昼行燈94「ヴィスキオ」
そこには流行りのファッションに身を装った若い…三十路前だろう女性らが数人。男は自分だけ。誘った奴は店には来なかった。
女性らは積極的だった。食べ物の話やら話題のスポットの人気ぶりやら。俺には退屈極まる話ばかり。そもそも女たちは初顔ばかり。どう見ても俺の関心の対象にはなりそうにない連中。垢抜けていて見栄えは良さそうなのだが。
そのうちジャズとかボサノバとかの曲が流れてきた。ダンスタイムなのよと女の一人が俺を誘う。
俺にはそんな気はまるでない。奴らとは本来なら一生出会うはずもない。
というか、俺に出会う人がいるのかどうかも怪しいが。どうやら俺との出会いをセッティングしたらしい。壁の花が似合いの俺に!
ベンチボックスに深く腰掛けたまま動きそうにない俺にしびれを切らしたのか、女らは次第に強引に誘ってきた。ねえ、踊りましょうよ。楽しいわよ、ね。
一緒に踊る? 何が楽しいのだろう? 店のマスターはニコニコしながらカウンターの向こう側でグラスを拭っているだけ。
俺にはただ窮屈で退屈な時間が淀んでいるように感じていた。テーブルのコースターに店名の「ヴィスキオ」の説明が書いてある。
「ヴィスキオはイタリア語で“宿り木”を意味し、宿り木は北欧神話で幸福、安全、幸運をもたらす聖なる木とされていることから、お客様に旅の疲れを癒し幸福を感じていただける場となることを願い……」
「宿木」…ふと、つい先日読んだ「源氏物語」の現代語訳を想い起した。五十四帖の巻名の一つだ。最近読んだばかりだから、さすがに記憶に残っている。
「やどりきと思ひ出でずは 木のもとの旅寝もいかにさびしからまし」
そうか、俺がそんなものを読んだと知って同僚が名前にちなむ店に誘った……と考えるのはうがちすぎか。
女たち3人が俺を囲むようにして踊る。踊ると云ってもボサノバの曲調に合わせて緩やかなステップを踏むだけ。
そのうち女の一人が俺とハグし始めた。
俺は身を固くした。俺などに身を寄せる女などいるはずがないのに…。
やがて女たちはようやく俺を解放した。帰り際だった。俺とハグした女が仲間に自慢げに喋る声が聞こえた。聞えよがしの語り口だった。
「ねえ、わたし、ハグしたわよ!」
そうか、そのために同僚は俺を誘ったのか。
いかにも遊び慣れた女たち。どんな男とだって気軽に…気軽そうに遊べるプロの女たち。別に俺は女が誰だろうと毛嫌いなどしない。むしろ、楽しいのかもしれない。
だけど、「ねえ、わたし、ハグしたわよ!」という口調に、いかにもゲテモノと仲良くしてあげたわよという自慢する語感を嗅ぎ取った。
店からの帰り道。十時過ぎの新宿は雑踏が一層賑やかさを増していた。そんな中俺は悔し涙を抑えきれずに居た。
奴らからは俺はゲテモノなのだ。それはそれでいい。だからってハグして自慢するなんてとんでもない! 同情されるなんて真っ平だ。ましてゲテモノ扱いなんて。周りの奴らがどう思おうと勝手だ。好きに思えばいい。だからって人を揶揄うな。
(07/02 03:10)
[画像は、「ヤドリギ - Wikipedia」より]
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