あの日から始まっていた (17 夢を憶する)
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「夢を憶する」
(前略)神の慈愛に満ちた眼差しはとりあえず今、生きている存在 者たちに注がれるだけでなく、土や埃や壁や海の水や青い空に浮かぶ雲や、 浜辺の砂やコンクリートやアスファルトやプラスチックやタール等々に、均しく注がれているはずなのである。
神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理 由など、全くないのだ。あるとしたら人間の勝手な思い込みで、自分たちが特権を享受している、神の特別な関心が魂の底まで達しているに違いないのだと決め付けているに過ぎないのだ。
この私である彼は、空中を浮遊する塵や埃と同一の価値をもつ。価値とは 神からの恵みだ。その恵みは地上だろうが、あるいは宇宙空間だろうが、全く等距離の彼方にある。それとも、全く、等距離のすぐそこにある。
宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しな のである。神の目からは、この私も彼も、この身体を構成する数十兆の細胞 群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、 排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱く、あるいは冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いないのだ。
この私とは塵や埃と同然の存在。それは卑下すべきことなのか。
そうではないのだ。むしろ、この地上の一切、それどころか宇宙にあるところの全て、あるいは想像の雲の上を漂う想念の丸ごとが、神の恵みなのであり、無であると同時に全であることを意味しているのだ。
私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。 この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。そう、そうした一切さえもが神の眼差しの向こうに鮮烈に蠢いている。
蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、 分け隔ての無い神には美しいのだろう。
私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリ ストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
そう、私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するための相転移というささやかなエピソードに過ぎないのだ。
(以上、拙稿「夢を憶する」(03/02/09)より抜粋)
[二階堂 奥歯 著『八本脚の蝶』(河出文庫)読了を祈念して。「縦書き文庫 - 青と緑」 (ヴァージニア・ウルフ)を読むもよし。]
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