昼行燈117「夏の終わりの雨」
「夏の終わりの雨」
俺は眠れないままに闇を見詰めていた。
じっと眺めていると、見えないはずの闇の中にいろんなものが見えてくる。
分厚いカーテンの向こうの何処か靄の掛かったような夏の終わりの夜の闇が、まるで船底の罅割れから水の洩れ入るように俺の部屋を満たしているようだった。
内と外とを厳格に分けるために、高いカネを払っておんぼろなアパートには不似合いな遮光カーテンを下げたのに、まるで役目を果たしていない。
漆黒の闇が次第にただの闇となり、やがては遠い記憶の海の底のブルーへと変わっていく。俺は海中が嫌いだ。浜辺から眺めるだけなら呑気に構えていられるけれど、海の中となると、溺れる! としか思えない。海水が俺の体の隅々まで浸透する。俺を何処までも膨らます。俺は脹れていく。パンパンになるまで膨張して、俺は気が付いたら、裏返しにされた肺の風船、壁に張り付く皮脂、踏み潰された猫、捨てられた硬膜、ゲロを溜めたポリ袋。
闇の底には終わりがない。
いつか固い岩盤に降り立つという希望など無い。加速度を増す落下。それともあの世への上昇なのか。体がグルグル回り、目が回り、眩暈がし、吐き気を催し、脳味噌はメニエル病患者の円舞。
眠れない。
俺は救いようの無い孤独に吐き気を覚えるばかりだった。腸がひっくり返るようだった。胸が掻き毟られる。常に研ぎ澄まされた爪で身体中を引っ掻いた。夜毎、体にビュランで刺青を入れた。気が狂いそうだった。だけど、ギリギリの土壇場になると狂気の世界から引き戻される。
お前はまだ、生きなければならないと誰かが告げる。そうは簡単に気を狂わせてなるものかと、闇の中ののっぺらぼうの手が俺を引っ張り挙げる。得体の知れない鉤が俺の首を吊り下げる。俺はバカみたいに足をジタバタさせる。
ああ、俺のこの格好を見て、みんなが嗤っている。
みんな? みんなって一体誰だろう。俺の周りに誰かがいたことがあったろうか。俺には誰も見えた試しがなかったじゃないか。それがこの期に及んで誰かが現れたとでもいうのか。
不意に懐かしい音が聞こえてきた。雨だ。夏の終わりの雨だ。夜の雨だ。雨が俺の胸を叩く。俺の心を濡らす。俺はビショビショになる。周囲の全てもグッショリ、濡れている。
ああ、そうだ、みんなって、こういうことだったのだ。
雨。
雨の夜は切ない。あの遠い日のあの人を思い出させるからなのか。でも、あの人って、一体誰だ。俺に会いたい人などいただろうか。会うためなら魂を抉り出しても、その人に会いたい…、そんな人がいたのだろうか。
何処かに誰かがいるのだろうか。もしかして、この世に俺一人なんてことは、ないよな。誰か何か言ってくれよ。俺は、俺は助けて欲しいんだ。恥も外聞もあったもんじゃない。俺は崩れちまって、形がないんだよ。だから、町で行き過ぎる人も、俺がここに居ると気づくことは無い。俺は幽霊。そこにいるのに、誰にも見えない幽霊。その存在を否定はできないけど、さりとてあるというのも、憚られる曖昧な影の影。
雨はこの世の何者をも濡らす。この俺さえも濡らしてくれる。
雨は、部屋の中の俺さえも濡らしてくれる。俺の目。俺の頬。俺の枕。
雨は、この世界を歪めてくれる。世界が思いっきり形を崩して、そうして俺の心と同じほどに崩れ去ったなら、その時は、俺はやっと息衝くことができるのかもしれない。
怯えきった心。日の光をみない目。咲かない花。
あまりに深い夜。底の見えない夜。終わりのない目覚め。堰き止めようのないダム。塞ぎようの無い亀裂。
何者でもない俺。あの人の影。
夜の果ての旅を何処までも続けて、やっと俺はあの人の影を見た。この世の何処にも居ないあの人は、黄泉の原に咲き誇る黄色い花を捧げ持つ。あの人は、静かに歩いている。
その先にあるのは? 奥津城? 誰の?
ああ、俺のじゃないか!
待ってくれ。俺はこれでも生きているんだ。お前の仲間などじゃないんだ。俺はお前を愛している。けれど、俺はこの世の人間のはずなんだ。そうだろう?
ああ、早まるんじゃない。その花を手向けたなら、俺は本当に死んでしまうんだぞ。それでもいいのか ? !
歩みを止める気配はまるでなかった。あの人の氷の彫刻のような横顔が見えるばかりだった。
違う。俺は死にたいんじゃない。それどころか、死ぬのが怖くてならないんだ。俺は臆病者なんだ。俺が死ぬのが怖いのは、俺は一度も生きたことがないからなんだ。お前をあの日、拒否したのも、二人で生きることが怖かったからだ。だから、お前だけをあの世で生きる道を選んだんだ。
ダメだ。もう、止まってくれ。許してくれ。臆病な俺を見逃してくれ。お願いだ。俺など、どうでもいいじゃないか。そうだろう?
あの人は立ち止まることはなかった。
不思議なことに、あの人だけは濡れていない。部屋の中にも雨が降っていたはずなのに、あの人は秋の日の高い空の下、白いドレスの裾を翻し、墓の前に立った。
そして、ついに手向けの花を墓に供えた。
と同時に、俺は消える。
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