昼行燈21「青い雫」
「青い雫」
台所の流しから絶え間なく雫の爆ぜる音が聞こえてくる。
何処かのパッキンを新しいのに換えれば、それで済む。
でも、動くのが億劫なのだ。
静か過ぎる部屋。俺は水滴の洩れるのが気になるのは、その静けさのせいだと思いたいのだ。
あいつがいなくなって、まだほんの数日しか経っていない。なのにこの侘しさと来たら…。
(うんざりだ!)そう胸の中で呟く声が響きそうなほど、静まり返っている。
どうやって耳を聾する沈黙の横暴を宥めたらいいのか、俺には見当もつかない。
パチンコに行くのも面倒。仕事もない。昼寝に最適だった近所の公園は、最近、どうも、小母さんどもの目が気になる。となると、部屋の中で燻っているしかないのだ。
不意にパタパタという音がした。ハトだ。
窓を見遣るのも馬鹿馬鹿しいけれど、他にすることがないのだ。それに青い空が眩しすぎる。まして、団地と工場とアパートの屋根の狭間の僅かな空が垣間見えるだけだから、その青空の捻くれ具合が、余計、癪に障るのだ。
ま、もう少し、日差しが和らいだら、空を見上げる気にもなれるかもしれない。
でも、今は厭だ。
ただ、暇潰しに、台所に立ち、シンクの縁に肘を突いて顎を乗せて、空を見ることはある。蛇口に水滴が溜まり始め、膨らんでいき、ビンビンに張り詰め、やがて、雫が垂れる。その落ち際の末期の瞬間を決して逃さないのがコツだ。これには極度の集中力が要る。パチンコをしている時の集中力に何処か似ている、のかな。
そう、丸い雫の向こう側に青空を透かすのだ。ほんの束の間の青く透明な雫の煌き。地上に決して痕跡を残さない俺だけの真実。それが苦労へのご褒美なのだ。一日に十回も成功するうちに、日が暮れるという寸法だ。
その日、やっと二度目の成功を果たした時、階段がギシギシと軋み始め、ついで廊下をスリッパでペタペタ歩く音が聞こえてきた。はす向かいの女だ。歩き方で分かる。やや、がに股の女。でも、太ももの肉付きが俺好み。それにお尻もおいしそう。あまりハッキリ、女の顔を見たことはないが、歩く後ろ姿だけは、機会のある毎に目に焼き付けておいたのだ。
オカズにするために? もう、しちゃったよ。
バタン! と古いドアが閉まる。アパート全体が振動する。何だか俺に怒っているみたいだ。オカズにしたことが、バレチャッタのだろうか? 女の奴、仕事はどうしたんだろう、なんて、余計な心配をしてみたり。
やがて、その女の部屋からかすかに喘ぎ声が聞こえてくる。女の部屋には、俺同様に暇を持て余した男が棲みついているのだ。
何だって真昼間から事を始めやがるんだ! と、思ったが、考えてみたら俺もつい先日まで毎日そうだったんだ。
ん? 考えてみたら?
そういえば、この部屋は女の部屋だった。女は、俺のほうが出て行くのを待っているのだ。でも、俺には行く当てなどない。が、女には数え切れないほどに、ある。友達も多いし、それどころか、毎日、新しい男が出来るから、大概、そうした奴等の住処に居着く。自分のアパートに今度、戻るのはいつなんだろうか。
俺はあの女の声に集中しようと、畳に耳を擦り付けていた。すると、声は残念ながら聞こえなかった。けれど、また、階段が軋み始めるのが分かった。畳に頭を擦り付けているからこそ聞こえる僅かな響きだ。
踊り場で、しばし時間が空いて、やがて廊下を歩く。この間(ま)は、間違いなくアイツだ。あまりに足音を潜めて歩くものだから、大概は、ドアがいきなり叩かれる、俺は不意を突かれるというわけだ。
でも、今日は、そうじゃない。
ああ、アイツの耳にあの女の、猫の尻尾を踏み潰したような声が聞こえているんだろうな。大丈夫、俺がすぐにお前にも負けないような悶絶の叫びを上げさせてやるから…。
やっとだ。やっとだよ。アイツが帰って来たんだ。俺は慌てて、畳から頬を離した。頬っぺたに畳の目じゃ、格好が付かないし。
俺は襟を正し顔を擦りながら、アイツがドアを叩くのを待った。
なのに、アイツは俺の、いやアイツの部屋を素通りしやがった。
えええ?
慌ててドアを開けて廊下をこっそり覗いてみると、なんと、アイツは、あの女の部屋に入っていったじゃないか。
えええ?! どうなってるんだ。訳が分からない。どっちにしても、一悶着、起きるぞ! 痴話喧嘩の始まりだ!
けれど、何も起きなかった。
それどころか、一層、分厚い吐息の波が押し寄せるだけだった。
(画像は、「青い雫の落ちる時 | GANREF」より)
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