ややカールした長い髪が顔の半分を隠している。美人だ。唇が素敵だ。肌が白い。胸元が蝶々結びされたリボンでしっかり隠れている。でも、喉元の白さまでは隠せない。ああ、これが奴の彼女なのだ。わたしたちの片割れなのだ。離れていても、二人の間には、目に見えない糸で結ばれている。赤い糸、ピアノ線より細く、それでいて伸び縮みする糸、そう、離れるほどに糸はピンと張り詰めて、二人を引き合う力が増す。
「彼ね、今は、ボク等は、受験生だから。離れていた方がいい、なんて言うの。ねえ、わたしって受験勉強の邪魔なの。男の人って、そんなふうに考えるものなの。」
 そんなことは分からない。第一、ボクは受験生じゃない。第二に、ボクには彼女がいない。よって、奴の発想法など、分かるはずがない!
 ボクは、そう言ってやりたかった。妬みもあるし、悔しいし、二人の仲を引き裂きたいし。どうしてボクじゃなく、奴なのかを彼女に問い詰めたいほどの気持ちだ。
「男にとって、進路の決まる今って、大事なんだよ。彼も必死なんじゃないか。決して、キミのこと、嫌いなわけじゃないと思うよ。」
 本当だろうか。奴に真意を確かめたことがあるのか。いい加減なこと、言って、あとで取り返しがつかないってことはないのか。でも、ボクも、いい格好しいになりたかった。知ったかぶりを言って、彼女の前で男になりたかった。
 ボクは、その後、彼女とどんな会話をしたのか、覚えていない。口から出任せを言ったとまでは思いたくないけれど、さりとて、責任の持てる発言や忠告をしたとも思えない。
 やがて、小さく「ありがとう」と言い、覚束なげな足取りで去っていく彼女の後ろ姿を見ることになった。
 彼女は、お尻を払うこともなかった。なんとなく、ガッカリした。お尻の辺りが、テラテラしていた。それが彼女について覚えている最後の印象なのだった。
 
 それからしばらくして…。でも、しばらくとは言いながら、どれほどの間が空いていたのかは分からない。でも、秋の真っ盛りに彼女の相談を受けたのが、今度、奴に相談を持ちかけられたのは、冬の気配が漂ってきそうな頃合いになっていたことは覚えている。
 男同士の、つまらない話だった。
「お前、オナニー、やってるか。」
 ざっくばらんを装うのが奴の常套手段だった。単刀直入に話を肝心なところへ持ち込む。おっちょこちょいで、時にひょうきんで、でも、真面目に進学のため、勉学にも励んでいる。糸の切れた凧のように、目標を見失っているボクとはまるで違う世界へ、ドンドンと踏み込んでいく。
 その度に、ボクは置いてけ堀を食らってしまう。進学も恋も男の世界も。
 当惑しながらも、ああ、やってるよ、と答えるしかなかった。うそを言う必要もない。
「オレ、激しくてさ、日に何度もだよ。お前はどうだ。」
 そんなこと、なぜ、オレに話をするのか…。と不審に思った瞬間だった。なんだ、奴、受験する身だから、今は二人はあまり付き合わないほうがいいってのは、つまりは、彼女が傍にいると、欲求不満が募って辛いからなのか! と勘付いた。
「オレか、オレは、やっぱり、そうだよ。仕方ないじゃないか。多いのは自然なんじゃないか。」
 オレは、何故か、この話題にビビッテしまって、一般論に持ち込もうとした。
「男は、でも、きっと女もだろうけど、若い時期は、欲望がムンムンしているものさ。お前が多いったって、別に変じゃないよ。」
「そうか。」そう、呟いて、奴は安堵したように見えた。
 ボクは、聞きかじりの哲学者か誰かの言葉を持ち出した。倫理社会か何かの教科書に書いてあった言葉だった。
「お前さ、昇華って知ってるか。」
「昇華?」
「ああ、浄化とも言うけど、ま、原語だとカタルシスなのかな。」
「カタルシス?」
「行き場を失ったような、遣る瀬無いような欲望とか本能とか衝動とか、ま、ストレスって奴をさ、単純に行動に、つまりさ、性欲だったらあHとかさ、オナニーに耽るんじゃなくて、芸術とか文学とか音楽とか、そういった高尚なものへの表現行為に転換することさ。」
「ふうん。それっていいな。」
 ボクには何がいいのか、分からなかった。口から出任せなのだ。自分にはまるで出来もしない理屈に過ぎない。仮に出来たって、何年も何十年も掛かるかもしれないのだし。
 その後、何か、お喋りを続けた。何を語らったのだろうか。
 それから、しばらくして、奴から、どうだ、雪の古城公園なんか、散歩してみないかと誘われたのだった。
 奴は、どのように彼女のこと、オナニーを昇華したのだろうか。
 そんなこと、できるはずもないのに。ボクはとっくにめげてしまって、その世界に溺れてしまっているというのに。
 まさか、奴、ボクが昇華しているとでも思っているのだろうか。
 列車を降りると、古城のある町は、ボクたちの町より雪が降り積もっていた。
 長靴で歩道を歩くと、雪に靴がごぶって、ギュッギュッとか、キュッキュッといった雪道特有の音が聞えてくる。雪が踏み固められる音なのか、それとも、固められる際に、雪の層の中に篭っていた空気が漏れ出す音なのか。

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2004/12/22

雪だるま

tanu-yukidaruma あれはずっと昔のこと、もう、思い出せないほどに。
 それとも思い出したくないほど遠い昔のこと。
 ボクは、何故だか、悔しくなって家を飛び出した。
 ボクは、出ていかなきゃいけないと思って、ゴム長を履いて飛び出した。
 そうだ、母ちゃんが、頭、冷やしてきなさい! なんて怒ってたんだっけ。
 何を叱られたのか。

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2004/12/20

おしくらまんじゅう

「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」
 冬になると学校では、おしくらまんじゅうで遊ぶ。
 校庭は雪がどっさり降っていて、さすがに遊べなくなっている。
 いつだったか、自衛隊の人たちが来て、ブルドーザーで雪掻きしたことがあるって、近所のおばちゃんに聞いたことがある。そこまでは積もってないみたいだけど。
 ああ、でも、そんな光景、見てみたい。
 そうだ、校庭の端っこにある築山も、その頃に作られたとか。スキーで遊べるようにって。
 父ちゃんは、築山では遊んでいない。もう、卒業していたらしい。母ちゃんも、遊んでいない。他所の町から嫁いできたから。
 近所の姉ちゃんに聞いたら、あたしの卒業した後のことよ、だって。 ボクは、あの山じゃ、スキーよりグラススキーをよくやる。でも、スキーもやるけど、夏のソリが楽しいかな。ダンボールをお尻に敷いて、勢いをつけて一気に滑り降りる。学校じゃ、危ないからって禁止してるんだけど、みんなやってる。
 冬は、雪合戦も大好きでやりたいけど、これも学校じゃ禁止されている。廊下じゃ縄跳びもダメだし、ベーゴマもダメ。で、やっぱり、おしくらまんじゅうってわけ。
 これも、先生にはダメだって言われている。うん? ダメって言われてなくて、気をつけろよと言われてたんだっけ。小さい子がいたら危ないからって。でも、みんなボク等みたいな子だから、大目に見ているのかもしれない。
 危ないより何より、息が出来ないほどに苦しかったりする。ほんの数分もやったら、体がポッポしてくるのはいいけれど。 
 ある日のこと、昼食のあと、ふと、やろう! ということになって、廊下にみんな集まった。ビックリしたのは、中に女の子が二人、混じっていたこと。大丈夫なのかな。
 でも、本当に驚いたのは、そのうちの一人はボクの好きな女の子だったってこと。保育所の時代から、ずっと好きだった。小学校に入っても、クラスが同じと分かって、どれほど喜んだことか。
 だって、クラスが一学年に十組もあるんだから、宝くじより当たるけれど、でも、離れ離れになるって覚悟していたんだ。
 もち、喜んだのはボクのほうで、彼女、どう思っていたか、分からない。大人の表現を使えば、「せいそ」って感じの女の子。ボクと違って、勉強ができるし、躾もしっかりしている。
 今まで何度となく、おしくらまんじゅうをやったけど、彼女は、教室で本を読んでいるか、友達とお喋りしている。廊下ではしゃぐボクたちのほうなど、見向きもしなかった。
 なのに、どうして?
 ボクは、喜んでいいのか、分からないでいた。あの子と堂々とくっ付き合えるけど、おしくらまんじゅうの大変さ、あの子、分かってるんだろうか。息が詰まるぞ! って言いたかった…けれど、ボクに言えるはずがない。
 一体、誰が誘ったんだろうか。それとも、あの子、前からやりたかったのか。それも、昼休みのおしくらまんじゅうだ!
 午前や午後の授業の合間にやるのは、それこそ、十分もないし、体が暖まったかなと感じ始めたら、チャイムで終了してしまう。
 でも、昼休みのは、結構、きつい。なので、いつからか、廊下にワッカにした紐を楕円の形に置いて、そこから食み出したら負け、というルールが出来上がった。
 廊下には十人ほどが集まっていた。ワッカから出たら負けという以外にルールなんて、あったのかどうか。泣いたら負けだという暗黙のルールみたいなのは、あったけど。
 最初、廊下の真ん中で、みんなにらみ合うようなふうに見合っている。で、合図があるわけじゃないけど、よし! とばかりに固まりあう。段々、どちらかに押されていって、ついには板の壁に移動していく。
 どういうわけか、ワッカも移動していく。きっと、食み出しそうになった奴が足で引き摺っているんだ(ボクも、そうしたことがある)。それとも、足に絡まったりしたのか。
 みんな、背を向けたり、お尻を突っ込ませたり、正面から頭を押し付けてみたり。
 最初は、「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」なんて、景気付けみたいに言っていたけど、すぐに、言葉なんて喉の奥に引っ込んでしまって、ただ黙々とおしくらやっていた。グーとかギューとか、むん! という言葉にならない呻きが響く。
 ボクは、その時、ただただ、あの子のことが気になっていた。押し潰されたりしてないか、心配だった。ボクが体を張って守ってあげるんだ。ボクはいつも以上に踏ん張っていた。足が攣りそうなほど突っ張っていた。あの子の頬っぺが間近だった。よくは見えなかったけど、顔が真っ赤だ。目がギュっと閉じられている。
 何本もの腕が交差している。その中にあの子の腕がある。冬なのに半そでのあの子。その手がボクの頬をぶった!
 ぶったんじゃなくて、何かの勢いで頬に当たっただけなんだろうけど、ボクの頬はカッと熱くなった。
 そう、嬉しくて。
 でも、平手打ちされことより、その腕が毛深いのに驚いた。薄茶色の、そう、どこか金色の柔らかそうな、細ーい毛がびっしりと生えている。ボクの大好きなトウモロコシだ! それも茹でたての湯気が上がっている奴。
 ボクは、なんだか、妙な気分になってしまった。生唾さえ、飲み込んだりした。かぶりついちゃおうか?!
 それが、油断だった。ボクは、いつもなら、おしくらまんじゅうの最後の一人を争うはずが、真っ先にワッカから食み出してしまった。
 負けだ!
 ボクは、廊下の隅にすごすご退いていった。息をはーはーさせながら、あの子のいるおしくらを眺めていた。
 ボクは負け犬になって、ずっと眺めていた。あの子は、予想に反して、最後まで残っていた。もしかしたら、他のやつ等も手加減していたのかもしれない。もう一人の女の子も、途中で脱落して、残ったのは、あの子と、やせっぽちのKの奴だ。
 ボクは、今ごろになって気付いたけど、Kも、休み時間は、たいていは、本を読んで過ごしている。なのに、あいつまでおしくらを。
 ああ、Kにあの子が盗られてしまっている。やせっぽちだけど、勉強のできるあいつ。あの子とクラスでトップを争っているあいつ。
 まるで、今日のおしくらまんじゅうは、あいつら二人のために仕組まれたみたいだ…、ボクは、そんな情ないことを考えながら、口をあんぐり、眺めていた。みんなの前で堂々と、二人して、相撲みたいなことをやっている。ワッカの中で、はしゃぎながら、息を弾ませ、追い掛けっこしてみたり。
 ボクは見ていられなかった。まるで、あのワッカは、二人を囲む光の輪のようだった。
 ああ、負けた! おしくらまんじゅうでも、負けた!

