あの日から始まっていた(3 バケツ)
暗闇の何処かから声が聞こえる。声の主は目の前にいる。きっと先生だ。眼鏡の奥の目線が冷たい。「10から1まで逆に言いなさい」とか何とか。他の生徒らは順番にハキハキと答える。中にはつっかえながらも、何とか答えている。やがてボクにも番がやってくる。ボクにできるだろうか。隣の女の子は、なんて綺麗な声なんだろう。「じゅう きゅう はち なな……さん にぃ いち。」ついにボクだ。みんなの目線がボクに集まる。何十もの目玉がボクの顔にへばり付く。視線というハリネズミの針がボクの顔を心を突き刺す。椅子を引いて立ち上がるボク。「じゅう…きゅう……はち……」そこで止まってしまう。「なな」が言えない。
ボクには「なな」は、「なだ」だったり、「だな」だったり、「だだ」だったりする。「なな」だけは発音できない。いや、自分では「なな」と言っているつもりだけど、人にはそうは聞こえないらしい。「花」と言ったつもりが「はだ」とか「鼻」とか、「あだ」とか。体が段々火照ってくる。頭の中が沸騰しそうだ。世界が真っ赤だ。世界はボクには真っ赤な闇なんだ。「なな」さえ超えたら、次の「ろく」はボクにも言える。「ご」だって、「よん」だって……。あ、ダメだ。「よん」は言えない。「よふ」がせいぜいだ。鼻の穴からは「ん」を発音するための空気が抜けていかない。だから、「ふ」で誤魔化す。「よふ」なんて言ったら、みんな笑うだろうな。先生だって、笑いをかみ殺してたもんな。世界が血の涙の色に染まる。
そもそも何もしなくなって授業中のボクは酸欠なのだ。鼻呼吸ができない、かといって、口をポカッと開けて、はーはーするのも格好悪い。口を薄く開けて、口呼吸しているとは誰にも気付かれないようにスーと薄く吐き、スーと薄く吸う。授業が始まって最初の数分はなんとかなるけど、段々息が苦しくなる。何故だかそんな時に限って鼻水が溢れそうになる。ズズッと鼻水を吸い込みたいけど、できるはずもない。鼻を噛む勇気もない。授業中にチリ紙を出してチーンと噛むなんて夢のまた夢の話だ。鼻水が少し、鼻の穴かから喉へ零れ垂れてくる。口蓋に穴が空いているのだ。ああ、八方塞がり。
未だに「ナナ」で止まっている。「ナナ」が言えない。「ダダ」で済ませないのか。さっさと「ロク」に移ってしまえば、どうってことないかもしれない。でも、ボクは意識過剰になってる。何秒間かそれとも数分もここで止まっている。
ついに先生の救いの手が差し伸べられた。「後ろに立ってなさい。いつものようにバケツに水を入れてね」
教室の後ろへ。その前に、掃除用具の箱からバケツを取り出して、水を汲みに行く。シーンと静まり返った廊下を一人、トイレへ向かう。辺りには誰もいない。鼻をチーンする。一瞬、息が通ったような気がする。それより、息だ。窒息しそうな破裂しそうな胸を助けるんだ。燃え上がるようだった頬が顔が少しずつ冷めてくる。
バケツにいっぱい水が溜まった。重いバケツを手に教室へ戻る。授業は続いている。教室へ入るボクを先生も生徒らも誰も気にしない。毎度のことなのだ。バケツを手に、ボクは息している。教室の後ろだったら、机でより大きく口を開けられる。スーじゃなく、フ―フ―と息を吸える、吐ける。なんとか授業中を生き延びられるに違いない。そう生き延びられたから今の私が居るのだ。
[「ボクの世界は真っ赤な闇」を改稿]
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