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2023/11/22

昼行燈39「 廃墟」

City_20231123034601  「廃墟

 

 寝苦しい夜だった。長い長い夜の果ての、遠い幽冥の境にいた。まるで、中東の戦闘の地を潜り抜けてきたような気分だった。
 しかも、オレは、加害者だ。空襲する側に立っている。絶対、安全な場所にいて、ボタン一つを軽く押すだけ。
 すると、目の前の液晶モニターに、綺麗な軌跡が緩やかな曲線を描いていき、ターゲットに当たると、一瞬、青白い閃光が煌くと、すぐに真っ暗闇の画面に戻る。
 それだけのことだ。ここにいるオレは、鼓動が早まることもない。


 そう、それだけのこと。まるで、ゲーセンにいるみたいだ。液晶上の軌跡の先の砕け散った肉片など、誰も掻き集めもしない。そんなことは、オレの役目じゃない。そんなバラバラの肉や砕けた骨や焼け焦げて蒸発してしまった血な
ど、時による風化に任せておけばいい。
 オレは、居心地のいい部屋で、漫画でも読むだけだ。

 コンクリートかアスファルトで舗装された大地に住まう。その大地には息する余地さえ与えられない。それが現代における都会だ。少なくとも歪んだ心と共に生きる人には、新鮮な大気というのは、夢のまた夢なのである。
 それでも生きている限りは息をする。懸命に酸素を吸おうとする。
 海やプールで初めて泳ぐ時、息継ぎに苦労する。大概は、息を思いっきり吸おうとする。まだ肺の中の汚れた気体を十分に吐いていないのに、そこに無理矢理、息を飲み込もうとする。
 だから、段々肺の中に綺麗な空気と汚い空気が充満して、肺が苦しくなるのだ。
 肝腎なのは吸って既に吐くべき気体を吐き出すことなのだ。そうすると気体の抜けた肺は自然に息を吸うのである。動物の肺は、そうなっているのだ。
 が、大地の下の押しひしがれた生き物は、いつ大気を吸えるか分からないものだから、必死な面持ちでグッと吸い込もうとする。コンクリートに僅かな罅割れを見出して、そこから茎や葉っぱを押し出して、日の光を浴びようとする。
そうしないと生きられないのだ。
 グローバルな潮流に逆らおうとする奴は、埃だらけの、放射能で汚染されたスモッグを肺にタップリ吸い込むがいいのだ。

 死骸が路上に横たわっている。
 犬は蛆が湧くほどに腐乱していた。お腹がそろそろ白骨が見えそうなほどに何かの動物に食いちぎられたのか、それとも腐敗し始めていたのか、いずれにしても何日間は放置されていたわけである。
 ところで、今は潔癖なほどに街中に死の気配の払拭された日本だが、ほんの数世代前には、死骸が、それも動物だけではない人間の死骸がゴロゴロしている風景が、当たり前だったことだってあったのだ。飢餓に苦しんでいたのは、そんな遠い昔のことではないのである。まして、病人が家の何処かの部屋に寝込んでいるという風景は珍しいものではなかった。
 それが、今では、病人や特に死を目前にする人の姿を近所で見かけることは少なくなった。病や死が身近なものではなく、病院の一角に追いやられる忌むべき<穢れ>になってしまったのである。死が、自分のもの、家族のもの、近所の人々のものではなく、病室での徹底して孤独なる営み、人の目からは隠しとおされるべき非日常、異常な何かとされてしまったのである。死や病は、私のもの、家族のもの、仲間たちのものではなくなったのだ。
 死だけではなく、病そのものが、もっと言うと老いることが汚らわしいことにされてしまったのである。若く見られることを至上の喜びと思う女性やご老人。実際は七十、八十なのに、「六十歳にしか見えませんね」などと言われると相好を崩して歓んでしまう。
 何故、若いことがいいことなのだろう。何故、元気でいることが最善なのだろう。遅かれ早かれ老い、病み、死ぬことが必定だというのに、そのように宿命付けられていることは呪わしいことなのか。
 だったら、老いている人、役に立たない人、病んでいる人、死を目前にしている人たちは、すべて、呪われた人たちということなのか。

 土を喰らう…、昔は誰もがそうして日々を暮らしてきたのだ。土の変幻した果実を口にする喜びを感謝してきたのだ。土が身近にあったのだ。
 その喜びを、やつ等に嫌って言うほど、お見舞いしてやっているだけのことなのだ。

 土の中には無数の生物が生きている。それこそ数万どころか、数億、あるいはそれ以上の微生物達が生きている。生まれつつある。死につつある。腐りつつある。食いつつあるし、食われつつある。
 大地を踏む感触がわれわれに豊かな生命感を与えてくれるというのは、実は、そうした生命の死と生との巡り巡る循環に直に触れているからではないだろうか。
 そして遠い感覚の中で幾分早くわれわれより土に還った先祖の肌の温もりを感得しているからなのではないか。

 願うのは生きられなかった己のエゴの解放。そうであるなら、つまり叶うことがありえなかったのなら、せめて、心の脳髄の奥の炸裂。沸騰する脳味噌。
 何か、まあるい形への憧れ。透明な、優しい、一つの宝石。傷つくことのない夢。
 そうした宝石をきっと、誰でもが、遅かれ早かれ探し始めるのに違いない。
 そう、ちょっと、ほんの少し、探し始めるのが早かったのだ。もっと、たっぷり生きてからでよかったのに。
 でも、一旦、初めてしまったなら、やり通すしかない。真昼であっても闇、闇夜であっても同様の白い闇の世界の小道を、何処か深い山の奥から渓流の勢いに押し出されたヒスイの原石を求めて、終わりのない旅を続けるのだ。

 

[「ディープスペース(4):フォートリエ!」より抜粋。フォートリエとは、ジャン・フォートリエ JEAN FAUTRIER.のこと。画像は、お絵かきチャンピオン 作「ホワイトシティーの残骸」]

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