 もしかして、今、二人きりのおしくらまんじゅうが大好きなのも、あの日の悔しさを晴らすためなのだろうか。ね、お前。

 おしくらまんじゅう

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蓮っ葉な奴

「蓮っ葉な奴」

 学校からの帰り道だった。土砂降りの雨だった。でも、寒くはない。
 まだ、夏の暑さの印象が残っている頃だったからか、雨降りは反って嬉しかったような気がする。
 雨だというのに、ボクは、まっすぐウチに帰る気になれないでいた。
 そう、ちょっとした言い争いが心に蟠っていたのだ。むしゃくしゃしていた。どう見ても、ボクのほうが負けている。
 でも、ただ、負けているんじゃなくて、ボクにはもっと言いたいことがあったのに、言い分の十分の一も口に出せないまま、その場の雰囲気に呑み込まれてしまって、口を噤むようになってしまったのだ。
 ボクの足は、ウチじゃなく、ちょっと離れたところにあるお寺に向っていた。
 それなりに由緒のあるお寺らしいけれど、当時のボクには、なんとなく足が向かなかった。
 というのも、その寺には蓮の池があって、その池の水がまた、濁っているので、それだけで敬遠したくなる気になってしまう。
 でも、本当の理由は、お寺の住職さんが嫌いだったからだった。
 お寺が嫌いというより、池の周辺でうろうろしていると、危ないからとか言って、すぐに追い出されるので、そのお坊さんと出くわすのが嫌だったのかもしれない。
 それなのに、あの日は、蓮の池を見たくてならないのだった。
 きっと、雨が降っていたら、お坊さんも引き篭もっていて、わざわざ本堂の裏手にある池を見回りにもこないだろうという、根拠のない勘が働いていたようにも思う。
 なんとなくだけれど、お坊さんがボクを追い出したがるのは、池の蓮を愛でに来る人たちの邪魔になると思っていたからだとも考えられていたし。
 学校で、何が原因で口喧嘩になったのか、肝腎な点を覚えていない。
 むしろ、喧嘩のための喧嘩であって、奴とはウマが合わなかったのだ。成績優秀で、間違いなく県でも進学校と言われる高校に入るだろうという奴と、そこそこの高校にも受かるかどうか、危うかったボク。
 奴と議論を始めると、まるで敵わない。奴はとにかく捲くし立てる。いろんな理屈を持ち出す。ボクの主張のちょっとした矛盾を突いて、どうだ、とばかりに得意がる。

 でも、それはいつものことだった。
 悔しかったのは、いつもと違って、そこにボクの好きなあの子がいたからだった。あの子は、議論には加わらなかったけれど、奴の理路整然とした語り口、語り始めたら、それこそ湯水のように、有名な人の言葉なんかを引用して、自分の主張を権威付ける。
 ボクには、彼女が奴に陶然としているように思えた。ボクの無様な、ポツポツという水鉄砲の語りに比べ、奴は機関銃だった。マシンガンだった。得意の絶頂になって頬が紅潮するのだった。紅潮するのだけれど、逆に奴は、眉を顰めて見せて、俺は深く考えているんだよと見せつける。その眉の顰め方がまた、ボクにはわざとらしくて吐き気を催すほどだった。
 けれど、彼女には、奴の素振りが秀才風で、魅了されているようだった。
 一方、ボクは悔しさで頬が紅潮していた。
 頭の中には、違う、違う、お前の言っていることは間違っているという、直感に過ぎないかもしれないが、自分なりにボクのほうこそが、正しいのだと思えて、しかも、そのことを説明できなくて、苛立つばかりで、二進も三進もいかないのだった。
 時には、気がついたら、さっきまでボクが主張していた点を奴が、さり気なく自分の主張の中に取り込んでしまって、さも、最初から自分の意見だったかのように装ったりした。
 あれ、それって、ボクがさっきまで言っていたことじゃないか…。
 が、奴は知らん顔だった。澄ました顔で、ボクの意見を自分の意見だったかのようにして、今度は、逆の立場からボクの言っていることを論破し始める。
 それは、やり方を知り尽くしたオセロゲームのようなものだった。あるポイントを抑えておけば、どう相手が足掻いてみても、気がつくと最後には、勝ってしまう。逆転して、相手を旧知に追い込んでしまう。ボクが勝つはずだったのに、ボクの論拠だったはずなのに、形勢は相手に味方するばかり。
 奴にはスポーツでも敵わない。勉学でも口でも敵わない。終いには、論争の場に際会したあの子は奴に靡いていってしまう。あの子とは、やっと学校の帰りに一緒になったりすることができていたのに。
 ボクは何もかもが奪われたような気分だった。挙げ句、昼過ぎから降り出した雨が、土砂降りになっていて、ボクには涙雨だった。日が未だ長く、秋というには躊躇われる。それなのに、四時前だというのに、空は暗かった。ボクの胸の中のように真っ暗だった。
 いっそのこと、傘なんか、おっぽり出して、ずぶ濡れになって帰ろうか…。
 あの子は、一緒に帰ろうって、約束していたのに、六時間目の授業が終わったら、つつつとやってきて、用事があるから、一緒に帰れないの、なんて言って、教室を出ていってしまった。
 きっと、奴のところへ行くんだ。
 そうだよな、オレなんかより、奴のほうがずっと将来性もあるし、颯爽としているし、そもそも、オレなんかがあの子と口を聞けただけでも、何かの間違いだったのだ…。
 ボクは雨の勢いに負けて、傘を差して学校を出た。
 傘もなく、ずぶ濡れになって、孤独な気持ちを抱えて、人気のない道をトボトボと歩く……、そんな光景を描いて、センチな気分に浸って、そうして、もう、トコトン、憂鬱になってやる、誰が慰めても、ボクの悲しみを慰められるはずもないし……、そんな光景を脳裏にありありと描いたというのに、いざ、雨を前にして、ボクは、傘を手放すことができなかったのだった。
 なんだか、奴に負けたより、雨の中、傘を差して一人歩きだしてしまった自分の優柔不断さが惨めに思われた。
 これじゃ、何をやっても、ダメな奴ってことじゃないか。

 蓮の池の前に立った。池の周囲を散歩する人が、日除けというのか、それとも、今日のような雨を避けるためなのか、ちょっとした庇のある東屋とも呼べない柱だけの建物があった。
 傘をやっと手放すことができた。
 それまで、傘に無数のパチンコ玉がぶつかるようで、煩すぎて分からなかったけれど、雨音に急に注意が向いた。
 激しい雨が、池を叩きつけていた。爆ぜる水の音が耳に痛いほどだった。水面を叩いて弾ける音より、蓮の葉を叩いて破裂する水音のほうが分厚く、低く聞え、雨音の違いが歴然としていることに驚いた。
 人っ子一人いなかった。ボクだけの池だった。池一杯、蓮の浮いている、周囲百メートルほどの池だった。
 その時になって、以前、奴と「蓮と睡蓮」の違いについて議論したことがあったことを思い出した。よりによって、こんな時に、不愉快だった。最初、蓮と睡蓮の違いを強調したのは奴のほうだった。
 そもそもが同じ科なんだし、それほど違わないんじゃないのとボクが言い始めたから、奴は違いが大きいと言う。で、次第に奴の語り口に負けて、確かに違いもあるよね、とボクが折れると、今度は、でも、所詮は蓮の仲間同士なんだよと、さりげなく論旨を変えてくる。
 要するに、どんな議論をやっても、奴はボクの主張の逆を、主張の甘さを突いているのだった。
 その蓮が目の前にある。雨に降られて、でも、蓮の分厚い肉は、びくともしないで池に浮いている。
 池の水は、いつも以上に濁っているようだった。それとも、いつも、こんなふうに濁っているのだったろうか。たまにしか来ないボクには変化が分からない。
 その濁った水に蓮の葉が浮いている。それこそ泥水のようになった池に、体全体を漬からせ、それでも、緑の葉を浮かばせ、小奇麗な花を咲かせているのだった。
 奴との議論で、奴が、「ハスは、葉や花が水面から立ち上がるが、 睡蓮は、葉も花も水面に浮かんだまま」なのだと、何処で仕入れたか知れない知識を得意げに披露してたのを思い出した。
 そうか、奴は睡蓮なんだ。そして、あの子も、睡蓮に憧れる女の子に過ぎないんだ。
 そして、ボクは蓮。泥水の中に頭まで浸かり、それなりに花だって咲かせるけど、その花も時に茶色の水に浸ったりして、人には見えない。あの子には、見えるはずもない。
 ボクは、蓮のことを思った。それとも、植物のことを思ったのだろうか。大概の植物は泥水ではなくとも、土に咲くのが普通のはずである。水分は、土中から根っ子というストローで栄養分と一緒に吸い上げるわけだ。
 つまり、理屈の上では、泥水も土でも、似たり寄ったりの環境で多くの植物は育つのである。
 蓮は、つまりは、そんな植物の典型の一つに過ぎない。ただ、たまたま池の面に浮いているから、そんな植物の生態を白日の下に晒して見せてくれるに過ぎない。
 そこまで思ったら、蓮だって、他の多くの植物に比べたら、睡蓮なのだと思われてきた。
 睡蓮が、花も葉も、まるで泥水を毛嫌いするかのように、体をえびぞりにして、葉を花を誇らしげに咲き乱す。そう、自分の血肉が、出自が、汚れた泥水の世界とは、全然、縁も縁(ゆかり)もないかのように、すまし顔に高貴ぶる。
 蓮も、池の面に浮いていて、なるほど、泥水の面に寝そべるように葉や花を咲かせるから、泥水を啜る様子が、あからさまだけれど、多くの植物は、そんな泥の中での根っ子の足掻きなど、見せたりはしないのだ。
 ボクは、蓮の上に、チョコンと坐っている蛙に気がついた。人間ならサッカーのボールほどに大きいだろう雨粒を頭や背中に受けても、平気な顔だった。
 むしろ、雨に叩かれるのを喜んでいる風にさえ、見受けられた。
 ああ、艱難辛苦をものともしない。それだけじゃない、嬉々としてさえいる。
 ゲロゲロと、快哉の声を上げている。
 雨の中、傘を差すか、差さないかで悩んだボクには眩しいほど、颯爽としている。
 ボクは、蛙にさえ、負けたと思った。
 いいんだ、ボクはボクの道を行くんだ。あの子が、あんな奴に心が傾く蓮っ葉なあの子なんて、いなくたって、平気だ!
 もう、自棄だった。
 不意に目元が潤んできた。雨滴のせいじゃなかった。目の辺りが熱くなっている。鼻水さえ、流れ出している。
 ボクはビックリした。えっ、ボクって、そんなに今、悲しんでいるの? と戸惑ったほどだった。慌てて周囲を見回した。泣いているところを誰かに見られたんじゃないかと、心配になったのだ。男たる者、涙を他人に見られてなるものか!
 幸い、人影はまるでない。
 悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいんだ……、誰かに教えてもらった有名な言葉が浮かんだ。……ああ、これも、奴からだ!
 いいんだ、今は誰もいない。涙が流れたいのなら、勝手に流れればいいんだ。
 ボクはセンチな気分に思いっきり浸ってしまった。
 どうせ、オレなんて、勉強もできないし、クラブ活動も、仲間づきあいも苦手な落ち零れだ。やっとできたはずの彼女も、呆気なく奴に靡いていったし。
 それならそれで、思いっきり泥水に漬かってやる。首までどころか、頭まで泥水に沈め、耳の穴にも鼻の穴にも、口にだって泥水を浸透させる。
 目玉にだって、泥水が懸かれば、こんな恥ずかしい涙も出ないだろう。
 それにしても、空が暗い。雨が激しすぎる。空の彼方を眺めて、黄昏ようにも、周囲が朧な薄闇に包まれていて、気持ちが中途半端になって行き場を失っている。
 蓮の池から、ボクは、とうとう離れられなくなった。この場を去る切っ掛けを失ってしまった。さすがに厚い黒雲にさらに宵闇が重なってしまい、さらに周りの暗さと肌寒さとが相俟って、ボクはセンチな気分にさえ、浸れなくなっていた。
 蓮の池が、闇に没していこうとしていた。が、不意に橙色の明りがホッと灯った。本堂も点燈され始め、その明りが漏れてきているのだった。
 気に食わない和尚さんさえ、慕わしいような気がした。
 池面に橙色の光が、揺れ動き、崩れ折れ、見え隠れし、千々に乱れた。なんだか、死にきれない狐火、それとも迷い出た人魂、夢の中の蛍火、炬燵の穴の中の熾き火を想った。
 が、不思議なことに、池の対岸で無数の光が固まり始めるような光景を目にした。
 乱れ散ったはずの光がどうして一個の形に収斂するはずがあるのか?!
 まさか、人影? 一瞬、ボクは幽霊が現れたのかと思った。
 でも、その幽霊は、傘を差している風にも見える。
 錯覚、なのだろうか。
 目を凝らしてみた。
 そこには、女の子が居た。
 そう、ボクの彼女がいるではないか。
 ねえ、どうして約束の場所に来なかったの!
 紛れもなかった。あの子だ。ボクの彼女の声だ。
 約束……、脳裏を駆け巡るものがあった。そして閃いた。
 ああ、昼休みのボクと奴との議論の最中に彼女がやってきて、今日はクラブ活動がないから、一緒に帰るのよ、と言われていたんだった。そうだ、六時間目が終わって彼女が来たのも、念を押しに来たのだと、やっと気がついた。
 ボクは、議論に興奮して、すっかり忘れていたのだ。
 どうして、でも、茜ちゃんがここに?
 ばーか、タクちゃんが一人きりになる時は、ここだって、いつも口癖みたいに言ってたじゃない! もう、世話、焼けるんだから!
 ボクは、そんな独り言にさえ、気が付かないでいた。
 でも、いい、そんなことは、いいんだ。ボクは今、彼女と一緒にいる。
 雨水にドップリと打たれて、そして、二人して咲き揃っているんだから。
 ああ、それにしても、蓮っ葉なのは誰よりもボクのほうなんだ。


                         (04/10/16 作)

