昼行燈93「ハートの風船」
風はやんわり吹いているし、暖かいといっても、晩秋である。汗を掻くのは、作業が結構、力仕事だってことを如実に表しているのだ。
高枝切鋏を使って、しかも、脚立の上に登って、杉の樹の高くにある枝を切ろうと躍起になっていた。低いところの枝葉が邪魔で、鋏の刃がなかなか枝を捉えることができないのだ。
角度を変えて狙うとか、低いところの枝を払ってから、やり直すとか、上手くやるには工夫の余地があるのだが、なんとなく意地になってしまって、脚立の足場をずらさずに、何としても狙った枝を掴もうとしていた。
いちいち降りて、脚立を移動させて…なんて作業が面倒でもあった。
木漏れ日が麦わら帽子の鍔の縁から差し込んでくる。目に陽光が入りそう。でも、獲物を捕まえるには目を凝らさないことにはどうにもならない。
ふと、足元で何やら黒い影が過った。
陽光にアスファルトの麦わら帽子や自分の影が張り付いていて、微動だにしないはずなのに。
気になった。でも、今はあの憎たらしい枝に神経を集中しないといけない。
中途の枝葉の揺れ方が強くなってきた。風が強まったのかもしれない。明日は低気圧が急激に発達して、日本海側も荒れた天気になると、予報で言っていた。
今日という日は、チャンスなのだ。
先ほどの足元の影の揺らぎも、風の悪戯に違いない。
不意に、「小父ちゃん、あれとって」という声が聞こえてきた。
幼い女の子の声。見ると、小学生にもなっていないような女の子が天に向かって指を指している。
目線を彼女の可愛い指の先を追ってみると、ハート型の風船がふわふら飛んでいる。
風船というより、バルーンと呼びたいような、何やら業務用か宣伝用の風船で、へそ(?)から何やら長い紐が垂れ下がっている。紐には短冊のような紙切れが付いていて、風に戯れ、陽光にキラキラ輝いている。
私は、脚立を降りて、しばし風船に見惚れていた。
風船は、空気がやや漏れ出しているのか、舞い上がっていくこともなく、屋根の高さくらいのところを浮かんでいるのだ。
女の子が「小父ちゃん、何とかして!」と、せがむ。
「なんとかしろと言われても…」
なるほど、風船の高さは、数メートルほどの杉の樹の天辺ほどの高さである。長い棒があれば、なんとか、紐に絡めることができるやもしれない。
棒? 棒だって!
「竹竿でもあれば…」
女の子は、黙って、私の手を見つめた。なるほど、私の手には、高枝切鋏があるではないか。
柄を最大限に伸ばせば、さらに、脚立の上に登れば、届かないこともない…
私は、女の子の訴えるような目に負けて、年甲斐もなく、杉の樹の枝を支えにして脚立に登り直した。しかも、脚立の上に立ったのである。
ふと見ると、先ほど、狙っていた枝がすぐそこに見えていた。無精せずに登っていたら、奴はとっくに切り落とせていたはずなのだ…なんて思いがチラッと脳裏に浮かんで消えた。
代わりに、ピンク色のハートの形のバルーンが頭上に大きく見えた。ふわふら浮かんで、風に左右に揺れていた。紐が杉の枝葉に引っかかっているわけでもないのに、風船は高さを変えないでいるのだった。
脚立の天辺はさすがに高い。足場がアスファルトとはいえ、脚立が古いせいか、ややぐらつき気味である。怖い…はずなのに、妙な見栄心もあったのか、彼女にいいところを見せたくて、私はすっくと立ち上がった。手の高枝切鋏をグッと伸ばして、バルーンの紐に届かせようとした。
ギリギリ、届くような、ほんの少し、届かないような微妙な距離。
私は、高枝切鋏の柄を杉の樹の例の枝に寄りかからせ、片手で持って、伸ばしてみた。
届く!
鋏の部分を紐に引っ掻け、捩らせて、絡ませた。
捕まえた!
「やったず!」と、思わず、快哉の声を上げていた。
風船を捕まえたまま、脚立を慎重に降り、風船を見知らぬ女の子に渡した。
風船を受け取ると、「ありがとー!」と、一言、発して、彼女は自分の体より大きい風船を抱きかかえ、去って行った。
彼女の姿が、風船が高く高く舞い上がるように、小さくなって遠くの垣根の角に消えていった。
一瞬の出来事だった。夢の一場面だったと云われても否定できないような、呆気ない出来事だった。
私は、あの杉の樹の枝を切るのをやめた。あの女の子との出来事が夢ではなかったことの証しに思えたのだ。
脚立を畳み、作業を側溝の落ち葉掃除に変えた。
(2014/11/30 作)
[トップ画像は、拙稿「バンクシーをも呑み込む現実?」より。なんなら「赤い風船」(02/11/03 作)参照する?]
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