途切れ途切れの音の連なり。でも、一旦、曲を聴き始めたなら、たとえ中途からであっても、一気に音の宇宙の深みに誘い込んでくれる。
たとえば、何処かの人里離れた地を彷徨っていて、歩き疲れ、へとへとになって、喉が渇いたとき、不意に森の奥から清流の清々しい音が聞こえてくる。決して砂漠ではないはずの地に自分がいるのは分かっている。木々の緑や土の色に命の元である水の面影を嗅ぎ取らないわけにいかないのだから。
でも、やはり、水そのものの流れを見たい。体に浴びたい。奔流を体の中に感じたい時がある。
やがては大河へ、そして海へと流れていく川の、その源泉に程近い、細い清水。
まるで、自分の中に命があったこと、命が息衝いていることを思い出させてくれるような川のせせらぎ。
何も最初から最後まで通して曲を聴かなければならないというものではない。むしろ、渇いた心と体には、その遭遇した水辺こそが全てなのだ。その水際で戯れ、戯れているうちに気が付いたら水の深みに嵌っていく。
そのように、闇の宇宙の中を流れ行く音の川に出会うのだ。
誰しも、音の宇宙では中途でしか出会えないのだし、束の間の時、音の河を泳ぎ、あるいは音の洪水に流され呑み込まれ、気が付いたら闇の大河からさえも掻き消されていく。
ふと、いつだったか、自分が書いた一文を思い出した。
モーツァルトの曲の与えてくれる至福の音の世界とはまるで違う世界だとは重々分かっているのだけれど、連想してしまったものは仕方がない。
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