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2004/12/16

影踏み

 冬の日の或る朝のこと、目覚めた瞬間、遠い日の長い影が脳裏に浮かんだ。
 あまりに影の輪郭が鮮やかなので、手を差し出したら、軒先の氷柱のように掴むことができる、掴み損ねたら、影の刃に切り傷さえ負ってしまう…、そんな気さえした。
 長い影は、長く伸びた人の形をしている、そう、人の影のはずだった。
 でも、それは鬼だった。鬼の魂が地上の世界に投影されている。ボクは、あの日、鬼に追いかけられていたのだ。
 何か怖いような、でも、その断片的な記憶の底を探ると、忘れてしまった、しかし本当は忘れてはならない何かがそこに潜んでいると直感された。
 外は曇っている。時計で時間を確かめるのが億劫だった。ただ、朝というには、憚られるような遅い目覚めだということは、なんとなく感じる。部屋の中は薄暗い。
 オレは、目を閉じた。粉々に砕け散ったガラスの破片を掻き集めようと思ったのだ。破片を繋ぎ合わせて、形にしたい。記憶の中のジグソーパズル。ともすれば、闇の雲に消え入りそうな記憶の欠片たち。
 そうだ、それは、影踏みだ。あの日、ボクは、近所のみんなと影踏み遊びをしたのだった。
 今時、そんな遊びをする子供なんて、いるのだろうか。
 ルールは簡単だった。できれば、人数は最低でも3人はいたほうが、面白い。みんなでジャンケンして鬼を決める。鬼以外の人たちは、鬼役の人に影を踏まれないように、ひたすら逃げ回る。そう、だから、影の長い、秋から雪の降る冬までの間の遊びだ。
 ああ、段々、思い出してきた。逃げる方は、鬼に影を踏まれそうになったら、そこらの雪吊りされた木立とか、作業小屋の陰とか、植え込みとか、とにかく適当なモノの陰に隠れて、自分の影を消し去る。そうしたら、鬼も影を踏めないというわけだった。
 そして、少しでも影を踏まれた奴が、次の鬼になり、他のやつ等は逃げ回るというわけだった。
 そうだ、日曜日の昼過ぎなんかに集まって、他の遊びをやり、もう、飽きたところで、この遊びをしたような気がする。年長の誰かが曰く、影が短いと捉まりにくくて、鬼役は大変だとか何とかという理由だったと思う。
 影踏みは楽しかった。それに、人数さえ揃えばいいし、道具は何もいらないし、天気がよくて日差しさえあれば、するにでも始められる。なんといっても、楽しい。楽しい以上に、始めだすと夢中になってしまうほど、面白い。
 鬼ごっこって、どうして、あんなに面白かったのだろうか。
 誰もが鬼から逃げたいから…かもしれない。でも、誰もが本当は鬼になって誰彼構わず、理由などなく、追い掛け回したいという気持ちがあるからじゃなかろうか。
 そう、理由なんて、要らない。訳も分からずに追う、追われる、逃げ回る、追い掛け回す、影を追っているだけなのに、踏まれるのは影だけなのに、だから踏まれたって痛いわけじゃないのに、でも、追うほうも追われるほうも必死になってしまう。
 もう、真剣(マジ)だった。本気だった。
 今となっては、オレには、でも、当時の遊びのルールの本当のところは覚えていないのかもしれない。
 例えば、庭の岩の陰に隠れて自分の影を消し去ったとして、鬼はどうしたんだっけ。どうやったって、相手の影を踏めないじゃないか。
 それとも、物陰に隠れるのはルール違反にしたのだったろうか。
 ああ、そうだ、鬼を決めないで影踏みしたこともあった。誰もが、誰彼構わず、他人の影を踏む。踏まれた奴から脱落し、最後に残った奴が勝ちだった。影踏みのバトルロイヤルというわけだ。
 段々、思い出してきた。たまに、みんな地べたに、うんこ坐りして、それで影踏みを試みたことがあった。これは足腰を使いすぎて、体力をやたらと消耗させて、すぐに遊びは止めになった。みんな疲れ果て、あははは、なんて訳もなく笑い合って、地べたに寝転がっていたっけ。
 そうだ、当時、気付いていたのかどうか分からないけど、影踏みは、影が長いほうがスリルがあって面白いんだけど、影の長い昼下がりに始めると、あっという間に釣瓶落としの夕暮れが襲ってきて、鬼のも、そうでない奴のも、影という影が呆気ないほど宵闇に飲み込まれていく。
 普段は影がどうなるなんて、気にしていないけれど、影踏み遊びをしていると、自分の影が闇に没していくのが分かって、遊びの終わりが近付いているという予感がしたり、それ以上に、闇の圧倒的な暴力のようなものを感じたりして、怖かった。

 そうだ、ボクが一番、怖かったのは、ボクの影が日暮の時が近付くにつれ、やたらと長くなっていって、もう、とめどなく長くなり、それがまるで、闇の海から魔物の触手が伸びてきて、ボクの影をわし掴みし、掴むだけじゃなく、思いっきり引っ張って、ボクを影ごと、闇の海の底に引き摺り込もうとしていると感じた瞬間だった。
 溺れる!
 ボクは周りのみんなに助けを求めた。
 でも、周りには誰も居ない。
 そう、みんなとっくに帰路についてしまったのだ。ボクだけは遊びに夢中になり、逃げ回りすぎて、鬼も捕まえきれず、気が付いたら、一人、長い影を引き摺って、それとも、長い影に魅入られて、見知らぬ土地に居る自分を見出したというわけだった。 
 そこは、やたらと広い田圃のようだった。見渡しても、藍色の闇に彼方の様子を望むことはできない。我が村の作業小屋に似ているような、でも、やはり違う小屋や、泣きじゃくるような鳴き声のするニワトリ小屋なんかがあるだけだった。
 ボクは、村の何処かの郵便ポストの傍に立ち尽くしていた。
 よく見ると、傍には、バス停があり、雨宿りのためなのか、待合所らしい小屋があった。ボクは、その小屋のベンチに腰掛けることにした。灯り一つ、あるわけではなかった。遥か遠くに、誰の家なのだろう、窓の灯りが小さく見える。あそこへ行ってみようか、ボク、迷子になったんです…って、言ってみようか。
 ボクは泣きべそを掻きそうだった。
 どうして、ボクを放って、みんな帰ってしまったんだ。
 晩秋の夜は、寒く、幸い木枯らしは吹いていなかったけれど、ボクの胸には見捨てられたという悲しみの木枯らしが吹きまくっていた。いいんだ、ボクなんて、どうなったって。
 その時だった。聞き慣れた声が響いた。気のせいなんかじゃなかった。
「あんにゃ、そんなとこで、何、しとんがいね!」
 姉ちゃんの声だった。
 ボクには、声も出なかった。なんだか、恥ずかしくて、迷子になったとも言えなかったし。
 姉ちゃんは、肩にいつもの赤紫色のディズニーのバッグを担いでいた。
「姉ちゃん、何処、行くが?」
 ボクは、やっと、言葉が出た。
「何処、行くがって、帰るところだがいね。」
「帰る? 何処、行っとったがね。」
「算盤だちゃ。塾だにか。もう、遅いから、帰らんまいけ。」
 ボクは、なんとなく、気が抜けたような感じだった。あの恐怖はなんだったんだろう。姉ちゃんのあまりの呑気な顔、声。
 それに、姉ちゃんが算盤塾に行っていたってことも、初耳だった。
 ボクは、姉ちゃんと影踏みしながら帰りたいと思った。幸い、雲間から月明かりが洩れて来ていた。
「姉ちゃん、影踏み、やろう!」
「いややちゃ、もう、遅いし」
「やろ!」
「しょうがないねー。じゃ、わたし、鬼、あんにゃ、逃げられ。」
 ボクは、逃げた。今度は、真っ直ぐ、家に向かって。


                              (04/12/15 作)

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2004/12/05

遠い海

 あれはいつのことだったろう。近所の兄さんに海へ連れて行ってもらったことがある。
 我が家からは数キロメートルほどしか離れていない。歩けば一時間以上はかかるけれど、自転車だったので、ゆっくり走っても二十分ほどだったか。
 でも、その三十分にも満たない時間の長かったこと。
 その後も、海へは何度も行っている。I浜は、ボクには思い出のたっぷり埋まった浜辺なのだ。
 なのに、どうしてその時の浜が今も印象的なのか。
 一つは、自転車のことがあった。自転車に補助輪なしで乗れるようになったら、海に連れてってやる、そう、兄ちゃんに言われていたのだ。多分、電車では家族で海水浴に行ったことがあるはずだけど、この足で、となると、あれが初めてだった。
 ボクは晴れやかな気持ちだった。誇らしくて、もう、何処へでも行けそうな気がしていた。
 自転車を漕いで、兄ちゃんの後を必死で追い駆けていった。兄ちゃんにしたら、振り返り振り返りで、ゆっくり走っていたのだろうけど、ボクは、目一杯だった。信号が赤になって、兄ちゃんが止まってくれるのを祈るように願っていたこともあった。
 けれど、兄ちゃんは、信号が赤でも、周囲をチラッと見るだけで、さっさと交差点を渡ってしまう。ボクの目論見は呆気なく外れてしまう。
 ボクの印象だと、その頃、道路事情が最悪だったはずだ。後から振り返ってみると、我が郷里に限らず、全国的に交通戦争と叫ばれ始めた頃で、交通死亡事故もいよいよ一万を越え始めていたのだった。
 そんな中、補助輪をやっと卒業したばかりのボクを引き連れて、自転車で海へ、車のビュンビュン走る産業道路を走るなんて、無謀といえば無理があったのかもしれない。
 ボクの朧な記憶だと、歩道と車道とを区別する白線も、まだ引かれていなかったはずだ。中央の白線があったかどうかさえ、記憶に定かではない。ダンプだけじゃなく、普通車だって排気ガスを濛々と吐き出していた。
 ボクは汗だくだった。春先で陽気が良かったせいもあるけど、自転車を漕ぐのに必死だったせいもある。もしかしたらほとんどが冷や汗だったかもしれない。
 そうだ、今、思い出したけど、道路が緩やかに曲がっているせいもあってか、一度、兄ちゃんの姿を見失ったことがあった。一瞬、ボクは、多分、その一年前だったかに家の近所を歩き回っていて、迷子になってしまった時のことを連想してしまった。
 散歩に出た時は、昼下がりだったはずだけど、気が付いたら、すっかり宵闇に包まれていて、そんな中、ボクは見知らぬ町の何処かを滅茶苦茶に歩き回った。見たことのあるような風景、でも、見知らぬ風景、似たような家並み、だけど、町の名前も、歩いている人も、何一つ、馴染みのものがない。行けども行けども、堂々巡りで、同じような光景がボクの眼前に広がっている。
 まるでボクは、町という怪物に嘲笑われているようだった。玩具にされている。世の中に弄ばれている。誰一人、味方になってくれる人が居ない。知っている人が居てさえも、ボクを素知らぬ顔をして通り過ぎていく。ボクは、世界で一人ぼっちだ。ボクは見捨てられてしまった。童話のようには、ひょんなところから、優しい誰かが現れてはくれないし、素敵な女の子に出くわすこともない。この世界は物語の中のいつか結末の来る閉じた世界とは違う。
 そうじゃなく、ボクは、放り出されている。このまま、闇の彼方へ消え去っても、世界は微動だにしない。ボクは相手になどされていない。
 あれから、ボクは、童話も昔話も嫌いになった。もっとストーリーのハチャメチャな漫画しか読まなくなった…。
 兄ちゃん、もしかしたら、ボクのこと、連れ出しておいて、他所の町で置いてきぼりを食らわすんじゃないか、ふと、そんな疑念に囚われた。
 が、すぐに、兄ちゃんの大きな背中が見えた。兄ちゃんも背中が汗でびっしょり濡れていて、シャツが張り付いている。あの背中に追いつくんだ! 
 その後も、幾度かゆったりと曲がりくねる道路の途中で兄ちゃんの姿を見失ったけど、もう、驚くことはなかった。幸いにも、脇道が少なくて、道をまっすぐ走っていれば追いつくってことが分かってきたのだ。脇にはデッカイ工場や学校、バスの車庫などがある。我が町を離れると、民家も、道端に散在しているだけで、見通しがよくなる。
 それでも、やたらと海が遠かったという記憶があるのは、何故なのだろう。
 もしかして…、ボクは兄ちゃんのことが怖かったのか。
 ここまで思い出してきて、オレは、あの頃のある場面の記憶が蘇ってきた。あの迷子の事件は、あれは、本当は兄ちゃんのせいだったのだ!
 ボクがまだ保育所に通っていた頃のことだった。兄ちゃんが、ボクの家に遊びに来ていた。兄ちゃんは、ボクの遊び相手になってくれていたけれど、ボクの家に来ることは、めったになかった。友達も多かったし、学校でクラブ活動していたし、ボクが遊びに行った時には相手にしてくれるという風だったのだ。
 でも、兄ちゃんがボクのウチに来ないのは、実は、ボクの遊び仲間が嫌いだったからだ。兄ちゃんがそう自分で言っていた。あいつ、ざいごもん(田舎者)臭くって、オレ、嫌いだ、そう、ある近所のボクより一つ上の子のことを言っていた。
 ボクも、なんとなく、そんな匂いを奴に嗅ぎ取っていたけれど、兄ちゃんほどには嫌いというわけじゃなかった。第一、兄ちゃんは、たまには相手にしてくれるけれど、普段の遊び相手は、あのYちゃんたちだったし、好みを言ってられなかった。
 その、兄ちゃんの毛嫌いしている奴が、よくボクの家に来る。だから、奴の匂いがするといって、ボクの家を敬遠していたのだ(本当かどうか、分からない。他にもっと理由があったのかもしれない)。
 が、或る日、兄ちゃんはどうしたわけか、ボクの家に来ていた。兄ちゃんは、ボクの姉ちゃんの部屋に案内させた。それは屋根裏にあった。姉ちゃんは、その時は、部屋に居なかった。だから、ボクは兄ちゃんをこっそり案内したのだ。
 兄ちゃんは部屋の中をジロジロ見回していた。当時のボクは、兄ちゃんがしげしげと眺めるのを不思議に思っていた。
 そのうち、兄ちゃんは、窓辺のベッドに横たわった。窓からは、我が家の田圃どころか、近隣の農村風景が見渡せる。あの頃は、今は、マンションや工場などが邪魔になって見えなくなってしまった神社が見えていた。
 稲穂が実っている時期だったりすると、窓を開ければ、じゃりじゃりしたような、微細な棘が無数に混じっているような、鼻の穴の奥がこそばゆいような香りが風に乗って舞い込んでくる。
 兄ちゃんは、ベッドに横たわり、腹這いになってしばらく身動きしなかった。そのうち、モゾモゾするような奇妙な動きを見せ始めた。
「こっちに来いよ」
 兄ちゃんがボクに言った。ボクは、兄ちゃんと時折する、相撲かプロレスの真似をするのかと、言われるままにベッドに入った。
 けれど、兄ちゃんは、ボクを横たえて、その上から覆い被さるような態勢になった。そして、ボクをじっと眺めた。
 ボクは、今でも、兄ちゃんのあの時の、ギラ付くような、まさに獣としか思えないような眼差しを忘れられないでいる。ボクは射竦められていた。兄ちゃんは、我を忘れているようだった。一匹の獣がいるだけだった。ボクは、身動き一つできない。息さえ、叶わない。空気はピタッと止まってしまっていた。凍り付いた一瞬だった。
 そのうち、ボクは耐え難くなって、泣き出してしまった。
 ボクは、何故、自分が泣いているのか分からなかった。恐怖感だったのだろうか。食べられてしまう、それこそ、童話の中のオオカミに食われる赤頭巾ちゃんのように。
 その後、どうなったのか、全く覚えていない。
 その日だったかどうかは覚えていないが、ボクは散歩に出て、そのまま迷子になってしまったのだ。
 そうだ、ボクは、自転車に乗って、兄ちゃんを追い駆けながら、気持ちの何処かで兄ちゃんに追いつきたくないと思っていたのじゃなかったろうか。
 自転車を漕ぐ爽やかさ。晴れ渡った青い空と白い雲。排気ガスの充満する道路。行き交う車の激しさという活気。何故か人気のない校庭や工場の、ガランとした空虚感。ボクは、自分の気持ちがどうにも定まりが付かず、茫漠たる気分だけを覚えていた。
 もうすぐ海だ。あの海だ。ボクを掠めて走るダンプカーの脅威から逃れられる。遠い目的地に辿り着ける。兄ちゃんに追いつける。近所のボクより逸早く自転車に乗れている連中に追いつける。
 でも、あの海には、あの日の忌まわしい出来事の続きが待っているような予感も、胸の何処かで感じていたはずなのだ。あの日は、きっと中断してしまった何かの続き、それがボクを待っている。
 兄ちゃんの大きな汗みどろの背中を眺めながら、ボクは、ただ、懸命にペダルを漕いでいるのだった。


