昼行燈7
何を迷ったのだろう。どうやら、水溜りに近づいた瞬間、水面に月影が浮かんで見えたからのようだった。雨上がりの夜空に煌々と月が照っている。表通りを歩いている間は、街灯やらヘッドライトやらネオンサインやら行き交う人影やらで空の月のことなど、てんで眼中になかった。それが、疎らな、しかも、よぼよぼの街灯しかない我が町の近隣に踏み入った途端、宵闇が世界を埋め尽くさんばかりだったのだ。
それでも、近所の家の窓明かりやら軒の灯りやらが、それこそ、闇に浮かぶ光の小さな池のように散在している。
光なら、地上にだって、種々様々溢れているのだ。寂れそうな我が町だって、思い出したようにいろんな光たちが寂しがっている。ただ、我が家には光はない。誰もいない、独りぼっちの家に光など必要ないのだ。
そうだ、分かった! この水溜りに映る月影が我が家への道の最後の光なのだ。
だから、水溜りの前で足が止まってしまったのだ。
この光の浮かぶ小さな池を越えたら、もう、光はない。
月光があるじゃないかって?
我が家は古くからの農家だった。屋敷の周りを杉などの大木が囲んでいる。しかも、ご丁寧にも蔵だってある。とっくに使われない農機具やら稲架やら竹材などを収めた小屋だってある。それらが月影を遮ってしまう。
なんだか、まるで光を毛嫌いしているかのようだ。光などは我が家には一切、届かないよう建物の配置が塩梅されているかのようだ。
ボクは我が家があまりに淋し過ぎるので、軒下や蔵の庇のしたなどにセンサーライトを設置した。細長い庭の入口に自分の姿が入ったなら、センサーが反応してスポットライトが我が身を照らし出す。
誰も出迎えることのない家で、この幾つかのライトたちだけがボクを歓迎してくれる!
そうでもしないと、この世にボクなど存在しないみたいじゃないか!
ああ、でも、今夜は雨上がりの夜道にできた水溜りが素敵なプレゼントをボクに用意してくれた。
月影が地上世界でボクに微笑みかける。ボクのことを待っていたよって、光の笑みを投げかけてくれた。
束の間の、ささやかな悦び。天が与えてくれた恵み。天と地との至上の交わりの時。
ボクは久しぶりに親友に会ったような気分だった。遠ざかった恋人と思いがけない再会を果たしたような、浮かれた気持ちになった。
そんな相手など一度だって持ったことのない自分だけれど、もし持っていたなら、そんな夢のような心地になるのかなと思わせてくれたのだった。
月影は池の面で精いっぱいの愛想を振りまいてくれている。独りぼっちの誕生日を昨日、過ごしたボクへの、これはこの上ないプレゼントではないか!
ボクはこの場を立ち去りがたかった。あと十歩も歩けば、我が家の庭先に辿り着く。スポットライトたちが待ち構えている。
でも、至福の時を失うわけにいかないではないか!
と、その時だった、巨大な光の洪水が怒号と共に背後から迫ってきた。車だ! 池面の月影があっという間もなく溺れ去り、水はねと共に飛散してしまった。水面が壁に叩きつけられたグラスのように粉微塵になった。
こんな裏通りにまで車が闖入してくるなんて。
何もかもを失って落胆した。ボクは淋しい我が家へと向かうしかなかった。
(拙稿「ガラスの月影」より。画像は、「クラゲ 海月 グラス 日本製 サンドブラスト 彫刻 - Yahoo!ショッピング」より)
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