昼行燈111「長崎幻想」
「長崎幻想」
浮腫する肉体。血肉の蒸発する風船玉。まるで癇癪玉だ。ああ、涙が出るほど滑稽な光景だ。ゴロゴロ転がっている。
衣服さえも天に召し上げられたのだ、髪など熱風と共に蒸発するのは当然じゃないか。髪は天へと揮発し、あるいは肉の底へと巻き込まれ縮こまっていった。天が地上世界をのし歩き睥睨して回る時、髪の毛など屁にもならぬ。
私は哀願する若者を見た。懇願する娘を見た。平然と。お前達だって地を這いまわる蟻の命を思いやったことがあったか。さんざん、踏みつけにしておいて、今度、自分が踏みつけにされると怒る。我が儘な奴等だ。
呪詛の声が響き渡る。呻く声が、髪の蒸散するように空しく白い闇に溶けていく。
見ろ、天はお前達を見捨てはしない。悪魔の玉手箱を磨いてほくそえんだりはしない。石段の下に早くも水が湧いているじゃないか。天と地とは繋がっているのだ。満タンの天の貯水槽から溢れ出した水が、雨となって降り注ぐ前に、つい、地上世界にオモラシしてしまった。慈悲だって。何とでも言うがいい。天の思惑などこの際、関係ないだろう。
水を汲め。水を嘗めろ。地の底に湧く水を吸い上げるんだ。ほら、あそこにも水に飢えている奴がいるじゃないか。ああ、つい、天にある我、地上世界の不在の私が口を挟んでしまった。私も堪え性がないのだ。お前達と同罪だ。
糞塗れの肉体。水たまりはなくとも糞尿の池は数知れない。それだって地という名の天が濾過してくれるというもの。地に染み込んだ糞尿を土壌に変え、尿を水に変え…。そう、汚物も世界を循環していく。この世に輪廻の定めを逃れられるものなど、寸毫ほどもありはしないのだ。
念仏とは地獄を忘れんとしたものたちの呪文。地獄ではなく天国を夢見る祈り。現実を見ることを拒むものたちの合唱。一団となって地獄へと三途の川を渡河する喜劇のテーマソング。
だからこそ、喇叭の音が似合う。念仏と喇叭とが藍色の空で合奏している。滑稽なほどの真剣。酷薄なほどのコント。
握り飯を喰らう。土を喰らう。草を喰らう。虫を喰らう。なんだって喰らう。人の不幸だって喰らってきたじゃないか。
まずい、まずい、思わず人だって喰らってきたじゃないか…などと正直なことを口走ろうとしてしまった。
私は地上世界の不在者、天へと蒸発した肉、存在の無、全てを見るもの。見たくないものをこそ目にしてしまう性(さが)を生きるもの。誰もが目を背ける光景をその行末に至るまで見尽くす宿命を負ったもの。
胸のむかつきなど、屁でもない。私とはむかつきの果てに吐き出された魂の骸なのだから。
人は闇から来たって闇に還っていく。この世に生きてあるものの道筋は、誰にも平等なのである。ただ、誰もが闇の中でこっそりと末期を迎えるから、目を背けて居られるだけ。来る時が来たら、肉は殺げ、肉は腐り、肉は焼け、心は焦がれ、心は涸れ、心は妬ける。
心の肉に蛆が湧き、命が自然発生する。そう、えげつない命の営みが己が肉のうちで繰り広げられる。悪魔の玉手箱は地上世界の枠も囲いも塀も壁も覆いも仕来りも取っ払ってしまった。人が営々と築き上げてきた世間体という体裁をもあっさりと吹き飛ばしてしまった。
薄闇の奥でこっそりと処理されていた、偽善をも奪い去ってしまった。人の肉は地の底にあって燐と成り果てることを暴露してしまった。人の尊厳など、塵ほどにも意味を持たなくさせてしまった。
夜は人魂が燃えていると云う。違う、夜も昼も人魂は燃えているのだ。お前達の目は節穴だからそれが見えないだけなのだ。今も燃えているぞ。見えないのか!
シトシトと降る雨。闇の空に降る雨。虚の雨。心を濡らすことのない、地を潤すことなどありえない雨。情のない雨。沈黙の海に還ることのない雨。沈黙を生きとし生けるもののざわめきに立ち返らすことのない雨。窓を伝うことのない雨。雨樋をリンパ節のように忌避する雨。
あまりに遠くへ来てしまった。立ち竦み、一歩も動かなかったはずなのに、気が付けば、誰もいない闇の空を眺めるしかなくなっていた。
空っぽの空。そう、空(そら)なんかじゃなく、ただの空虚なのだ。
蒸発して消えた影。蒸発の腹いせなのか、それともこの世への未練なのか、煤け爛れたコンクリートの壁に影の輪郭だけを形見に遺して消えた奴。中には、決して忘れさせるものかと、誰もが忘れた頃に生まれてくる奴もいる。
長崎の長い曲がりくねった石畳の坂をゆらゆら下る孤影。それとも天へと昇っていくのだろうか。あれは……蒸発しきれない魂の成れの果てに違いない。
[拙稿「路上に踏み潰された蛙を見よ」より抜粋。これは「日蔭ノナクナツタ広島ノ上空ヲトビガ舞ツテヰル」(2005/08/06)からの抜粋でもある。「歩いて感じる「長崎の坂道、5つの物語」 | 観光特集 | 長崎市公式観光サイト「travel nagasaki」」参照。]
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