(04/12/05 作)  
[たった今、書き上げた作品です。出来立てのうちに、どうぞ召し上がれ]

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2004/11/28

天国への扉

 オレの遠い昔の話である。殺人事件にだって時効がある。まして、オレのやったことは児戯に類することなのだ。
 でも、オレが一体、何をしたというのか。何もしていない。いや、ただ、ひたすら羨ましいと思っていた、それだけだった…。
 以下は、当時のこととて、ボクで通させてもらう。時折、オレが顔を覗かせるけれど、それは笑って見逃して欲しい。だって、オレとボクとは時の壁を隔てているとはいえ、同じ人間のはずなのだし。思い出話だけど、思い浮かべ語るのは、ここにいるオレでしかないのだ。
 開き直りじゃないかって? そうかもしれない。もしかしたら、ちょっと躊躇っているだけなのかも。

 ボクは、或る日のこと、近所の姉さんの奇妙な行動に気が付いた。
 それはボクがまだ、小学校に上がったばかりの頃だった。五月の連休前の頃だったろうか。出来の悪いボクだから、毎日、教室の後ろでバケツなど持たされて立たされてばかり。
 悪さをしたわけじゃないのに、まるで罰を受けるみたいに、水をたっぷり注いだバケツを授業が終わるまで持たされつづける。もう、慣れっこだったけれど、それでも、チャイムがなる頃には、腕が棒になってしまっている。腕が震えだしている。足も、鉛のようだ。感覚がまるでフワフワというか、オレンジ色のゼリーが体の中に詰まっているみたいだった。
 確か、その日は、数字の1から10を逆に、10から9、8、と遡って2、1へと言えということだった。
 クラスの大概の奴は出来ていた。出来ないのは、ボクを含め、三人だったけか。
 もっとも、ボクはその三人の中の唯一の常連で、他の奴は、問題とか学科によって日替わり、ん? 授業替わりというのかな。
 ただ、他のクラスには、ボクより猛者(もさ)がいた。ボクだって、たまにできることがあるけど、奴は、全く、できない。何一つ、できない。ボクでさえ、何とか先生の質問の意味くらいは分かるけど、奴は何が問われているかすら、全く分からないんだって、そんな噂を聞いていた。
 自分のことを棚に上げているようだけど、奴、愚鈍そうな顔をしている。学校の体面さえ保たれるなら、特別級を用意したいくらいだったようだ。
 ボクは、学校が終わると、いつも、一人で帰る。友達がいなかったから。そう、ボクは、保育所の頃も、小学校も、ああ、そうだ、オレは、高校を卒業するまで、ずっと真っ直ぐ帰宅組、それも、一人きりの。
 オレには、ああ、今はボクの話か、ボクの世界は、なんとなく丸っこい。丸まっているといっても、別に円満だとか、世界が平和だとか、穏やかだとか、そんな意味じゃない。そう、なんというか、閉じているんだ。負の意味の光の輪に取り囲まれているようだった。
 ボクの気持ちも思いも感情も、何もかもが、ワッカの中に封じ込められているみたいだった。何か喋っても、それが半径にすると数メートルの球体の中で反響して果てる。球の内面で篭ってしまう。ボクの言葉がまるで球の外に通じない。
 でも、球の外からの言葉は、すんなり入ってくる。すんなりどころか、ビンビン届いてくる。突き刺さってくると言いたいほどに、鋭い切っ先でボクの心を刺し貫く。球はボクのことを閉じ込めてしまうくせに、球の外界の一切の侵入をまるで拒まない。浸水する。ボクを水浸しにする。ボクを溺れさせる。ボクは窒息する。
 ああ、ボクは、何度、窒息して果てたことか。球の中で息も絶え絶えになって、酸素不足の水槽で、口をパクパクやっている。なのに、そんなボクのことを、周囲の誰も気付かない。
 ボクは、保育所を出る頃には、絶命していたんだと思う。世界とプッツリ、断ち切れてしまった。頭の中が真っ赤に燃え上がり、そうして焼き切れた。
 窒息して息も絶えようという瞬間、世界が本当に燃え上がるんだ。で、世界が燃えたはずなのに、焼け跡に転がっているのは、ボクの屍骸。真っ黒焦げの無慙なボク。
 母ちゃんは、どうして、こんなボクに気付いてくれないんだろうって、ほんの少し、思った。でも、ボクからは世界は見えるけれど、外の世界からはボクが見えないんだって分かった時、母ちゃんに無理を言ってはいけないだと思った。
 あれ? 話が脱線した。
 いいんだ、どうせ、中身のある話じゃないし。
 で、ボクはいつも一人で下校する。下校するといっても、何処へ帰る当てもない。家に帰ってもつまらない。家も学校も、ボクとは無縁の世界なのだし。ただ、習慣でボクは家に帰ったりもするだけのことだ。
 そんな或る日のことだった。ボクの目の前を奴がトボトボと歩いている。奴の後ろ姿を見て、ああ、奴もボクと仲間なのかなって、直感した。
 奴って、例の噂の奴のことさ。ボクに輪をかけたほどの魯鈍な奴のことさ。人のことをそんな風に言っちゃダメだって。話の中のことじゃないか。世間体を憚る必要なんて、ないだろう? どうせ、みんなボクのことも奴のことも、そんな風に思っているじゃないか。担任の女の先生も、ボクを見放している。声も懸けない。質問を全員にして、順々に答えさせる途中にボクがいるから、問い掛けるけど、ボクが口の中で答えをもごもごさせている間に、さっさと隣りのやつの方へ目が向いている。答えが、それこそ、出来の悪い、錆び付いた機械みたいにやっと出てきた頃には、先生の目線は、遥か彼方なのだ。
 先生、ボクはここにいるんだよ、答だって、分かったよ。答えさせてよ。
 でも、ダメ。出来なかった奴等は、教室の後ろに立てって言われて、それでお終いなのさ。
 ああ、また、脱線だ。ボクは、奴のことなど、全然、関心はなかった。その日は、ボクはどうかしていたんだ。余程、退屈していたんだろうか。
 それとも、奴の歩きぶりに何か、自分でも分からない何かを感じていたからなのか。
 奴は、トボトボと歩いているって言ったけど、でも、フラフラと当てもなく歩いているわけじゃなかった。一度も、あちこち与太つくことなく、曲がり角に来たら、車や自転車くらいには注意するけど、あとは、目当ての方向へ歩いていくのだった。
 奴は何処かへ行く。最初はただの暇潰しだったはずが、終いには奴の行動への好奇心に変わっていた。奴は、一体、何処へ。
 ボクは、遊びというと、鬼ごっこが大好き。で、一番、好きなのは、ボクが鬼になって、誰かしらを追い駆けることだ。それも、何処までも追い駆ける。町内を端から端まで駆け回り、ついには相手がへとへとになって、道端にへたり込むまで追い駆けつづける。ボクは決して追跡を諦めない。獲物を追うのが大好きなのだ。
 一度、近所の女の子を何処だったかに追い詰めて、そうして、あの日、ボクはあの子に何をしたんだっけ。ま、いいや、それもまた、別の話だ。
 奴は、もう、三十分ほども歩いていた。学校の校下(小中学校の生徒の居住範囲)も、通り越していた。
 それでも、やっと、奴は立ち止まった。愚鈍そうな顔。でも、一瞬だけ、周囲を見回す奴の目は、いつもの鈍い光ではなく、ボクが鬼ごっこの果てに女の子を追い詰めた時、きっと放っていただろう、獣の目をしていた。
 でも、それは誤解だと後で気がついた。奴はただ、欲望にギラ付いていただけなのだ。そのことは、口元のだらしなさを見れば、一目瞭然のはずだったのだが、ボクにはそこまで気付く観察力があるはずもなかった。
 そこには、公民館のような建物があった。昼下がりで、人気(ひとけ)がない。御丁寧に玄関に締め切りの札のようなものさえ、ぶら下がっている。
 奴は、どうしようというのか。
 が、奴は、周囲に人気がなことを確認すると、躊躇いもなく、公民館の裏手に回っていった。ボクには土地勘のない場所で、公民館の裏がどうなっているのか、分からない。そこまで回り込んで追い駆けるべきか、もしかして、裏に奴が隠れているんじゃないか、ボクは急に怖気付いてきた。後悔し始めていた。なんだか、妙な予感というか胸騒ぎを覚えていた。
 後戻りしようか。ボクは、公民館を目前にして、どうしたらいいのか分からず、何処かの民家の庭先で、立ち往生していた。そのうち、とうとう、ボクは、道端にへたり込んでしまった。途方に暮れていたのだ。
 すると、そこへ、女の人がやってきた。女の人って、ボクらより二つか三つ年上っていうだけだけど、随分と大人に感じられた。
(あ、あの人は?!)
 そう、ボクの近所に住む姉さんなのだった。
 姉さんは、サツキの咲き誇る家の庭の植木の陰でウンコ坐りしているボクに気付かず、やはり公民館の裏手に回っていく。
 その後ろ姿を見て、ボクは、またまた胸騒ぎし始めた。ボクは、もう、自分にはどうしようもない力に引き摺られて、彼女等の行った先へ向かった。公民館の脇を農業用水があり、その土手に沿って、雑草が鬱蒼と生い茂っていた。ボクは、用水路の土手に回り込み、公民館の裏の辺りを見遣った。
 いた! 二人とも居る。何事か二人して喋っているようでもあるけど、姉さんのほうが小さな奴に向かって意見しているようにも思える。
 奴が叱られている? でも、奴の愚鈍な表情に、怯える様子は見受けられない。反って、笑みさえ浮かべているようにも思える。笑みというより、ヘラヘラと、だらしない、それこそ、涎でも垂らしそうな、締まりのない緩みに過ぎなかったのかもしれない。
 姉さんの表情は後ろになっていて、伺えない。最初、叱っているように見えたのは、大きい姉さんが、小さい奴に上から覗き込むように喋っているからで、僅かに望める頬からは怒りの雰囲気は漂ってこない。むしろ、奴とは違う意味で、何か緩んだような、開いたような、ボクには何とも表現のしようのない、得体の知れない、それこそ、ボクがそれまでに垣間見たことのないような感情が露わになっているような気がした。
 ボクは、もう、金縛りに遭っているみたいだった。目が釘付けだった。何かを予感していた。何かが起きるに違いないと思った。ボクや奴とは違って、姉さんは、まともな人のはずだった。きっと、クラスでも、普通以上の成績を残せるような、世間から見てボク等のような違和感を覚えさえる人ではなかったと思う。
 でも、、その姉さんも、その場では、もう、盲目的な状態になっていた。緩んだような空気が、一瞬、張り詰めたような、緊張した状態に変化したのだ。 
 あるいは、そう、感じたのは、ボクの欲情のせいだったかもしれない。
 そこには、ボクには訳の分からないような二つの体の絡み合いがあった。姉さんは、奴の下半身を脱がさせていたのだ。あっという間の出来事だった。空気が凍り付いている。五月の太陽が地上の世界をジリジリと焼いているようだった。ボクの頭も、熱気で、それとも興奮で沸騰しそうだった。
 やつ等は、公民館の庇と何本かのドラム缶の陰で、直射日光は凌げていた。なのに、日陰の中で、ボクより熱いのだった。ボクの知っている近所でも評判の、成績もいいし、ピアノ教室やら算盤教室にも通っている、品の良さそうな姉さんだった、はずなのに、そこには近所の、いや、学校の誰にも見せない、裏の顔の姉さんがいた。
 奴は、姉さんの命ずるが侭だった。一切、抵抗しないのだった。命ずるが侭に、されるが侭に、そして命じられるように姉さんにも奉仕していた。
 ボクは、奴に嫉妬していた。ボクなんかより、ずっと下の奴のはずなのに、ここでは、ボクが経験したことのないような目くるめく体験を味わっている。様子からすると、突発的な出来事なんかじゃない。幾たびも、繰り広げられただろう、秘め事なのは明らかだった。
 手馴れている。ボクが鬼ごっこの果てに、あの子に手間取ったのとは、まるで違う、濃密で親密で秘密に満ちた蜜事が日陰の世界をショッキングピンクの色に染め上げていた。
 ああ、奴はボクより遥かに知っている。体験している。それも、あの品の良さそうな姉さんと。ボクだって密かに憧れている、高嶺の花の姉さんと。あの姉さんが、欲情を滾らせている。奴に向かって、誰にも見せない顔を、体を露わにしている。奴が蛇のようになって、姉さんの体に巻き付いている。絡んでいる。
 いや、絡み合っている。
 ボクは、それから、週に一度の奴等の密会現場に立ち会った。姉さんは、習い事が多くて、週に一度しか、そんな機会を設けられないのだと分かるのに、時間が掛からなかった。
 ボクは、草むらに潜っていた。地べたに這いつくばっていた。奴が姉さんの体に巻き付き這い回る蛇なら、ボクは、当てどない、満たしようのない扇情に駆られ、喉のカラカラの、太陽に干上がったミミズだった。姉さんになど、辿り着きようがなかった。しかも、奴にさえ、男として敵わない。
 ボクは、それからというもの、姉さんに町や学校で擦れ違うたびに、ドキドキする思いをどうしようもなかった。
 でも、それ以上に情ないのは、覗き見ることの快感に酔い痴れてしまったことだ。鬼ごっこで女の子を追い詰めて、そうして、姉さんたちの真似事をボクも試みたけれど、一向に面白くないのだ。あの、痺れるような快感には程遠いのだ。
 ああ、覗き見ることの、悲しいほどの充実感。ボクの愚鈍なる児戯。奴等の児戯を越える快感を垣間見た喜びという体験は、ボクに、入り組んだ、一層、屈折に満ちた世界で悦楽の時を獲得するしか、他に術がないようにさせてしまった。
 ボクは、こんな至上なる悦びを教えてもらって、やつ等に感謝すべきか。
 そうかもしれない。今、ボクは、いや、オレは、誰も知らない快感への扉の開け方を知っている。オレは、天国への扉と呼んでも差し支えのない、完璧なる世界への扉を開ける鍵の所有者になったのだ。メビウスの輪のように、その相鍵を回すだけで、ある面をなぞっていけば、他人には見せない、隠しとおしている人間の一面へと間違いなく、自然に至ることができる。
 今、オレは、あの頃のボクより遥かに完璧なる球体の中に居ることを感じている。
 もしかしたら、本当に天国への扉を開けてしまったのかもしれない。

