あの日から始まっていた (31 凍てつく宇宙に鳴る音楽)
まるで、自分の中に命があったこと、命が息衝いていることを思い出させてくれるような川のせせらぎ。
そう、何も最初から最後まで通して曲を聴かなければならないというものではない。むしろ、渇いた心と体には、その遭遇した水辺こそが全てなのだ。その水際で戯れ、戯れているうちに気が付いたら水の深みに嵌っていく。
そのように、闇の宇宙の中を流れ行く音の川に出会うのだ。
そう、誰しも、音の宇宙では中途でしか出会えないのだし、束の間の時、音の河を泳ぎ、あるいは音の洪水に流され呑み込まれ、気が付いたら闇の大河からさえも掻き消されていく。
ふと、いつだったか、自分が書いた一文を思い出した。
モーツァルトの曲の与えてくれる至福の音の世界とはまるで違う世界だとは重々分かっているのだけれど、連想してしまったものは仕方がない。
仕事では、どこで夜を迎えるか、分からない。夕刻の淡い暮色がやがて宵闇となり、さらに深まって、真夜中を迎える場所が都会の喧騒を離れる場所だったりすると、耳にツーンと来るような静けさを経験したりする。
が、仕事中は方々を移動するので、時間的な変化と場所の変化とが混じり合って、時の経過につれての夜の様相の変化の印象を掴み取るのは、さすがに少し難しい。
それが、在宅だと、折々、居眠りなどで途切れることがあっても、一定の場所での光と闇との錯綜の度合いをじっくり味わったり観察したりすることができる。 夜をなんとか遣り過して、気が付くと、紺碧の空にやや透明感のある、何かを予感させるような青みが最初は微かに、やがては紛れもなく輝き始めてくる。
理屈の上では、太陽が昇ってくるから、陽光が次第に地上の世界に満ちてくるからに過ぎないのだろうが、でも、天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。
朝の光が、この世界を照らし出す。言葉にすれば、それだけのことなのだろうけれど、そして日々繰り返される当たり前の光景に過ぎないのだろうけれど、でも、今日、この時、自分が眺めているその時にも、朝の光に恵まれるというのは、ああ、自分のことを天の光だけは忘れていなかったのだと、妙に感謝の念に溢れてみたり、当たり前のことが実は決して当たり前の現象なのではなく、有り難きことなのだと、つくづく実感させられる。
(03/06/22 記)
海の底の「地熱で熱せられた水が噴出する大地の亀裂である」熱水噴出孔で最初の生命が生まれたという。命に満ち溢れた海。海への憧れと恐怖なのか畏怖なのか判別できない、捉えどころのない情念。
命という、あるいは生まれるべくして生まれたのかもしれないけれど、でも、生まれるべくしてという環境があるということ自体が自分の乏しい想像力を刺激する。刺激する以上に、圧倒している。
自分が生きてあることなど、無数の生命がこの世にあることを思えば、どれほどのことがあるはずもない。ただ、命があること自体の秘蹟を思うが故に、せめて自分だけは自分を慈しむべきなのだと思う。生まれた以上は、その命の輝きの火を自らの愚かしさで吹き消してはならないのだと思う。 そうでなくなって、遅かれ早かれ、その時はやってくるのだ。
宇宙において有限の存在であるというのは、一体、どういうことなのだろう。
昔、ある哲人が、この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる、と語ったという。宇宙は沈黙しているのだろうか。神の存在がなければ、沈黙の宇宙に生きることに人は堪えられないというのだろうか。
きっと、彼は誤解しているのだと思う。無限大の宇宙と極小の点粒子としての人間と対比して、己の存在の危うさと儚さを実感したのだろう。
が、今となっては、点粒子の存在が極限の構成体ではないと理解されているように、宇宙を意識する人間の存在は、揺れて止まない心の恐れと慄きの故に、極小の存在ではありえない。心は宇宙をも意識するほどに果てしないのだということ、宇宙の巨大さに圧倒されるという事実そのものが、実は、心の奥深さを証左している。
