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2023/11/29

昼行燈(番外2「音という奇跡」)

Takemitu   「音という奇跡

 森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。

 遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。

 その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。

 その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
 何も残らなくても構わないのかもしれない。

 森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。
 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。

 音楽を音を楽しむと敷衍して考えていいのなら(あるいはそれならもう音楽ではないよというのなら、別に音楽に拘るつもりもないのだが)、音の不可思議を思わずにはいられない。

 人の耳に自然や宇宙や、海の底や地の底、遠い遥かな森の中の木の枝を伝い落ちる雫の気配、冬眠する熊の寝息、際限もなく存在しているのだろう微生物の生命活動する蠢きとざわめきの反響を聴くような、そういった未知の周波数に合うような聴覚があってもいいような気がする。

 沈黙という時に耳に痛いほどの無音の叫び。

 絶対零度に向かって限りなく漸近線を描きつつ近付いていく宇宙空間。裸で空間に晒されたなら、どんなものも一瞬にして凍て付いてしまう、恐怖の空間。殺人的というより、縦横無尽に殺原始的な放射線の走っている、人間が神代の昔から想像の限りを尽くして描いた地獄より遥かに畏怖すべき世界。

 感情など凍て付き、命は瞬時に永遠の今を封じ込められ、徹底して無機質なる無・表情なる、光に満ち溢れているのに断固たる暗黒の時空。
 その闇の無機質なる海に音が浮き漂っている。音というより命の原質と言うべき、光の粒が一瞬に全てを懸けて煌いては、即座に無に還っていく。銀河鉄道ならぬ銀の光の帯が脳髄の奥の宇宙より遥かに広い時空に刻み込まれ、摩擦し、過熱し、瞬時に燻って消え去っていく。

 音というのは、在るという不可思議からの賜物であるに違いない。停止する光子の塊としての物質、沈黙せる音の凝縮としての物質というのは、実は等価なものなのではないか。


 喋ることが困難であり聴くことも叶わず、動くことも許されないとして、そうして寝たきりになって一切の外界の刺激にも反応しなくなっても、むしろそうした状態の時にこそ、一層、宇宙や自然や生命の豊穣さをつくづくと感じているのではないか。
 モノを言えない人の想像力は、きっと、感じる想いが際限もなく膨らんで、宇宙大に伸び広がっているに違いないのだ。だからこそ、人は時に無口になるしかないのだ。


 今日も音を楽しむ。音を楽しむのに機械など要らない。機械にはそもそも馴染まない音の宇宙がそこにある。
 言葉とは、沈黙の音をまっさらな時空上で奏でるために人に与えられた武器なのではなかろうか。

 

[拙稿「聴初には何がいいだろう」及び「音という奇跡」より。拙稿「世界は音に満ちている…沈黙という恐怖」参照。冒頭の書籍画像は、武満徹著『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)]

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