                          (04/11/28 作)

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2004/11/22

落雁の思い出

 もう、随分、昔のことだ。お菓子というと、遠足の時のキャラメルやチョコレートが待ち遠しかった頃より、まだ以前のこと。

 普段のお八つというと、饅頭もあったけれど、煎餅が多かった。近所の小母さんの家に遊びに行くと、そこではお八つに饅頭を出してくれる。半ば、それが目当てで遊びに行ったような記憶がある。
 尤も、その家の兄ちゃんには、随分、遊んでもらった。割り箸で手作りの鉄砲を作り、輪ゴムを飛ばしてはしゃいだりした。時折、ギターをポロンと弾いてくれて、二枚目さんだったし、気立てのいいお兄ちゃんだった。
 でも、兄ちゃんは、高校に入って柔道部で先輩のシゴキに合い、腰を痛め、人生を棒に振ってしまったという噂を聞いた。そう、その頃には、兄ちゃんの家は、引っ越してしまっていて、何かの折に消息を聞くだけになっていたのだ。
 子供の頃に食べたお菓子というと、落雁がある。といっても、饅頭よりはるかにお目にかかる機会が少ない。
 その落雁には、甘いのか苦いのか自分でも分からない、半端な思い出がある。

 それは、法事の時だった。真宗王国の風土の郷里では、当たり前のようにして坊さんが法事などの時に檀家の家を回ってくる。
 その法事がやたらと多い。一周忌、三回忌は、もとより、七年目のなんとかとか、我が家で忘れていても、お坊さんは忘れないでやってくる。天災は忘れた頃にやってくるというけれど、月命日を坊さんは忘れることなく、檀家を巡る。
 要するに月に最低、一回はお坊さんが回ってくるというわけである。
 そんな日は、仏壇からは線香の匂いがプンと漂ってくる。日曜日、漫画の本を読んだりして、のんびりしたいのに、天気が良かったら、遊びに行きたいのに、「ヨシユキ、ちゃんと着替えてるんだよ、だらしない格好はダメだよ」なんて言われて、お坊さんが来たら、仏間に家族が集合するのだ。ボクも後ろのほうで畏まる。

 やったことのない正座なんかして、膝が大笑いするのを我慢して、お坊さんの読経が終わるのを待っている。父母も、神妙な顔をして読経している。手には、お経の文句を書いた紐綴じの冊子。
 ボクは、思いっきり退屈しているので、足の痺れを我慢しながら、日頃はしみじみ見たりしない、近所と比べるとこじんまりした仏壇を眺めたりする。親鸞さんの像の描かれた掛け軸が奥に鎮座している。釈迦さんの像を描いた掛け軸も並んでいる。灯心がチロチロ揺れている。
 手前には、いつも通り、仏供笥さま(ぶっけはん)とか呼んでいた、真鍮製の小さな器に炊き立ての白米が山盛りになっている。お供えが終わったら、昼食などの際に、お茶漬けにして食べてしまう。
 この供える御飯のことを、御仏供飯(おぼくさん)と呼ぶことを知ったのは、随分、年を経てからだったと思う。仏壇には、その時によって、ミカンやリンゴ、ナシなんかも供えられたりする。時には、数日間も供えられたままになっていて、それを仏さんのお下がりだと言って、食べるのだけど、腐ってないかと、幼心に心配したものだった。

 そう、いつだったか、母ちゃんに御仏供飯を食べなさいと言われ、嫌だと言ったら、叱られたことを覚えている。
 その時、父ちゃんに、「昔はな、御仏供飯というのは、ご馳走だったんだ。白米なんて、百姓は、口にできんかったもんだ。もう、御仏供飯が食べられる、白米が食べられるって、命日の来るのが楽しみだったもんなんだ…」と、ボク
を叱るというより、昔の光景を懐かしむように喋っていたのを思い出す。
 そうだ、これも、別の時に、父ちゃんが述懐するように、説明してくれたんだけど、お供えは、季節の食べ物や果物も供えるけれど、故人の生前好きだった食べ物も供えられるのだとか。そう、命日には、ご先祖様と語らいするのだ、なんてことも言っていたっけ。白米だって、お供えだから大事に食べたというより、お供えだってことを口実にして食べた…、そんな時でなければ口に出来なかったものだ…、なんてことも言っていたような記憶もある(どうも、曖昧だ。もしかしたら、父ちゃんにじゃなく、他の人に聞いたか、それとも何かで読んだ話が混じっているのかもしれない)。

 ボクは、祖父も祖母のことも、ほとんど、覚えていない。物心付いた時には、祖父はいなかったし、祖母は辛うじて居たらしいけど、茶の間で祖母の膝に抱かれていたような微かな記憶があるだけである。祖母の衣服が衣文掛けに掛けられていて、線香か抹香臭いと感じたことを覚えている。
 だから、仏壇に向っても、今一つ、ピンと来ないのだ。
 今から思えば、ボクがガキの頃ということは、父母にとっての父母、祖父母が亡くなって、そんなに年数が経っていないわけだ。ということは、父母が仏壇に向っていても、単に神妙だったのじゃなく、ボクには想像もできない感懐があったに違いないのだ。
 ボクは、そんなことにも思い至らないロクデナシだったのだ(今もかもしれないけど)。

 そうだ、段々に思い出されてくるけれど、お坊さんが来る日が嫌いというか、憂鬱だったのは、その日の食事が、妙に質素だったこともあった。肉類も玉子もない。魚もない。ボクの嫌いな野菜がたっぷりで、味噌汁だって、煮干が使
われない。味がいいわけないのだ。
 何故、そうだったのかは、中学か高校生の頃になって、やっと分かった。そう、命日は、お斎(とき)の日とも称するくらいで、精進の日なのだ。生臭系は敬遠されていたのだ。
 でも、ガキの頃のボクに分かるはずもない。それとも、父母に説明されていたけど、右の耳から左の耳に素通りしていたのだったろうか。
 読経が終わってからも、憂鬱な時間が続く。お坊さんが、さも当然の如くに茶の間にやってきて、ボクには退屈な談話の時が始まる。世間話。聞いていても、とにかく面白くない。もしかしたら、話の中で、祖父母の話題も出たかもしれないのに、ボクは、まるで聞いていなかった。

 ボクの眼中にあるのは、仏壇のお供えのことだけだった。そう、落雁のことが気になってならないのだった。
(帰れ! 帰れ! 早く何処か別の檀家へ行っちゃえ!)
 ボクは、胸の中で、一心に祈っていた。祈りというより、呪文を唱えていた。退散することのみをひたすら願っていた。
 その頃は、まだ茶の間にテレビもなかった。漫画だけが家の中での楽しみだった。といっても、まだ借りるまでには至っておらず、家にあったのは、誰が買ったのか分からない、「のらくろ」や「サザエさん」の類いだったと思うけれど。
(ああ、漫画の本を読みながら、お菓子を食べたい!)
 お菓子とは、落雁のことだ。仏壇に供えられたいた、落雁。
 今から思えば、和三盆糖で作られたような高級な落雁などはなかった。後年、自分で落雁などを買えるようになって、一口、齧ってみて、その品の良さに驚くと共に、懐かしさの感じがまるで漂ってこないことに落胆もしたものだ。
 ボクが食べた落雁は、そんな余所行きのような、乙に澄ました和菓子ではなかった。砂糖か、それとも何かの穀物粉を捏ね固めた砂糖菓子に過ぎなかった。
 でも、それが、ボクが恋い焦がれていた落雁だったのだ。

 呪文を唱えていても、なかなか坊さんは退散してくれない。そんな坊さんが憎たらしくてならなかった。もっと、子供の心の分かる坊さんになりなよ、なんて、忠告してやりたいくらいだった。
 茶の間のテーブルの上には、お下がりの落雁や果物類が並んでいる。我が家には、何故か饅頭が置いてない。嫌いな訳じゃなかったろうけど、買って食べたいと思うほどじゃなかったのだろう。それに、饅頭は、何かのお返しに、近
所のあの小母さんのところから、しばしば貰えることになっている。
 でも、落雁は、誰もくれない。命日の法要などでもないと、目にできないのだ。
 実は、ボクは内心、戦々恐々としていた。万が一にも、お坊さんがこの貴重な落雁を持って帰るようなことがあったりしたら……。そんなことを思うと、退屈の極みの茶の間から席を立つわけにもいかないのだ。ボクが見張っているしかないのだ。

 そのうちに、タイミングを見計らうように、母ちゃんが、小奇麗な封筒を坊さんに差し出す。坊さんの頬が一段と紅潮する。でも、貰うことを恥ずかしがる様子は微塵も見られない。酒が回ってきて、頬が赤いくせに、お酒は貰わない建前になっていますとばかりに、帰り際になって盃などを裏返したりしている。
 これ以上、飲んだら、次の家で飲めなくなる……のじゃなく、読経が出来なくなるというわけだろうか。
 坊さんが、やっと重い腰を上げた。ボクも、不器用な愛想笑いを浮かべてみる。でも、目は落雁に釘付けになっている。お坊さんの手の動きから目を放さない。
 間違っても、袂に落雁をヒョイとばかりに収めたりしないよう、警戒を怠らないでいた。
 ボクが一番、緊張する瞬間だった。命日の日の印象で、ボクが鮮明に覚えている、ほとんど唯一の瞬間でもあったような…。
(そうだ、坊さんは、封筒だけ、持って帰ればいい。お腹には、お酒もしっかり、納まっているし、もう、十分じゃないか)

