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2024/10/01

葬儀…痛恨の思い出

Gaiken  「葬儀…痛恨の思い出」

 父母が亡くなった…親戚一同が介した機会となった。中に部落筋の人もいた。お袋の親戚。ある人物(我輩の近い筋)が彼が部落の人間であること、価値ある鉱石を山などで探して歩くのが趣味(仕事)なのだとも。我輩に教えたいと思っている、家に招きたいという意向だと伝えてきた。時期が悪かったし連絡人も人物として最低だった。(09/27 02:42)

 我輩は深く考えることなく断った。が、相手は(連絡人も)部落の人間とは付き合いたくないと受け止めたようだ。真意は全く違うのに。実際は、自分の体の都合だった。我輩は十歳の時の手術の副作用で(手術ミスで)鼻呼吸が全くできなくなった。口呼吸だけになった。咽頭弁の縫合のし過ぎだと18才の頃に母に連れられ当該の病院に相談に行った際に云われた(記憶が曖昧で、2010年に聞いたのかもしれない。1993年や1994年の形成の手術当時は、仮に患部が分かっても手の施しようがなかったような)。
 兎に角我輩は、口呼吸オンリーの生活を何十年も続けてきた。その症状は自分で理解する以上のひどいものだった:>今年二度も読んだ「西多昌規著『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』(草思社)など参照のこと。」

 我輩には見かけ上の睡眠時間帯はあっても、睡眠…安眠は全く奪われてきた。毎日が徹夜だった。普通の人のような日常を送っていても、実際は生ける屍だった。毎日が徹夜でまともな生活を遅れるわけがない。毎朝、寝床から起き上がるのが難儀を極めた。徹夜の連続で疲労困憊なのだ。身体中が鉛の塊だった。なんとか起き上がってゾンビーの体を引きずるようにして日常を遣り過ごした。起きている振りをするのが精々だった。

 睡眠時無呼吸症候群の弊害を知ったのは35才の頃だったか(テレビか新聞だったか)。我輩は、そんな症候群がお気軽に思える。何たって数分だって眠れないのだから。分かってからは、いつかは手術をと思い、93年6月に、更に94年2月に当該の病院で手術を受けた……がただの形成外科の整形手術で終わった。まだ、技術的に可能ではなかったようだ。

 根本的な治療の機会は仕事の長い休みが必要でもあった。その機会がようやくきた。父母の葬儀で喪主を務めたが、通夜の役目さえ果たせない。父母が亡くなった今を置いて機会はない。覚悟を決めて2010年末当該の病院へ。というわけで、親戚筋の方の招きには応じようがなかった。葬儀の喪主の役目はなんとかこなしたが、それが限界で体が悲鳴をあげていたのだ。体の不都合については近親者には葬儀の際に打ち明けていたが、ちゃんと理解するなんてまるでない。部落の方に事情を告げてくれるはずもなく、彼は自分が部落の者だから招きを拒否したと理解したに違いない。

 では、手術の結果はどうだったのか、多少なりとも改善したなら(努力すれば数分は鼻呼吸も可能となった)、手術後に訪問すればよかったではないか…。そこが自分の浅はかなところで、彼が誤解とはいえ気を悪くしているとは全く考えが及ばなかったのだ。母の親戚たちの冷たい視線の訳を考えているうちに、はたと気付いたのである。気付くのが遅すぎる。招きから五年以上は経っている。 (09/27 03:18)


[追記:帰郷した2008年二月末…三月初め。父母らは老々介護してる父の年金で暮らしていた。吾輩の食い扶持がない! 昼間は父母の介護で忙しく、働けない。一文無しの吾輩は、新聞配達や代行の仕事で糊口をしのいだ。身体は悲鳴を上げていた。2010年7月から8月の葬儀や四十九日の法要が済んだところで、鼻呼吸不可の業病の治療を決断した。近親者の一人(連絡人)は、また親のカネで病院かと揶揄した。そいつは吾輩に経済的余裕があると全くの勘違いしていた。帰郷に際し借金生活ギリギリだった吾輩は、東京生活30年の間に増えてきた蔵書をなくなく売り払った。90年代刊行の夏目漱石全集や30年間の展覧会通いで集めた貴重な美術図録のコレクションも失った。痛恨! カネがあったら夜中に新聞配達や代行をするかって! (09/27 13:00)]

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