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2021/08/17

あの日から始まっていた(2 頬杖)

Kwawa  頬杖ついているあの子は、何を想っているんだろう。神通川の土手に腰掛けて、じっと川のほうを眺めている。
 声をかけてみたいような。
 でも、そんなことができるわけもない。
 私は、子供には、いや誰にもただの小父さん。それも変な小父さんに過ぎないのだ。
 あと、ほんの数年もすれば太鼓腹になりそうなお腹を見ると、いや自分の顔を想うと遠くで、できるだけ遠くで見つめているしかない。

 あの子の視線の先を追ってみる。川面? そうかもしれない。川の向こう岸の釣り舟が珍しくて、関心が奪われているだけなのかもしれない。

 

 ぼーんやり、川を眺めている。ボンヤリ…なんて自分にはありえないことだ!

 

 遠い昔、私がガキだった頃、授業中いつも窓の外の銀杏並木を眺めていたことを思い出す。
 真っ青な空を背景に、銀杏の葉っぱが陽光を粉々に打ち砕いて、校庭の長い並木にビーズの飾りをプレゼントしていた。
 やがて脳裏に軽い眩暈のような不思議な感覚が漂い始める。
 教室の外には世界がある。私たちの狭苦しい空間が奴隷船なら、船の外は当然、海だ。それも光の海。青い大海原と太陽が一杯の海。

 

 授業中は蓄膿症の私は、いつも鼻が詰まっていた。
 でも、気が小さいから授業中にはとても鼻をチンすることなどできない。詰まるに任せるしかなかったのだ。先生のお話など、意識が遠くなっている私の耳に届くわけ、ない。

 

 不意に先生に指されても、私は鼻水が垂れるのが心配で、もし垂れたらみんなに笑われるなと思うのがやっと。それでいて、みんなに注目されることの恥ずかしさで一杯で、ニヤニヤ笑っているだけだった。一言でも口にしようものなら、鼻水も一緒だ。酸欠で体に熱が篭っているようでもあった。顔が紅潮しているのが自分でも分かる。

 

 だから、綽名はヘラ太郎だった。いつも、エヘラエヘラと笑っているようだったから。
 …私は、居たたまれなくてならないだけだったのだ。

 

 授業が終わると、一目散に教室を出る。行き先は誰もいない場所。私だけの秘密の場所。そこに隠れて鼻をチンする。やっと頭に空気が巡る。一人きりになって、口を開けて息をする。思いっきりハーハーと息をするんだ。
 学校が終われば校庭へ飛び出すのだけれど、そういうわけにもいかない。まだまだ授業は続く。私の責め苦の時は蜿蜒と続くのだった。

 

 あれからもう何十年と経った。今では、私はあの苦しい日々をどうやってやり過ごしたのか分からないほどになっている。
 誰もが子供の頃に帰りたいなどという。あの頃は無邪気で、目一杯遊べたし、我が侭もできたし、と。

 

 そうなのか。他の人の子供の頃って、そうだったのか。
 私には周りの何も見えていなかったのだ。苦しいだけの日々。

 

 だからこそ、窓の外の銀杏並木が目に眩しかったのかもしれない。私の心が粉々の光となって、青い空と白い雲だけの世界で存分に泳ぎ回ることができるのだろうから。私と世界が一つになり、波間にプカプカ浮かび漂っていられるのだろうから。

 

 今、私はこの年になって、やっと世界に溶け込んでいる。
 何故なら、私はいつも一人っきりだからだ。部屋の中も一人。外を歩いても一人。鼻水もようやく止まったし。
 私は一人、川辺を歩く。
 変な小父さんが一人、ふらふら歩いていく。
 漫然と、風に吹かれて。あれが私の姿なのか。
 私は今、自由を満喫している…はずだ。

 

                   [参考:「頬杖」]

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