 しかし、ボクの、退散しろよ目線があまりにあからさまだったのだろうか。坊さんは、ボクの目線の先にある落雁を見て、小さく微笑んだ。いや、微笑んだのじゃなく、ニヤリとしたんだ!
 そして、やおら、手を座卓の上に伸ばし、落雁を手にしてしまったのだ。
 万事休す。ああ、ボクの命運が尽きた!
 お坊さんは、しばらく、手の平でセロファン紙に包まれた落雁を弄んでいた。
(ああ、ボクの落雁が遠ざかっていく!)
 ボクは、泣きたい気分だった。期待が大きかっただけに、落胆も激しかった。
 すると、信じられないことが起きた。耳を疑った。
「ぼう、これ、好きか?」
「ぼう」、とは、ボクのことだった。きっと、坊主という意味だったろうけど、ぼうずでは、お坊さんが言うには、憚られたのだったろうか。それとも、坊やだったのか。その坊やも、呼び捨てになり、失礼に当たるから、「ぼう」と呼びかけたのかもしれない。
「はい」
 ボクは、ビックリして、「はい」なんて、答えてしまった。そんな自分が情なかった。
「仏さんのお下がりだから、しっかり味わって食べるんだよ」
「…はい」
 ボクは、なんだか、屈辱的な気分だった。あれだけ、退散を願った相手に、同情されている、説教されている、なんて、惨めなんだ…。
 お坊さんは、意気揚揚と、去っていった。背中には、もう、ボクのことなど、すっかり消え去っていると書かれていた。
 ボクの手には、落雁がしっかり握られていた。線香の匂いに混じって甘ったるい香りが漂ってきた。
 ああ、落雁!
 ボクは、落雁をおいしく食べた。頭からは、祖父母のことも、お坊さんのことも、屈辱感も消え去っていた。
 望みが叶った、それだけで満足なのだった。


                                 (04/10/21)

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2004/11/19

恋は秋の暮れに

 あれはボクが中学三年の秋だった。

 夏の暑さが、夢の世界のようになっていた。秋も深まりつつある頃だったと思う。
 なぜなら、休み時間に校庭でソフトボールなどして遊び回って、チャイムに息せき切って教室に駆け込んでも、じんわり汗が滲むだけになっていたのだし。
 帰宅部のボクは、教室の掃除当番になっていて、いつものように放課後、すぐに帰宅するというわけにはいかなかった。
 確か、男女それぞれ二人の四人で掃除していた。
 掃除はバタバタとやって、速攻で片付ける。で、終わったら、ボクには鬱陶しい学校を離れる。他の三人は、クラブ活動があって、いそいそと部室へ向う。
 ボクだけ、特別な理由もないのに、でも、慌しく教室を出、家路を急ぐのだった。
 その日も、そうなるはずだった。
 なのに、部室へ行くはずの女の子が、一人、教室の窓際でグズグズしている。
 いつもなら、気になって後ろ髪を引かれる思いをしつつも、黙って去るはずが、その日は、自分でも訳が分からないのだが、彼女のほうへ近付いて行ってしまった。
 彼女は、窓辺に凭れて、校庭を眺め下している。嫌いという訳じゃないけど、ボクには他に好きな子がいた。なのに、彼女に惹かれたのは、何か引力のようなものを感じたからだったのだろう。
「何、見てるの」
 彼女は、驚いたように振り返った。もっと驚いているのは、ボクのほうだった。声を掛けるつもりなど、まるでなかったのだから。彼女の目がまっすぐボクを見ている。なんてつぶらな目なんだろう! どこまで透明な瞳なんだろう!
 ボクは、ドキドキしてしまった。
 驚きの目。でも、拒否している風でもない。むしろ、ボクに傍に来て、モードさえ漂っているように感じられる。
 ああ、あの日のボクの行動は、自分でも不思議でならない。
 ボクは、魅入られるように、彼女の傍に向った。そして、いつもそうするかのように、二人並び、窓枠に肘を突いたりして、校庭を眺め下した。野球部やサッカー部の連中の喚き声、テニスのコートからのボールを叩く音、それらが耳にビンビン響いてくる。
 数日来の雨が前日から上がって、待望の秋晴れがやってきたのだった。みんな、嬉々として練習に汗を流しているようだった。
 そんな光景が、目に痛いほど鮮やかに眼前に広がっている。
 ボクは、雨の日はともかく、晴れとなると、妙にセンチになってしまう癖があった。雨の日はみんなが傘を差して黙し勝ちになるけど、晴れの日は、表情も露わになり、ボクの寂しさを隠そうとする、引き攣るような表情も白日の下に晒されるような気になってしまうからだったかもしれない。

「キミさ、今日は、卓球部の練習、行かないの」
 面と向って女の子にキミと呼びかけるのが、こそばゆい。名前を呼んだほうがいいのか、それとも、キミでいいか、自分でも迷っていたのを覚えている。
「わたしね、今日、体調が悪くて、休み、貰ってるの」
「体調が? ふーん」
 ボクには、彼女が具合悪いようには全然、見えなかった。女の子特有の気紛れなのかと勝手に思ったりした。掃除している最中も、体のどこかに不都合があるとは、気付かなかったのだし。
 でも、そんなことを言うわけにもいかない。
「佑クンは、クラブ活動はしてないのよね」
 別に咎めるような口ぶりではなかった。けれど、ボクは、自分に何もやっていないことに負い目のような気持ちを抱いていたので、いきなりそんな話題になって、ドギマギしてしまった。
「ボクは、どうも、集団で何かをやるの、苦手だし。」
「ふーん、凄いわね。」
「凄い?」
 ボクには、全く、意外な感想だった。何が凄いんだ?
「だって、クラブ活動って、内申書に繋がってるのよ。活動すれば、それだけ、点になるんだし。佑クンは、そんなこと、気にしないで、独立独歩なのよね。凄いって、思う。わたし、できることなら、クラブ活動なんて、したくないん
だもの。」
 そうか、そうなんだ。そんな見方があるんだ。今までの僻むような思いは何だったのだろう。
「いや、ボクは、成績のことは諦めてるし。それより、のんびりやるさって、思っているだけだよ。」
 そう言いながらも、オレは我が道を行くんだ! なんてオーラを漂わせようと、ちょっとだけ、背筋を伸ばしたりしていた。
 もしかしたら、彼女、オレのことを…。
 打ち消そうと思いつつも、そんな妄想が湧き出すのを、どうしようもなかった。
 そうか! 彼女、体調が悪いってのは口実で、ホントはボクのことを待っていた?!
 ボクは、暴走する妄想を押し留められなくなっていた。
 彼女のことが輝いて見えてきた。そういえば、彼女の笑窪、可愛いじゃないか。睫が長い! 髪がサラサラしていて、思わず触りたくなる。胸がちっちゃいのだって、これから先、膨らむ楽しみがあるってことだし。
 ボクの勝手放題な思いは、ドンドン、膨らむばかりだった。
 ボクは、人の目を真っ直ぐ見詰めながら話す人が好きだ(そのことに、初めて気がついた)。そして、彼女がそうだった。窓枠に凭れながらも、話す時は、小首をかしげるようにしてボクの目をジッと見入ってくる。
 ああ、なんて、瞳が綺麗なんだ。彼女の全てが好ましくてならなくなった。彼女こそ、全身からオーラが湧き漂っている。
 ボクたち(ボクたち! なんて、いい響きだ!)は、秋の風景を眺めていた。
 秋の空の夕焼けは、ボクたちの胸の中を焦がすほどに燃え上がっていた。それも、何を喋るというわけもない間に、あっという間に暮れていった。
 校庭や遠くにポツンと聳えるビルや、見晴るかす山々などを眺めていた。宵闇の透明に輝く濃紺を背景に、地上世界のモノたちの描き出す黒いシルエットの輪郭が鮮やかだった。
 ボクは、陶然としていた。好きな彼女のことは呆気なく遠ざかった。ボクは、どうして今の今まで、彼女の魅力に気が付かなかったのだろう。青い鳥は、間近にいたっていうのに。

 とうとう、すっかり暮れてしまった。最後まで練習に打ち込む野球部の連中も、グラウンドの整備も終わり、道具類を背負って、部室に引き上げていった。
 その中には、学校で、ただ一人、ボクが親しくしている奴もいるはずだった。普段は、練習に明け暮れしているけど、土曜とか日曜には、どちらからともなく誘い合っては、映画に行ったりするの仲だった。

 もうそろそろ、見回りの先生もやってくる時間だ。
 さすがに、窓を閉め、教室を出る時間だ。
 ボクは、これから先、どうしたらいいのか、分からないでいた。女の子と二人きりなんて、保育所時代以来なのだし。
(一緒に帰ろうか…)
 でも、なんて、声を掛けたらいいんだろうか。でも、いきなり初日から、一緒に帰宅するってのも、拙いのかな。でも、もう、暗いんだし、彼女を適当なところまで送るという口実もあるな…、そんな思惑がまたまた真っ赤な焔となって、ボクの脳味噌も胸も腰の辺りをも焼き焦がさんとしていた。
 宵闇を二人で歩く! ああ、夢にまで見た日が、とうとうやってきたのだ。この日がいきなり、足音もなく、不意打ちで、予告なしで。
 抜き打ちのテストより、ドキドキする!
 胸が高鳴っていた。ここは男のボクのほうが、彼女に一緒に帰ろうと誘うべきなんだ。
 ボクは男なんだから、ボクが気を利かして、誘ってあげるべきなんだ。
 いよいよ乾く唇をこっそり舐め、音を殺して唾を飲み込み、彼女に声を掛けようとした瞬間だった。
「これ、お願い」
 そう言って、ボクの手に何かを握らせて、彼女は、走り去っていった。
(あれれれ、どうなってるんだ。オレは振られたのか。でも、手には手紙が…ある!)
 ボクは、どうしようない有頂天な気持ちを、どう抑えたらいいのか、分からなかった。ボクにこんな日がやってくるなんて。閉め切られた家に思いがけず、青い鳥が迷い込んだ。でも、間違いなく、ボクの目の前で青い鳥は、可愛い姿
を見せ付けている。どこか恥ずかしそうな、小さな背中を見せて、飛び去ったけれど、でも、逃げ去ったんじゃなく、ちょっと姿を隠しただけなのだ。
 その証拠が、この手紙だ!
 ボクは、嬉しすぎて、手に握っている手紙をすぐには開いてみることはできなかった。教室は暗いし、どこか街灯のある場所へ移動するんだ。そこで、ゆっくり、彼女からの手紙を読むんだ。冷静にならないとダメだ。こんなときこそ、落ち着いて、事態を把握し…、などと訳の分からない述懐を持て余していた。
 教室を出る間際、彼女とボクがいた辺りを眺めやった。
 あそこに、ボクたちが確かに居た!

 窓外には一番星が煌いていた。月のない夜だったから、一層、星の瞬きが目に沁みた。恋の的を星の光の矢がまともに射抜いている。
 ボクは、ともすれば走り出しそうな自分を懸命に抑えていた。逸る気持ちがボクを飛び上がらそうとする。それこそ、舞い上がりそうな気分だった。ついに、この日が来た。ボクにも、来るべき日が来たのだ!
 ボクは、ある公園に向った。そこはボクのお気に入りの公園だった。葉桜の並木にポツンと、金木犀が植えられていて、甘酸っぱいような、鼻を突く臭いが漂っていた。金木犀の脇には、公衆便所がある。
 ボクは、金木犀は、公衆便所の臭い消しのために、植えられていると睨んでいた。
 でも、今は、金木犀のことなど、どうでもいいんだ。
 ボクは、街灯の下に立った。とうとう、ボクは女の子の胸一杯の思いの丈を綴った手紙を読めるんだ。神様は、見るべきものは見ている。目立たない、成績も中途半端なボクだけど、でも、胸の中では、社会のことなど、あれこれ考
えたりしている、このボクだってこと、天は見逃してはいないんだ!
 いよいよ寒くなり、雪だって舞って来そうな季節。冬の到来。ボクは、冬休みには、二人で城址公園の辺りを散歩する光景を思い浮かべていた。いつだったか、学生服姿の中学生の二人が仲良さそうに歩いているのを見かけたことがある。羨ましくてならなかった。ボクは嫉妬していた。
 でも、もう、いいんだ。今度はボクたちがみんなを羨ましがらせる番なんだし。

 いつの間にか皺くちゃになっていた手紙の皺を伸ばして、さて、中を開こうと思った瞬間だった。表には信じられない文字が躍っていた。
「琢磨君へ」
 琢磨って、奴のことじゃないか! ボクの名前は祐介だぞ! 琢磨って、ボクの唯一、親しくしている野球部の奴のことじゃないか!
(そうだったのか。彼女、奴が野球部の練習が終わるまで、ずっと見守っていたんだ。だから、こんな時間になったんだ。それに、ボクが奴と親しいってこと、知ってたんだな。そして、このボクに手紙を託したんだ…。
 裏面は、真っ赤なハートマークで封印してあった。
 その中には、ボクには窺い知れない女の子の気持ちが封じ込められているはずだった。

                                  (04/10/17)

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2004/11/15

彼岸花の頃

 「彼岸花の頃」

 或る日のことだった。仕事で郊外の町を車で走った。
 用件が済んだので、早く会社に戻ろうと、余裕があったら、どこかでお茶でもしてのんびりしようと、近道を選んだのが間違いの元だった。道に迷ってしまったのである。
 経験からして住宅街の中で、これが近道だろうと下手に勝手に決め付けて走るのは拙いと分かっていた。けれど、魔が差したとでもいうのか、つい、何処かの生垣の角を曲がり、小道へと車を向けてしまった。
 道は、綺麗に舗装されている。所々には、駐車されている車もある。道は細いが、車は通れる筈なのだ。実際、何処までも道は続いていて、ブロック塀やら竹垣やら、中には石を積み上げたような壁もあったりして、時間的余裕さえあれば、走っている分には快適だった。 
 が、不思議なことに、曲がり角がまるでないのだ。真っ直ぐというわけじゃないが、延々と道が続いている。曲がり角どころか、とにかく、交差する道に遭遇しない。何か適当な道があったら、そっちへ曲がるつもりが、ひたすらに何処とも知れない先へ先へと走るしかない。
 オレは段々、不安になってきた。これで、さんざん走った挙げ句、行き止まりです、なんてことになったら、悲惨だ。バスが通りそうな道じゃないので、バス停などで地名を確かめるわけにもいかない。
 こうなったら、何処かの民家に飛び込んで、道を尋ねるしかないのかもしれない……そんな思いに囚われ始めた頃だった、道がやっと雰囲気を変えてきた。そこが何処なのかは別にして、長い長いトンネルのような道からは脱出できる……そう思ったら、まさに望みどおり開けた場所に行き当たった。

