あの日から始まっていた (9 火車の頃)
ガキの頃、あるいは物心付いたかどうかの頃、地獄絵図の夢をよく見たものだった。立山曼荼羅に描かれる世界が、私の夢の中では現実だった。
幾度となく炎熱地獄、無間地獄の世界を逃げ惑った。目が醒めて、ああ、夢だったのかと安堵の胸を撫で下ろすのだったけど、目覚めというのは、眠りの間の束の間の猶予に過ぎず、夜ともなると、また、元の木阿弥へと突き落とされていく。
その地獄では、同じ場面が繰り返された。ある男(自分?)の脛(すね)の肉が殺ぎ落とされる。
血が噴出す。肉片が何処かへ行ってしまう。男は、取り戻そうと駆け出すのだが、炎熱に阻まれて追うことは侭ならない。
が、気が付くと、男の眼前に肉片が転がっているので、男は慌てて肉片を拾い、脛にあてがって元の状態に戻す…のだが、またまた誰かの手により(それとも鋭い刃によって)殺がれてしまい、血が噴出し、男は肉片を追おうとする…。そんな繰り返しだった。
そんな夢に毎晩のように魘されて、小学校に上がる頃には精神的にヘトヘトになっていた。精も根も尽き果てていた。目が醒めている日常の世界では、無気力しか残っていなかった。何もやる気のないガキに成り果てていた。
それでも、それなりの経緯があって、哲学などを志すようになったのだが、肉体へのこだわりは強いものがあったわけである。人前では、そんな偏ったこだわりを語る気にはなれなかったが、読書ということなら、世間体としては、穏便に済まされる。
医学というより肉体に関わる本を読むことで、何かを癒そうとしたのか、それとも、ただただ好奇心を満たしたかっただけなのか。
そうした関心も前述したように80年前後には弱まる。
大学を出てもフリーター的生活をしていたのが、曲がりなりにもサラリーマン生活を送ろうと決めたのだ。人間的に成長した? というより、哲学する厳しさに耐えられなくなった、孤独に恐怖した、狂気に陥りそうで、精神的戦場から逃亡したのだ。
日々、朝、出勤し、忙しく働き、日曜も出勤し、夜は飲み会、サラリーマンの定番でゴルフを覚え、たまにある休みにはオートバイでツーリングに出かけ、誘われるがままにテニスをしたりスキーしに行ったり。極めて平穏無事な、その意味で人間的な生活を十年近く送ったのである。そうした生活で問題が解消されると思ったのかどうか。
それが、あれこれあって再び、以前より厳しい探求の日々に戻るとは、因果なものだ。
学生時代の肉体へのこだわりを今になって振り返ると、それはある意味、自分の孤独を癒すというより、糊塗するための方便でもあったように感じる。少なくともそんな一面がなかったとは思えない。
人並みに友人関係や恋人との付き合いで寂しさを紛らす能もなく、どうしようもない孤独感を覚える時、酒に溺れたり、薬に頼ったり、暴力などの手段に訴えたり、とにもかくにも今、当人を襲っている凄まじい嵐に耐えるため、あるいは目を逸らすため、あらゆる手を使う。手段など選ばない。
しかし、誰でもがそういう方向に走るわけではない。
時に内向きな性向を持つものは、自傷行為に走ったりもする。リストカットとか極端な場合は自殺とかに突っ走る。
私の肉体へのこだわりも、最後の最後の確実なものは、人でもなく心でもなく肌であり肉体であったに過ぎなかったのだろう。
少しでも自分の気持ちを開く術を持っていたら、恋人とかと寂しさを分かち持つ時を持てたのかもしれないが、そんな夢のような世界など無縁だった。指を銜えて眺めるだけのはるかに遠い世界だった。心を開いての語らいなど、ありえない話だった。
では、心より自分の肉体が確かだと思っていたのか。
まさか! である。肉体ほど訳の分からないモノがあるだろうか。自分って何? この身体? でも、周りの誰にも相手にされない肉体って悲しいだけじゃない? どれほど自傷しても、誰も振り返らない肉体など存在する価値がある? ただ一人の女にも関心を持たれない男にプライドを保つどんな道がある?
なのに心が傷む。胸が張り裂けそうになる。気が狂いそうなほどに孤独の刃が自分を苛む。
流れる血が乾ききるほどに、世界が蒼白になるほどに、眩暈がして意識を失ってしまいそうなほどに、吐き気がするほどに、でも吐くものなど何もないのに嘔吐感だけが我が物顔になるだけなのに、それだけの肉体に過ぎないのに、肉体が確実なわけがないのだ。
それでも自分とはこの腕、この顔、この足、この胸の傷なのだ。他に自分が自分でありえる、自分が自分としてこの世にあるという証拠など、他に何もない。
徹底して肉体を追う。肉体の極限を彷徨う。過去の肉体の可能性をさぐる。そうして病の歴史に関する読書に至るわけだし、拷問の歴史に関心を持つわけだし、脳味噌を沸騰させてでも精神の突端としての肉体を知的な形で苛み続けようとするのだ。
世界の中で自分の肉体が見出せない。鏡に映せば、確かに肉体がある。見慣れた顔も映っている。
だけど、町中を歩けば、それは吹きすぎる風より呆気ない存在。誰にも相手にされない存在。風でさえ、誰彼の髪を時には嬲り、あるいは瞬きだってさせることがあるというのに、自分は相手の瞳に瞬時たりとも映らない。自分って何。風以下の存在?
自分を出せない人間。胸が傷むのに、痛い! という悲鳴さえ人前では上げられない人間。そんな奴は結果的には自分がない人間を意味する。現実の日常の中で影の薄い存在ということは、夢想の中でだけ過剰に妄念が膨らんでいるだけの存在ということは、つまりは、この世に存在しているとは到底、言えない存在に過ぎない。存在の欠如に過ぎないのだ。
にもかかわらず確かなものがある。それは胸の痛み。張り裂けそうな思い。空漠たる世界。蒼白なる眺め。狂気が友の真っ赤な心の焔。
若い頃の偏屈で一途な倫理感というものは、一切の妥協を許さないものがある。
思いが巡り始めると、際限がない。ローリングストーンとなってしまう。黴さえも生えないほどに心が乾ききってしまう。触れるものとは、摩擦熱を生じるだけ。だから周りが遠ざかる。遠ざかると、尚更、転げ落ちる勢いが増し、すると、周囲との軋轢の熱が一層高まる、そんな悪循環に陥ってしまうのである。
そこから抜け出す方法などあるのだろうか。自分の場合はどうだったろう。
ガキの頃、悪夢の日々に疲れ果てたように、つまりは精も根も尽き果てて、魂の抜け殻になるしかなかったのだろうか。老いを待つとは、癒しの日々を待つということなのか。おかしい。何かが間違っている。
現実の世界で生きるには、そんな状態のままでいることは許されない。短からぬサラリーマン生活の果てに、結局は、自分なりに現実との接触の方法を探るしかなくなってしまうのだった。
が、それはまた、別の話となるわけである。
(「火車の頃」(2011/03/10)より)
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