昼行燈31「誕生日に寄せて」
「誕生日に寄せて」
私は今、何を書く当てもなく、こうして画面に向かっている。
が、画面に向かっていると言いつつ、私の気持ちとしては今日、生まれた人のことを思って心を整えようとしている。
その人の気持ちになって、生きることを考えてみたいと思っている。
人が生まれるというのは、どういうことなのだろう。それこそ、動物などが生まれるというのとは、明らかに違うような気がする。別に人間様が動物より上だとか、優れているということではなく、暦の中に自分の生まれた日を見出す時、誰しも一入の感慨を抱くということ、ただ、そのことを思うのである。
思うに、植物の類いは誕生日を持つのだろうか。今日、生まれたの、なんて、感じるのだろうか。種が開花をした日が、誕生日に当たるのか。でも、植物自身は恐らくは何も感じないでいるのだろう。ただ、咲き、ただ、生い茂っているのだろう、きっと。
動物には、人間様と同様、生まれた日はある。さすがにこの世に、おぎゃーとは生まれてこないが、でも、出産という母体からの分かれの日が確かにある。母体からの別れではあるが、しかし、母との対面の日でもあるわけで、その日を境に、一個の個体として生き始める。
けれど、動物は暦を知らない。一年の区切りなど知らない。動物をペットとして飼う人間が、勝手に思い入れをして、今日はこの子が生まれた日よ、なんて、何か御祝いめいたことをすることがあるだけだ。
それでも、動物は、我関せずで、今日も昨日と同様に生きる。今という瞬間の中に、ご主人様との会話や戯れの時を愉しむ。明日は知らないし、昨日も知らない。今日という日も、きっと知らないのだろう。今、生きていることに目一杯なのだ。
そんな中で、人間は、全ての人間はとまで勝手に言うわけにはいかないかもしれないが、大抵の人間は暦を気にする。昨日を引き摺っている。昨日どころか記憶にしか残らない遠い過去をも引き摺っている。今日というのは、昨日までの過去と明日、あるいはもっと先の未来との狭間に生きている。
今日は過去の清算の日だったり、明日のための準備の日だったり、なければいいような日だったり、否、むしろなかったほうが遥かにマシな日だったりさえ、する。
今日は特別な日なのだ。何しろ、私が生まれた日なのだから。
が、今日という一日は、私の感懐とは関係なく、いつものように淡々と、あるいは慌しく過ぎていく。それは、世界中の無数の人々が、私とは関係なく、私を欠片さえも意識することなく、私の傍を、あるいは私から遠い世界を通り過ぎていくようなものだ。
私は、今日、生まれた。今日という日は、特別。何かが違うはずの日。
でも、遠く離れてしまったはずの、絆を疾っくの昔に断ち切ったはずの誰かが、不意に私を思い出し、私に「誕生日、おめでとう、あなたに逢いたかったよ」なんて言ってくれることを期待するような特別な日。
いつものような朝、昨日と変わらない朝なのに、でも、何かしらが違っていていいはずなのにと思ってしまう朝。
私は、今、平凡な人間として生きている。自分のことを特別な人間だなんて思わなくなって久しい。煌びやかな脚光からは、どんどん離れ去っていく人間。日々の勤めを果たすことに、精一杯な、自分のことより、周りの誰彼の世話や付き合いに忙殺されている人間。
ああ、でも、それでも、私は、私という人間はこの世に独りなのだ。
たとえ、世の中の誰一人として私のことを理解せず、それどころか名前さえも知らないのだとしても、あるいは、今日、否、たった今、私が消え去っても、誰一人、悲しむどころか、気付きさえしないとしても、でも、私は私にとって掛け替えのない人間。私を理解しているはずの唯一の人間。
そんな私の胸の底には、掛け替えのない人がいる。きっと、その人だけは私を見つめていてくれる。仮に、今日、その人から何の便りもメッセージも届かないとしても、その人だけは胸の奥底で私のことを思っていてくれるはずだ。
友達の「誕生日、おめでとう!」という歓声が上がっても、私は独り。私はその人の声の鳴り響くのを待っている。私は独り待ちつづけているのだ。
青く透明な闇の彼方から、私に向かい、「待っているんだよ」、と語りかける何か。
人は誰でも、その人だけの人生を持っている。誰にも気付かれないとしても、でも、私は私でなければ支えられない何かを懸命に支えている。
フッとした瞬間に気が遠くなって、絆に縋る手を放しそうになるけれど、でも、私は何かを必死になって握っている。私とは、その懸命さ、健気さなのだ。
誰にも、私が何を握っているのか、説明できない。自分にだって説明できないのに、できるわけもない。でも、その人には恥ずかしくて言えない、その健気さで、今日をやっとの思いでしのいで生きる。
明日はどうなるか、分からない。明日になったら、やっぱり緊張の糸が切れてしまうのかもしれない。でも、取りあえず、今日は生きている。生きているという奇跡をしみじみ、胸の底から堪能している。
この胸のどうしようもない寂しさ、吐き出したくなるほどの淋しさ、あるいは哄笑したくなるほどの愚かしさの自覚。その中に私はいる。私はただの意地っ張りなのかもしれない。
生きるとは、私を選ぶこと、私が私を愛でること。そんなことが、この年になってようやく分かった…。
それだけでも、もしかしたら、十分すぎる生きることの恵みなのかもしれない。
(「誕生日あるいは11月7日に寄せて」01/11/03 作 画像は、「おひとりさまの誕生日。寂しくなったら、思い出してほしいこと。 | おひとりさまの本音」より)
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