 車は、小さな橋に差し掛かっていた。野原とでもいうのか、一面の曼珠沙華の原がそこにはあった。小川が流れていて、その両岸を遥かに見渡す先まで、曼珠沙華の花々が咲き誇っているのだった。
 彼岸花。体調でも悪かったら、自分が彼岸の入り口に立っていると勘違いしそうなほど、見事な赤い花の乱舞なのだった。三途の川が菜の花畑なのだとしたら、曼珠沙華の原は、何処へと導くのだろうか。地獄へ? そんなはずがない。
 それだったら、彼岸花なんて呼び名はつけられなかったはずだろう。地獄花なんて付けられるはずもないだろうけど、でも、曼珠沙華は、あまりに毒々しい。おどろおどろしいとさえ、感じられる。
 あまりに鮮烈な赤に圧倒されて気が着かなかったけれど、真っ赤な花の野を取り囲むように、黄色っぽいような花の原がまたはるばると広がっている。まさか、菜の花畑? 
 そうではなかった。よく観たら、それは稲穂の海だった。まさに収穫を待つばかりの稲穂が実った頭(こうべ)を垂れながらも、緩やかに吹き渡る風に気持ちよさそうに、体を揺すっている。
 オレはあまりに幻想的な風景に圧倒され、思わず車を降りた。この風景を逃してはならないと思った。霊的というのか、宗教心があれば聖性と錯覚しそうな郷愁感をさえ覚えそうな風景。この世のものでありながら、そのままに彼岸である世界がここにあった。此岸と彼岸が小川とで区切られている。
 オレは、小川の土手沿いの道を歩き出した。

 歩きながら、脳裏に何かが顔を覗かせ始めているのを感じていた。何か分からない、遠い遠い日の体験。すっかり忘れ去った何か。忘却の淵の深くに沈みこんでしまって、その上に堆積したあれこれの経験の日々に顔など擡げるはずもなかったはずの何か。
 それが、何かの拍子に重石を外されて、今にも蠢き出そうとしている。
 一人ぼっちで臆病なオレは、とてもじゃないけど、今の今、そんなものに立ち向かうのは御免だと思っていた。何か得体の知れない記憶が蘇ることを恐れていた。一人では耐え切れないに違いないと思った。
 けれど、それは、土葬された墓地から死に切れなかった奴が棺桶の蓋をこじ開けるように、記憶の欠片は襤褸(ボロ)屑の格好そのままに、むっくりと鎌首を擡げてくるのだった。
 オレは臆病者だが、同時にどんなことにも抵抗する気概もない奴だった。もう、どうにでもなれと思っていた。
 次第に記憶の切れ端がつながり始めてきた。土中から、薄汚れた紐の先っぽが見えていて、心ならずも引っ張り出そうとすると、その紐が案外と丈夫で、しかも、やたらと長い。ズルズルと、無際限なまでに長い。しかも、その紐には、芋蔓式とでもいうのか、枝分かれした無数の細い紐が繋がっていて、オレの腕力では引っ張り出せるはずもないのだった。
 が、それは杞憂だった。いや、杞憂というより、むしろ、油断だった!

 そう、その紐は、オレの腕に、足首に、太股に、腰に、そして体全体に巻きついてきたのだった。オレの体を糸巻きにして、どんなことがあっても、土中に埋まる何かの全体に日の目を見させようと、執念を燃やしていると思われた。
 不意に、土中から腐った板の角が見えた。蔓に絡まれて自由の利かないオレは、無理やりにも板の上に残る泥を払うしかなかった。すると、見えてきたのは棺桶だった。土葬!
 オレは、知らず知らずの内に、土葬の墓地の域内に迷い込んでいたのだ。曼珠沙華の原は、墓地の区画を示すシグナルのようなものだったのだ。
 棺桶の全貌が見えたとき、これは祖父の棺桶だ、という直感が閃いた。

 が、オレには祖父の記憶がまるでない。物心付く前に死んだはずだったから、当たり前だった。せいぜい、オレがガキの頃、家の土間で遊んでいて、その隅っこになんだか錆び付いてボロボロの短い棒切れを見つけ、父に、「これ、何?」と聞いたら、「これは、じいちゃんの形見さ。短剣だよ。戦争に行った時に身に付けていったものだ。もう、何十年も経つから、錆びてボロボロだけどな」
 オレの祖父の思い出というと、仏間に飾られている祖父母が並ぶ写真と、その錆びて見る影もなくなっていた短剣だけなのだった。
 なのに、どうして、今更、祖父の棺桶が姿を現すのか。
 大体、祖父も祖母も火葬のはずだった。少なくとも、祖母は火葬で、その葬式に小学校に上がる前のオレも立ち会っている。曇天の空に焼かれた煙が立ち上がるのを見上げた記憶がある。焼場のどこかで、祖母の焼かれたお骨もみんなで見させてもらった。不思議と悲しいとも不気味とも思わなかった。死がまるで実感できなかった。祖母のことも、ほとんど記憶にないのだ。祖母には可愛がられたと、父母にも近所の小母さんらにも言われたけれど、オレには、何一つ思い出せるものがないのだ。
 まして、祖父となると、生れて間もない頃に亡くなっているから、思い出などあるはずがない。
 なのに、なぜ、今、祖父の棺桶が姿を現す?!

「おじいちゃん、焼かれたんじゃないの?」
 急にオレは、ボクになっていた。ボクの目の前に祖父が姿を現したのだ。
 その祖父の目には、ボクが映っている。
「ワシか、ワシは、焼かれてなど、おらん」
「えっ、火葬じゃなかったの?」
「そうさ、ワシは、土葬だ」
「えっ、どうして、村の人はみんな火葬じゃないの?」
「ふん、それは、ワシのあとの時代のことじゃ。ワシの頃は、火葬なんて贅沢は、貧乏人には縁がなかったもんじゃ」
「えっ、じゃ、じいちゃん、どこかに埋められているの?」
「何を言う、目の前におるじゃないか。お前は、ワシの棺桶を掘り起こしたのだ」
 祖父は、ボクをじっと見詰めていた。瞬き一つ、しない。乾いた血の色の濁った眼球が不気味だった。瞳などなく、血走ったような眼差しだけが眼窩に光っていた。
 眼光、それだけがそこにある。そのまさに刺すような視線は、ボクを睨んでいるように思えた。いや、まさに睨みつけているのだ。
(どうして、ボクを睨むの?)
 ボクは、そう、祖父に問いたかったけれど、その問いは唇が乾いていて、言葉にならないのだった。
「ふん、その訳は、お前が一番、知っておるんじゃないか」
 意地悪そうな、それでいて、悪戯っぽいような、得体の知れない笑みがあった。
 ボクは、立ち竦むばかりだった。まるで心の中が見透かされているようだった。
「どうした、ええ、ワシはお前のせいで、土葬となったんだぞ。その訳は、お前が知らなくて、どうする!」
 ボクには言いがかりとしか思えなかった。物心付く前のボクに、何も分かるはずが無い…。
「物心だと、下手な言い訳をするんじゃない! 物心はなくても、心はある。四つのお前は全てを見ていた。お前の手がワシを封じたのだ。お前がワシを殺したんじゃ!」
 ボクは凍り付いていた。身じろぎ一つ、取れなかった。息も苦しくて出来ないのだった。
(ボクが、じいちゃんを、殺した?!)
「そうだ、やっと、分かったか」
 ボクは、分かるはずがなかった。闇が一層、濃く深くなっている。記憶の淵の底を目を凝らして眺め下しても、何も見えてこない。
「ふん、そんなところで、のんびり眺めても、何も見えないのは当たり前じゃ。さあ、もっと顔を崖から出してみろ。全身をとは言わん。上半身だけでも、闇の淵に乗り出させて、そうして闇の谷底を根性の限りを尽くして、見るのだ!」

 ボクは、逆らうことができなかった。崖底にまっ逆さまに落っこちるという恐怖もあったけれど、じいちゃんの射竦めるような、冷徹そのものの眼差しのほうが、はるかに怖かった。理不尽としか思えない、じいちゃんの言い草。けれど、逆らうなど、ありえない。
 ボクは、ただただじいちゃんの命令に逆らわないために、身を乗り出して崖底を覗いた。が、その瞬間、背中を押され、ボクは闇の海の底深く、落ちていった。
 どこまでも落ちていった。何処かの郊外の町の細道をずっと辿ったように、今はボクは中空を落ちているのだった。
 落下に終わりはないのだった。落ちている。
 けれど、上も下もない世界に、そもそも落下などありえないのだった。
 そこには、真冬の雪の空を見上げているような浮遊感覚があった。雪の舞う藍色の空を見上げていると、雪が舞い降りるのか、それとも、自分の体が競り上がっていくのか、分からなくなってしまう。
 そう、自分の体がふわっと浮いて、そうして紺碧の宇宙へと舞い上がっていくような感覚に眩暈しそうになってしまう。
 ボクは、闇の宇宙を彷徨っていた。宇宙を流れる闇の川の流れに乗っていた。流れに押し流されて、何処へとも知れない世界へ旅立っていくのだった。

 どれほどの時間、ボクは漂っていただろう。ボクの体は、いつしか、何処か馴染みのあるような川の土手にあった。いや、その曼珠沙華の咲き乱れる土手にあるのは、ボクではなくて、じいちゃんの体だった。じいちゃんの背中が見えた。ボクは、もう四歳になっていた。じいちゃんがボクが二歳の頃に死んだというのは、間違いなのだった。
 ボクは、じいちゃんのゴツゴツしたような背中が慕わしかった。逞しい肩甲骨。広い背中に乗ってみたかった。乗りかかって甘えてみたかった。おじいちゃんを驚かして、そうして、こら! なんて言われてみたかった。
 ボクは、思いっきり、おじいちゃんの背中に圧し掛かった。すると、じいちゃんは、油断していたのか、足場が悪かったのか、それとも、ボクのほうが逆に落ちそうになったので、ボクを庇おうとして無理をしてしまったのか、川に頭から落っこちてしまった。
 突然のことで、慌ててしまったのか、じいちゃんは、心臓麻痺を起こしたらしい。そのまま川底に頭から腰の辺りまで突っ込んだまま、動かなくなってしまった。
 ボクは、じいちゃんの脚をつんつんしたりしていた。そうして、じいちゃんがまるで身動きしないことに、恐怖感めいた感情を覚えて、誰かを呼びに行った……ような気がする。

 ボクは、また、記憶の闇の宇宙に消えていった。忘却の黒い河の彼方に消え去っていった。残ったのは、罪の意識にも似た、重苦しい感覚だけだった。オレは泣いていた。訳もなく、無性に悲しくなって泣いていた。
 ボクが悪かった、許して、じいちゃん! 嗚咽が苦しいほどだった。じいちゃんの祟りが今もボクを責め苛んでいる。記憶の淵の彼方に沈んでいるはずの、誰ひとり、じいちゃんの死の真相を知るはずのない、オレ自身にさえ秘密のベールに包まれている記憶の欠片がオレの心をズタズタに引き裂いている。
 オレは幸せになってはいけない人間なのだと、胸の底の何かが問い質しつづけてきた。もう、許して、じいちゃん、ボクには何も分からなかったんだ、悪気など全くなかったんだ、あったのは、ただの甘えの気持ちだけ、それだけだったんだ……。
 嗚咽するオレがいた。じいちゃんが土葬されたと、ボクに向って言ったわけがやっと分かった。

 気が付くと、オレは、相変わらず曼珠沙華の原に立ち尽くしていた。悲しみの風景が広がっていた。真っ赤な、毒々しい光景なのに、何処か憂わしげに映っていた。
 それでも、ほんの少し、体が軽くなったような気がした。彼岸にいるじいちゃんへの贖罪が、何十年も経って、やっと果たせたように感じた。
 既に宵闇が迫っていた。暮れなずむ空と彼岸花の原。
 オレだけの彼岸の旅は、今、ようやく終わった。
 トボトボと歩き、車に戻った。
 今、車を走らせると、今度は、戻りようのない迷い道に踏み入ってしまいそうな予感がした。
 でも、いいのだ、なるようになればいい。
 オレは、アクセルを吹かした。


                            (04/09/19)

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蓮っ葉な奴

「蓮っ葉な奴」

 学校からの帰り道だった。土砂降りの雨だった。でも、寒くはな
い。
 まだ、夏の暑さの名残が濃い頃だったからか、雨降りはかえっ
て嬉しかったような気がする。

 雨だというのに、ボクは、まっすぐウチに帰る気になれないでい
た。
 そう、ちょっとした言い争いが心に蟠っていたのだ。むしゃくしゃ
していた。どう見ても、ボクのほうが負けている。
 でも、ただ、負けているんじゃなくて、ボクにはもっと言いたいこ
とがあったのに、言い分の十分の一も口に出せないまま、その場
の雰囲気に呑み込まれてしまって、口を噤むようになってしまっ
たのだ。
 ボクの足は、ウチじゃなく、ちょっと離れたところにあるお寺に向
っていた。
 それなりに由緒のあるお寺らしいけれど、当時のボクには、な
んとなく足が向かなかった。
 というのも、その寺には蓮の池がある。その池の水が濁ってい
るので、ドブ臭さが匂ってくるようだし、それだけで敬遠したくなる
気になってしまう。
 でも、本当の理由は、お寺の住職さんが嫌いだったからだった。
 池の周辺でうろうろしていると、危ないからとか言って、すぐに
追い出されるので、そのお坊さんと出くわすのが嫌だったのかも
しれない。