神も仏も要らない。あるのは、この際限のない孤独と背中合わせの宇宙があればいい。自分が愚かしくてちっぽけな存在なのだとしたら、そして実際にそうなのだろうけれど、その胸を締め付けられる孤独感と宇宙は理解不能だという断念と畏怖の念こそが、宇宙の無限を確信させてくれる。
森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
何も残らなくても構わないのかもしれない。 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。
(03/06/22 記)
物心付いて、この世界に目覚める。自分がとにかく、一個の広い世界にあることに気づく。木々と大地と山と空と川と空気と、そして人間だけではない多様な生き物の世界。雨の雫が葉裏を伝う、その雫を通してさえ、豊穣な世界を感じることができる。
しかし、中には、物心付いた時に、心が枯れていることに愕然とする奴もいる。風にも心が騒がないし、大地を裸足で走り回る悦びを感じない奴もいる。理由は親の虐待だったり、仲間からの虐めだったり、あるいは心を醸成する肉体的環境そのものが劣悪だったり、理由は様々なのだろう。
植物の発する強烈な臭いは生命の根源に触れるような思いがする。毛深い犬や猫の体臭に獣を感じ、あるいは母の胸にこそ命の源泉を感じるかもしれない。花の芽吹きや開花に自然というものの神秘と生きる歓びを感じることだってあっていいはず……、なのに何も感じられない奴だっている。
心が閉じている人間に、さて、どうやって世界の広さを告げたらいいのだろう。命の感覚、切れば血の吹き出る漲る生命感をどう伝えたらいいのだろう。
(03/07/07 記)
どうして、こんなことを思ったりしたのだろう。こんな古臭い一文を思い出したのだろう。
卑近な説明を試みると、急に乗り始めた自転車で体が疲れ切ってしまい、体の節々が痛くなっている、僅かな運動にさえ耐えられない自分の体の衰えに情けなく感じてしまったからか。
そして、肉体の遅かれ早かれやってくる限界に沈黙を余儀なくされているからか。それとも、冥王星が惑星の座から降格したという話を聞きかじったから?
体が衰えると、心まで萎えてしまう。
心と体は別個のもの…。そう思いたいのだけれど、やはり、心身は分かち難いものなのだろう。
それでも、我が身に抗ってまでも、宇宙の豊穣を感じ取りたい。その豊かさの一滴をでも我が身に沁み込ませたい。肌の潤いの喪失に恐怖し始めた女性が、何かの栄養乳液を顔に肌に塗り込む…。ちょうどそれを音の世界で試みているようなものか。
闇の宇宙で音の欠片を掻き削ろうとする。ダイヤモンドダストの彷徨い漂う宇宙。音という闇の世界の真珠たちから削られ粉塵となったはぐれモノたちが分散し、あるいは集合する。気が付いたら闇の清流を、そして闇の大河を形成していく。見えるはずもない闇の河。奔流の奏でる音。音でありながら、決して耳に聞こえるわけではない。沈黙の宇宙なのだ。音の伝わる媒質自体がない。
音は、宇宙という空間で、あるかなきかの物質に寄り添う。孤立したモノたちの奏でる孤立した、他に伝わるはずもない悲しみや喜びの響きなのである。
そうした、目にも耳にも肌にも感じ取ることのできない音という玉を誰かが拾い集めている。細い透明な糸で紡ごうとしている。繋げ結びつけようとしている。
仮に糸が短くて結合が叶わないなら、せめて、それぞれの窓のないモノたちを遠目に眺め、あるいは心に思い浮かべて、ちょうど星座を夜という闇の海に読み取るように、それぞれが孤独なモノたちを、音の原石たちを、あるはずもない糸で結びつけて、音の星座を織り成す。
音の雫がおちこちの軒先の庇に一滴また一滴と落ちている。掻き削られたダイヤモンドの欠片たちが闇に自光する。瞬時の輝きを発する。
後は、自分ができることといえば、瞬時の煌きを決して見逃さないことだ。沈黙する宇宙の音楽を聞き逃さないことだ。
(「沈黙の宇宙に鳴る音楽」(2006/08/26)より。冒頭の画像は、「熱水噴出孔 - Wikipedia」より「熱水噴出孔の一種、ブラックスモーカー」)
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