あの日から始まっていた (13 夢は嘘をつかない)
「夢は嘘をつかない」
何十年にも渡る不毛な闘い。水面下の足掻き。目覚めた瞬間からの覚醒を求めてのスローな、ギザギザの連続モーション。今朝も眠りのない夜が明けた。夜とは眠りを焦がれるシジフォスの咆哮。吠える声が爛れきった悲鳴だとは誰一人気付きはしない。おのれでさえ分かって来なかったのだもの、誰に分かるはずがあろう。愚か者よ それはお前のことだ。何年も何十年もこんなにあからさまな侮蔑を見過ごせたなんて、愚かどころか、無様だ、滑稽だ、哭きたいほどバカバカしい茶番劇だ。
鼻で息が出来なくなった……口でしか息が出来ない。あの日からの厳粛な、歴然たる現実。そのことの意味することに気付くのに何年もかかるなんてありえない。が、ありえたのだ。深刻さに対し誰よりも遠く離れていた。もっとほかに苦しむべき日々の事態に翻弄されていたから。明白で誰もが、そう愚か者の自分でさえそうだよな、悩むのは当然だよな、いやむしろそっちの方こそ石の心を、凝り固まって化石か木乃伊にしか見出だせないような心の成れの果てを産み出してしまうと思うのは自然……。
当たり前のはずの呼吸が、誰にも気付かれざる演技、不毛なパントマイム、存在の無という果実、無風こそが透明な勲章となって何年も経たないうちに、症状は牢固たるものとなって現れた。中学生になったその夏には、精根尽き果てていた。鉛の体。熱を発しないブラックボックス。家に誰もいないのを見計らって家の奥へ。座敷にぶっ倒れた。ひんやりする畳の感触。夏の暑さをほんの僅か癒してくれる畳の上でゴロゴロ転がってみた。
目覚めるとは……朝起きるとは奪われた夜を取り戻すための闘いの一日の始まりに過ぎない。ヘロヘロの体をなんでもないふりをして起こすこと、そこから一日が始まる。あの日から、十歳の時に受けた手術の翌朝から不毛な処刑の日々が始まっていた。当人さえ知らぬまの無期懲役刑。愚か者は体の芯底からの悲鳴の真相を聞き分けることはできないだろう。気が付くのに何十年も無駄な時を費やすだろう。お前は体の強張りをガチガチに凝り固まった肉体を、全身が骨かでなければコンクリートになった体を何か悪性の病に違いないと思い込んでいた。
例によって一人悶々とするばかりだった。お前には心を分かち合う相手はこの世にいないだろう。心を解き放つとか許すとかそんな発想など思いもよらない。心とは鉛の海の底の、声など決して届かぬ祈り。物心付いた時には既にお前の心は生きることに怯えきっていて、鏡の中の自分が敗北者だと決めつけていた。生きる前に撤退してしまった。早すぎる、浅はか過ぎる決めつけ、思い込み。
畳の上での悪足掻き。ゴリゴリな体。腕をほんの少し動かすだけで、骨と骨が、コンクリートの肉同士が擦れあって、干からびた血と肉の成れの果てに他ならぬ飛沫が体の中で舞うのだった。
お前が浅はかなのは分かるが、それにしても何故そこまで卑屈で臆病なんだ? お前の悲鳴はいつも無音。誰にも届かない。水面下の足掻き。滑らかな、鏡のように冷淡で冷酷な湖面の中でどれだけ叫んだって、誰に聞こえるものか! そうか、助けを求めるとか相談するなんて知恵はなかったのか。それじゃ仕方ないな。一人寂しく勝手に海に沈むがいい。誰にもめいわくをかけるわけじゃないしな。
お前が生まれて数年もしないうちに祖父がそして祖母が相次いで亡くなったのはお前のせいなんかじゃない。ガキの頃の夢に現れる、繰り返しの場面。四歳か五歳の頃の夢というと、あの修羅場ばかり。しかもお前は現場を観たわけじゃない、その場に居なかったはずだ。祖母がこんな片輪の醜い子を産んだのはお前のせいだとお袋を責め立てていた。爺さんは世間に面目なくて萎れて死んじまったじゃないか、全部お前のせいだろが。
違う。そんな場面は嘘だ、嘘っぱちだ、物心付いてからのお前の思い込みだ。でも、夢の中で繰り返し繰り返し祖母がお袋を難詰した。自分の思い込み、作り話に過ぎない……はずなのだ。
ああ、夢は嘘は吐かないのか、創作なんてしないのか。だったらあれはなんだ。大人になったお前に、お袋は何度も何度も涙ながらに謝ったじゃないか。しかも臆病なお袋は、糖尿病体質に産んで御免よ、なんて話を韜晦して、やがて泣きじゃくって……。ところがお前ときたら、バカだから、糖尿病なのは自分の不摂生でお袋のせいなんかじゃないと、検討違いも甚だしい受けとめをしていた。お前はバカだ、とんでもない愚か者だ。
だけど、もっと愚かしいのはそんなことなんかじゃない。お袋が泣いてお前のような子を産んで御免よ、なんて、まるで我が子のことを出来損ないって、かあさんが認めたことになるよ! 歯をくいしばっても、そんなことは母たる者が云っちゃいけないよ。ああ、違う、肝心なのはそこじゃない。お袋がお前に詫びざるを得なくしたのは、お前のせいなのだ。お前が生き甲斐のある、せめて伴侶のいる、ちゃんとした人生を送れていないからじゃないか。
[関連拙稿:「ジェネシス 7 先生」]
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