昼行燈104「赤茶けた障子紙」
「赤茶けた障子紙」
肉体的異常があったからといって、ひたすら精神的に打ちのめされ、打ちひしがれ、圧倒され、精神的な闘争に疲労困憊し、困窮し、心が枯渇し、それこそ、草木の一本も生えない荒涼たる、寒々とした光景ばかりがあからさまとなるケースもある。
癲癇(などの精神的な病)を抱えることと、精神的な荒廃、あるいはその位相的には逆にあるかのような創造性とは、決して直結しない。心の病を抱えている、だから、心が荒廃した、とも説明できるし、心の病を抱えている、だから、彼はその病を活かして彼特有の世界を探究し表現したとも、そのどちらとも、言える。
心の異常と結果(精神の荒廃あるいは創造性)との間に、ギリギリのところでの当人の負けを承知の、結果において打ちのめされることは、火を見るより明らかな、不利な戦いの真っ只中において、我を打ちのめし、あるいは押し流し、何処へとも知れない闇の海の底の土砂の堆積に埋められていくことは重々分かっていても、それでも、精神の疾風怒濤の中に手を差し出し、あるいは剥き出しの我が身を、我が心を差し出してまで、不可思議そのものである精神の闇の中にほんの一筋の光明を見出そうとする。
それとも、百万ボルトの高圧電流が全身を射抜いて、一瞬にして肉体が炭になり灰になり、塵になる、その最後の最後の擦過傷としての精神的所産、否、もう単なる摩擦熱、摩擦の際に生じる熱が身を焼き焦がすその焔、ただそれだけを求めて、ことさらに精神の荒廃の砂漠へ乗り出していく…、そんな稀な試みをする人もいる。
そこには、圧倒するわけの分からない、掴み所のない、闇雲な、どうしようもない、ひたすらに数万気圧の圧力に平伏すしかない物質的な精神の宇宙がある。自分という存在が仮初にもあったとしても、気が付いた時には、圧力に踏み潰され、ペラペラの存在になってしまっている。自分に厚みも温みもこの世界との和解の予感の欠片も失われている、そんな無力な我がある。
いや、その<我>など、あるはずがないのかもしれない。あるのは、息も絶え絶えの呻き声だけ。自分でさえ、その呻く声がはるかに遠い。
それでも、何かしら、アルキメデスの梃子のように、奔騰する闇の洪水の最中にあってでさえ、手を差し出せれるならば、それはそれで我の自覚であり、我の存在の予感ではありえる。
それが、もし、そもそも、その手を差し出す前提としての、心の身体が欠如していたとしたら。差し出そうとすると、その力が反作用として働き、自らの身体(心)を砂地獄に埋め沈めていく。砂の海に溺れることを恐怖して、ただ悲鳴の代わりに手を足を悪足掻きさせてみたところが、その足掻きがまた、我が身をさらに深い砂の海の底深くへ引っ張り込まさせる結果になる。
私とは、私が古ぼけた障子紙であることの自覚。私とは、裏返った袋。私とは、本音の吐き出され失われた胃の腑。私とは、存在の欠如。私とは、映る何者もない鏡。私とは、情のない悲しみ。私とは、波間に顔を出すことのないビニール袋。
そして、やがて、あるのは、のっぺらぼうのお面、球体の内側に張られた鏡、透明な闇、際限なく見通せる海、気の遠くなる無音、分け隔てのある孤立、終わりのない落下、流れ落ちるばかりの滝、プヨプヨな空間、風雨に晒された壁紙、古ぼけたガラスの傷、声にならない悲鳴。
言葉になるはずのない表現の試み。
(拙稿「W.ブランケンブルク著『自明性の喪失』」より抜粋)
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