 それなのに、あの日は、蓮の池を見たくてならないのだった。
 きっと、雨が降っていたら、お坊さんも引き篭もっていて、わざわ
ざ本堂の裏手にある池を見回りにもこないだろうという、根拠のな
い勘が働いていたようにも思う。
 なんとなくだけれど、お坊さんがボクを追い出したがるのは、池
の蓮を愛でに来る人たちの邪魔になると思っていたからだとも、
ボクは決め付けていたようだ。
 学校で、何が原因で口喧嘩になったのか、肝腎な点を覚えてい
ない。むしろ、喧嘩のための喧嘩であって、奴とはウマが合わな
かったのだ。
 成績優秀で、間違いなく県でも進学校と言われる高校に入るだ
ろうという奴と、そこそこの高校にも受かるかどうか、危うかったボ
ク。
 奴と議論を始めると、まるで敵わない。奴はとにかく捲くし立て
る。いろんな理屈を持ち出す。ボクの主張のちょっとした矛盾を突
いて、どうだ、とばかりに得意がる。

 でも、それはいつものことだった。悔しかったのは、いつもと違っ
て、そこにボクの好きなあの子がいたからだった。あの子は、議
論には加わらなかったけれど、奴の理路整然とした語り口、語り
始めたら、それこそ湯水のように、有名な人の言葉なんかを引用
して、自分の主張を権威付ける。
 ボクには、彼女が奴に陶然としているように思えた。ボクの無様
な、ポツポツというろくすっぽ水の入っていない水鉄砲の語りに比
べ、奴は機関銃だった。マシンガンだった。得意の絶頂になって
頬が紅潮するのだった。
 紅潮するのだけれど、逆に奴は、眉を顰めて見せて、俺は深く
考えているんだよと見せつける。その眉の顰め方がまた、ボクに
はわざとらしくて吐き気が催すほどだった。
 けれど、悔しいけれど彼女には、奴の素振りが秀才風で、魅了
されているようだった。
 ボクは、一方、悔しさで頬が紅潮していた。頭の中には、違う、
違う、お前の言っていることは間違っているという、直感に過ぎな
いかもしれないが、自分なりにボクのほうこそが、正しいのだと思
えて、しかも、そのことを説明できなくて、苛立つばかりで、二進も
三進もいかないのだった。
 時には、気がついたら、さっきまでボクが主張していた点を奴が、
さり気なく自分の主張の中に取り込んでしまって、さも、最初から
自分の意見だったかのように装ったりした。
 あれ、それって、ボクがさっきまで言っていたことじゃないか…。
 が、奴は知らん顔だった。澄ました顔で、ボクの意見を自分の意
見だったかのようにして、今度は、逆の立場からボクの言っている
ことを論破し始める。
 それは、やり方を知り尽くしたオセロゲームのようなものだった。
あるポイントを抑えておけば、どう相手が足掻いてみても、気がつ
くと最後には、勝ってしまう。逆転して、相手を旧知に追い込んで
しまう。
 ボクが勝つはずだったのに、ボクの論拠だったはずなのに、形勢
は相手に味方するばかり。
 奴にはスポーツでも敵わない。勉学でも口でも敵わない。終いに
は、論争の場に際会したあの子は奴に靡いていってしまう。あの子
とは、やっと学校の帰りに一緒になったりすることができていたの
に。

 ボクは何もかもが奪われたような気分だった。挙げ句、昼過ぎから
降り出した雨が、土砂降りになっていて、ボクには涙雨だった。日が
未だ長く、秋というには躊躇われる。それなのに、四時前だというの
に、空は暗かった。ボクの胸の中のように真っ暗だった。
 いっそのこと、傘なんか、おっぽり出して、ずぶ濡れになって帰ろ
うか…。
 あの子は、一緒に帰ろうって、約束していたのに、六時間目の授
業が終わったら、つつつとやってきて、用事があるから、一緒に帰れ
ないの、なんて言って、教室を出ていってしまった。
 きっと、奴のところへ行くんだ。
 そうだよな、オレなんかより、奴のほうがずっと将来性もあるし、
颯爽としているし、そもそも、オレなんかがあの子と口を聞けただけ
でも、何かの間違いだったのだ。
 ボクは雨の勢いに負けて、傘を差して学校を出た。
 傘もなく、ずぶ濡れになって、孤独な気持ちを抱えて、人気のない
道をトボトボと歩く……、そんな光景を描いて、センチな気分に浸っ
て、そうして、もう、トコトン、憂鬱になってやる。誰が慰めても、ボク
の悲しみを慰められるはずもないし……、そんな光景を脳裏にあり
ありと描いたというのに、いざ、雨を前にして、ボクは、傘を手放すこ
とができなかったのだった。

 なんだか、奴に負けたより、雨の中、傘を差して一人歩きだしてし
まった自分の優柔不断さが惨めに思われた。
 これじゃ、何をやっても、ダメな奴ってことじゃないか。

 蓮の池の前に立った。池の周囲を散歩する人が、日除けというの
か、それとも、今日のような雨を避けるためなのか、二つに引き裂
いた竹の束を庇にした、東屋とも呼ぶのもためらうような一角があ
った。
 傘をやっと手放すことができた。
 それまで、傘に無数のパチンコ玉がぶつかるようで、煩すぎて分
からなかったけれど、雨音に急に注意が向いた。
 激しい雨が、池を叩きつけていた。爆ぜる水の音が耳に痛いほど
だった。水面を叩いて弾ける音より、蓮の葉を叩いて破裂する水音
のほうが分厚く、低く聞え、雨音の違いが歴然としていることに驚
いた。
 人っ子一人いなかった。ボクだけの池だった。池一杯、蓮の浮い
ている、周囲百メートルほどの池だった。
 その時になって、以前、奴と「蓮と睡蓮」の違いについて議論した
ことがあったことを思い出した。よりによって、こんな時に、不愉快
だった。最初、蓮と睡蓮の違いを強調したのは奴のほうだった。
 そもそもが同じ科なんだし、それほど違わないんじゃないのとボク
が言い始めたから、奴は違いが大きいと言う。で、次第に奴の語り
口に負けて、確かに違いもあるよね、とボクが折れると、今度は、
でも、所詮は蓮の仲間同士なんだよと、さりげなく論旨を変えてく
る。
 要するに、どんな議論をやっても、奴はボクの主張の逆を、主張
の甘さを突いているのだった。
 その蓮が目の前にある。雨に降られて、でも、蓮の肉厚の葉は、
びくともしないで池に浮いている。
 池の水は、いつも以上に濁っているようだった。それとも、いつ
も、こんなふうに濁っているのだったろうか。たまにしか来ないボク
には変化が分からない。
 澱んだ水に蓮の葉が浮いている。それこそ泥水のようになった
池に、体全体を漬からせ、それでも、緑の葉を浮かばせ、小奇麗
な花を咲かせているのだった。
 奴との議論で、奴が、「ハスは、葉や花が水面から立ち上がる
が、 睡蓮は、葉も花も水面に浮かんだまま」なのだと、何処で仕
入れたか知れない知識を得意げに披露してたのを思い出した。
 そうか、奴は睡蓮なんだ。そして、あの子も、睡蓮に憧れる女の
子に過ぎないんだ。
 そして、ボクは蓮。泥水の中に頭まで浸かり、それなりに花だっ
て咲かせるけど、その花も時に茶色の水に浸ったりして、人には
見えない。あの子には、見えるはずもない。
 ボクは、蓮のことを思った。それとも、植物のことを思ったのだろ
うか。大概の植物は泥水ではなくとも、土に咲くのが普通のはず
である。水分は、土中から根っ子というストローで栄養分と一緒に
吸い上げるわけだ。
 つまり、理屈の上では、泥水も土でも、似たり寄ったりの環境で
多くの植物は育つのである。
 蓮は、つまりは、そんな植物の典型の一つに過ぎない。ただ、た
またま池の面に浮いているから、そんな植物の生態を白日の下に
晒して見せてくれるに過ぎない。
 そこまで思ったら、蓮だって、他の多くの植物に比べたら、睡蓮な
のだと思われてきた。
 睡蓮が、花も葉も、まるで泥水を毛嫌いするかのように、体をえび
ぞりにして、葉を花を誇らしげに咲き乱す。そう、自分の血肉が、出
自が、汚れた泥水の世界とは、全然、縁も縁(ゆかり)もないかの
ように、すまし顔に高貴ぶる。
 蓮も、池の面に浮いていて、なるほど、泥水の面に寝そべるよう
に葉や花を咲かせるから、泥水を啜る様子が、あからさまだけれど、
多くの植物は、そんな泥の中での根っ子の足掻きなど、見せたりは
しないのだ。

 ボクは、蓮の上に、チョコンと坐っている蛙に気がついた。人間な
らサッカーのボールほどに大きいだろう雨粒を頭や背中に受けても、
平気な顔だった。
 むしろ、雨に叩かれるのを喜んでいる風にさえ、見受けられた。
 ああ、艱難辛苦をものともしない。それだけじゃない、嬉々として
さえいる。
 ゲロゲロと、快哉の声を上げている。
 雨の中、傘を差すか、差さないかで悩んだボクには眩しいほど、
颯爽としている。
 ボクは、蛙にさえ、負けたと思った。
 いいんだ、ボクはボクの道を行くんだ。あの子が、あんな奴に心が
傾く蓮っ葉なあの子なんて、いなくたって、平気だ!
 もう、自棄だった。
 不意に目元が潤んできた。雨滴のせいじゃなかった。目の辺りが
熱くなっている。鼻水さえ、流れ出している。
 ボクはビックリした。えっ、ボクって、そんなに今、悲しんでいる
の? と戸惑ったほどだった。慌てて周囲を見回した。泣いていると
ころを誰かに見られたんじゃないかと、心配になったのだ。男たる者、
涙を他人に見られてなるものか!
 幸い、人影はまるでない。
 悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しいんだ……、誰かに教え
てもらった有名な言葉が浮かんだ。……ああ、これも、奴からだ!
 いいんだ、今は誰もいない。涙が流れたいのなら、勝手に流れれ
ばいいんだ。
 ボクはセンチな気分に思いっきり浸ってしまった。
 どうせ、オレなんて、勉強もできないし、クラブ活動も、仲間づきあ
いも苦手な落ち零れだ。やっとできたはずの彼女も、呆気なく奴に
靡いていったし。
 それならそれで、思いっきり泥水に漬かってやる。首までどころか、
頭まで泥水に沈め、耳の穴にも鼻の穴にも、口にだって泥水を浸透
させる。
 目玉にだって、泥水が懸かれば、こんな恥ずかしい涙も出ないだろ
う。
 それにしても、空が暗い。雨が激しすぎる。空の彼方を眺めて、黄
昏ようにも、周囲が朧な薄闇に包まれていて、気持ちが中途半端に
なって行き場を失っている。
 蓮の池から、ボクは、とうとう離れられなくなった。この場を去る
切っ掛けを失ってしまった。さすがに厚い黒雲にさらに宵闇が重なっ
てしまい、さらに周りの暗さと肌寒さとが相俟って、ボクはセンチな
気分にさえ、浸れなくなっていた。
 蓮の池が、闇に没していこうとしていた。が、不意に橙色の明りが
ホッと灯った。本堂も点燈され始め、その明りが漏れてきているのだ
った。
 気に食わない和尚さんさえ、慕わしいような気がした。
 池面に橙色の光が、揺れ動き、崩れ折れ、見え隠れし、千々に乱
れた。なんだか、死にきれない狐火、それとも迷い出た人魂、夢の
中の蛍火、炬燵の穴の中の熾き火を想った。
 が、不思議なことに、池の対岸で無数の光が固まり始めるような光
景を目にした。
 乱れ散ったはずの光がどうして一個の形に収斂するはずがあるの
か?!
 まさか、人影? 一瞬、ボクは幽霊が現れたのかと思った。
 でも、その幽霊は、傘を差している風にも見える。
 錯覚、なのだろうか。
 目を凝らしてみた。
 そこには、女の子が居た。
 そう、ボクの彼女がいるではないか。
 ねえ、どうして約束の場所に来なかったの!
 紛れもなかった。あの子だ。ボクの彼女の声だ。
 約束……、脳裏を駆け巡るものがあった。そして閃いた。
 ああ、昼休みのボクと奴との議論の最中に彼女がやってきて、今
日はクラブ活動がないから、一緒に帰るのよ、と言われていたんだっ
た。
 そうだ、六時間目が終わって彼女が来たのも、念を押しに来たのだ
と、やっと気がついた。
 ボクは、議論に興奮して、すっかり忘れていた。奴に議論で負けた
屈辱感に胸が張り裂けそうになって、それで外に飛び出してしまった
のだ。
 びっくりしたのは、彼女のほうだった…。

 どうして、でも、茜ちゃんがここに?
 ばーか、タクちゃんが一人きりになる時は、ここだって、いつも口癖
みたいに言ってたじゃない! もう、世話、焼けるんだから!
 ボクは、そんな彼女の文句にさえ、呆気にとられるばかりだった。
 でも、いい、そんなことは、いいんだ。ボクは今、彼女と一緒にいる。
 雨水にドップリと打たれて、そして、二人して咲き揃っているんだか
ら。
 ああ、それにしても、蓮っ葉なのは誰よりもボクのほうなんだ。

  
                          (04/10/16 作)

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