あの日から始まっていた (30 美は醜の滾りより)
← 小林たかゆき作品 (「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」参照。「君はピエロ 僕もピエロ」より)
「美は醜の滾りより」
美は常に一旦、描かれ示されると、その瞬間から古典になる。昇格されるのか棚上げなのか分からないが、人間はどんな美であっても満足ができないのが宿命らしい。
この世は美を嘲笑うかのような醜に満ち満ちている。醜の海に美は島として浮んでいるともいえるのかもしれない(決して大陸ではない!)。
且つ、人間は美に惹かれ美を是としながらも醜に一層、惹かれて行く。醜の海の波は美という島の海岸線を容赦なく波打っている。津波さえ折に触れ襲い来る。
美の島で安閑としていたいと思っていても、気がついたなら足元まで醜の誘惑の手が、波がひたひたと押し寄せている。
それどころか、人は醜の海へと漕ぎ出そうとする。もっと美をなのか、もっと醜をなのかは分からないが、海の果てには一層の快感、一層輝きに満ちた宝物が浮んでいる、埋まっている、漂っている、釣り上げられるのを待っている。
美を一層、心に肉に完璧なものとして、不壊のものとして、感受不能なまでに眩しいものとして感じるには、既成の美では、物足りないのである。醜の波に浚われ、逆巻く波に呑み込まれ、醜という大海の真っ只中にあってさえも、身を醜と悪と病と罪とに晒して、それでもなおその果てにあるやも知れない美を肉の犠牲を対価として払って自らが体得したものでないとならない。他の誰が何と言おうと、自分が認めるわけにはいかない。
よって、美は醜の海でのみ常に見出されるという、歴史が常に繰り返されるわけである。
古典とは美の安置場所のことなのだろうか。美は常にその果てに見出される、永遠のロマンの対象なのだろうか。
きっと、今後も、新たに見出される美は、世の大方の諸賢には顰蹙を買う、醜い、常識を欠いた、喧騒に満ちた、混沌たる世界として現出するのだろう。
(「美と醜と相身互いの深情け」より)
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