昼行燈15
ならば、一体、この私の存在を確かなものとしてくれるのは、何なのか。そもそも何かあるのだろうか。私は裏返しになってしまい、途端に消えてしまったのである。
残ったのは、影でさえない。
あるのは吹きすぎる風。湖面の細波。車に噴き上げられる塵埃。落ちることを忘れた黄砂。消しきることの出来ない半導体のバグ。磨きたてられた壁面の微細な傷。白いペンキで消し去られたトイレの落書き。どこに私がいるのだろう。それとも、そのいずれにも私がいるのだろうか。
ヴォルスの抽象的で、それでいて生々しい線刻の乱舞。それは生への嫌悪であると同時に生への恐怖。確かにサルトルの言う通りなのかもしれない。
けれど、嫌悪とは、依然として一種の自己主張の名残なのではなかったのか。嫌悪の裏側には、ある種の望みなき救いへの祈り、悲鳴という名の肉声の形に凝縮された祈りが隠れ潜んでいるのではないのか。
私はヴォルスの多次元なまでに舞い狂う線描の突端へと駆け寄りたいのである。いつの日か寄り添いえた暁には、パウル・クレーとは違った意味での、心と体の慰撫という幻視がありえるかもしれないのだ。
ヴォルス…。ざらざらな大地そのものか、それとも剥き出しのコンクリート壁面としか思えない架空の画布に、指先をペン先にして線描画を刻み込む。滲み浸み込む血と脂と肉片の形。溶けて爛れた自己。嫌悪と愛惜とが背中合わせに傷つけあう美。フォートリエではないけれど、破砕され廃墟となったビルのコンクリート片、そして土嚢の下に埋もれて歪み歪んだ肉塊。美は重力に圧し拉がれている。誰もいない森よりもっと渇いた化石の森の中のギリギリの、声にならない呻き。地上世界に居場所を見出せなかった美は宇宙へ食み出していった。美は真空の中で凍てついている。
ヴォルスは窒息した美という悲しみを描いているのだ。
(拙稿「ヴォルス…彷徨う線刻の美」より。ヴォルス『無題』1942/43年 DIC川村記念美術館 グァッシュ、インク、紙 14.0×20.0cm (画像は、「「アンフォルメルの先駆者」ヴォルスの全貌を探る 国内初の展覧会 - アート・デザインニュース CINRA.NET」より))
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