書籍・雑誌

2020/05/30

シェリー:ヘラスとアドネイスより

Portrait_of_percy_bysshe_shelley_by_curr ← 1819年のシェリー (画像は、「パーシー・ビッシュ・シェリー - Wikipedia」より)

ラフカディオ・ハーン著作集第十二巻 英文学史Ⅱ」を読んでいて、実に瑞々しい詩を発見した。シェリー(かのメアリー・シェリー夫人の主人)の詩である。19世紀の初めにしてこのような感性の持ち主がいて、なおかつ吾輩のような詩の門外漢にさえも生き生きと訴えかける詩の作りてがいたこと驚いた。
 ラフカディオ・ハーンによると……:

(前略)ワーズワスはイギリスの詩に汎神論にも似た夢見るような宗教感情を導入した。しかしそれは本当の意味での汎神論ではない。(中略)ワーズワスは基本的には常に正統的であった。本当の汎神論がイギリスの詩で始まるのはシェリーPercy Bysshe Shelley (1792-1822)からである、として以下の二つの断片を示して説明している:

 

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2011/12/16

不可視へのモノローグ

 ひたすら登場人物たちのモノローグが続くような小説。
 現実には、人は誰も他人のモノローグなど、聞けるはずもない。
 ツイッターなどで呟きを読むことができる世の中になったとしても。
 心の中など、覗けるはずもない。

Virginiawoolf

 もしかしたら、自分の心の中さえ、覗けるかどうか、あやうい。
 心は、常に時間と忘却の洪水の中を、喘ぎながら、ゆったりと、時に懸命に闇雲に泳いでいる。
 泳ぎ渡ろうとしているのか、ただ溺れないようにしているのか、小生には分からない。
 小説とは何か。

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2010/12/28

バタイユという名の祝祭

 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。

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← J・M・G・ル・クレジオLe Clezio,Jean Marie Gustave 著『物質的恍惚』(豊崎 光一 (翻訳)  岩波文庫)

 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。

 が、いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。


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2010/11/13

雨に負けた

 雨。はるか南海の島に降る雨季の雨は、東京に降る梅雨の雨とはまるで違う雨なのだろう。シトシトと降る、やるせない雨、それでも雨脚が弱まる時がないわけではないし、合間には日差しに恵まれないこともない。
 それに、なんといっても、日本に居る。物心付いてから心に深く馴染んできた雨なのだ。

 熱帯の地の雨は容赦なく降る。鬱陶しいとか、うんざりという気分どころか、精神を圧倒する雨。南の雨は命を育む雨。いや、育むというより命が噴き出す雨なのである。今の時代とは違い、ろくに空調施設も整うわけもなく、窓を締め切るわけには到底、いかない。雨の音は屋根の透き間から、開いた窓から、襲い掛かるように聞こえてくる。
 神経を直撃する雨音の激しさ。凄まじい湿気。

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2009/07/07

バタイユへ寄せるオマージュあるいは懺悔

 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。

 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。

 が、いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っているのである。

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2009/05/18

父、子を叱る! 麻雀用語篇

 今朝(18日)、あるサイトで麻雀用語を使っての、以下の言葉遊びを見つけた:

へ~い! 麺単品! 三食 いっぱい食う どらどら?
(メンタンピン サンショク イイペイコー)

7萬 (  ) 9萬
    ♪来てよ「8萬(パーマン)」僕のところへ~

よし! 字一色(ツーイソー)で追走よV^^


Mahjongsetup

→ 「麻雀牌」 (画像は、「麻雀 - Wikipedia」より)

 恐らくは、小生がその前に書いた、「麻雀残酷物語なんて、国士無双級の映画だろうけど、今はやってないか」という愚言に触発されての書き込みだろうと思われる。

 挑発(?)されているような気がしたので、オヤジギャグが病膏肓の域の小生、負けてなるものかと、即座に麻雀用語遊び(駄洒落)してみた:

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2008/10/20

水辺へ

 破れた障子戸越しに夕焼けの赤が。
 たまらずに外へ飛び出した。
 誰かが言った、夕陽の赤に人が焦がれる思いを抱くのは、羊水の赤が瞼に焼き付いているからだと。

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 俺は思った。

 あるいは、そもそも夕焼けの光景が何か関係しているのだろうか。世界が茜色に染まる時間。空の青も醒め、木々の緑も闇の色に染まる直前、真っ赤な陽を浴びて戸惑い、屋根も木の板塀も人も橋も大地さえも一色に染まっている世界。

 夕焼けは血の色なのだろうか。記憶の海の底深くに沈んで思い出せるはずもない羊水の色を無理にも思い出させるようでもある…。

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2007/11/28

「蜘蛛の糸」を裏読みする

[本稿は、「藤原作弥…香月泰男…蜘蛛の糸」から「蜘蛛の糸」関連の部分を抜粋したものです。]

『蜘蛛の糸』(くものいと)は芥川龍之介が1918年(大正7年)に雑誌「赤い鳥」に発表した子供向けの短編小説」だという。

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→ 芥川龍之介/著『蜘蛛の糸・杜子春』(新潮文庫 新潮社

 有名な話なので、今更ネタバレもないだろう:

 カンダタは大泥棒や人殺しと様々な悪事を行った為に地獄に落とされてしまいました。しかし、生涯で一度だけ善い事をした事がありました。それは小さな蜘蛛を助けたこと。そこでお釈迦さまは、地獄の底のカンダタを極楽への道へと案内するために、一本の蜘蛛の糸を、カンダタに下ろしました。
カンダタは蜘蛛の糸をつたって、地獄から何万里も上にある極楽へと上り始めました。ところが、糸をつたって上っている途中でカンダタはふと下を見下ろすと、数限りない罪人達が自分の上った後をつけていました。このままでは糸は重さによって切れて、落ちてしまうとカンダタは思いました。そこでカンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ。」と喚きました。次の瞬間、蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がっている所から切れてしまいました。カンダタは再び地獄に落ちてしまいました。
 お釈迦さまは極楽からこの一部始終をご覧になっていました。自分だけが地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が、お釈迦様には浅ましく思われたのでしょう。

 とっても、深い内容の、教訓に満ちた子供向けの話…。

 が、小生はこの話を初めて知った時、お釈迦は実に厭らしい人だと思ってしまった。童話の形に易しくされた本を読み聞かされたりした、あるいは劇(漫画)で見た際、お釈迦様は老獪な方だと感じたのだ。

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