コウモリの夏
小生の生まれ育った家は(但し病院で産声を上げたらしい)記憶に残る印象では、見渡す限りの田圃の中の寒村の一軒だった。
実際には村ではなく既に町となっていたし、近くにはそれなりの商店も並んでいた。ただ、表通りから一歩とは言わないが数十歩も歩くと水田(田圃)や畑が広がっていて、町とはいいながら、敷地だけは小さからぬ家々が寄り集まっていた。
(中 略)
まだいろんな生き物たちが我が家の庭や畑にもやってきてくれた頃、あるいは今、思えばその最後の頃だっただろうか、小生はコウモリと遭遇した。
コウモリなんて、かつては夕暮れ時になれば珍しくもなんともない。
それでも敢えて遭遇と書くのは、夕方だったか、鉢合わせしてしまったからなのである。
小生は受験を控え屋根裏部屋を居住…勉強部屋として宛がわれていた。
その前は姉がやはり受験を前に居住していた部屋だった。
夕食を終えてだったか、それとも遊びつかれて帰宅して食事の前だったか、台所の奥の急な階段をギシギシ言わせながら屋根裏部屋に上がっていった。
普通なら、階段の上り口のところに階段の明かりを灯す紐状のスイッチがある。
紐を引っぱると白熱灯が橙色の柔らかな光を階段の空間に満たす。
確か、灯りは灯して階段を上がったはずである。
階段を登りきった半畳ほどの踊り場に、引き戸というか板戸がある。
これも開ける際にはガラガラと音がする。
多分、はっきりはしないが、何か部屋に取りに来たのだろうと思う。
すぐに部屋を出る。だから、部屋の明かりは点けなかった?
ただ、月明かりが部屋の中に流れ込んでいた。
屋根裏部屋だけあって、天井が低いし傾斜している。しかも、真ん中に太い梁(はり)が走っている。
暗いと、事情が知らないものだと頭をしたたかぶつける可能性がある。
部屋の住人(小生自身!)でさえ、何度か痛い目に遭っている。
なのに、部屋の照明を灯さなかったのだから、やはり部屋の引き戸を開けた途端、見事な月明かりが目に入ったのだろう。
その気になればスイッチは入口にあったのだし。
小生は、屋根裏部屋の窓際に向った。
そこにはベッドが置かれている。
木製の(多分、知り合いに特注した頑丈な)ベッドが横たわっている。その上に寝転がって月明かりを眺めようとしたのだろうと思われる。
感傷に耽ろうとでもしたのだろうか。苦しい恋の真っ最中だったし。
ベッドの上の天井は低い天井である屋根裏部屋の中でも一際低い。
寝ていた者がうっかり起き上がると、天井に頭をぶつける恐れがある…というより頭を何度かぶつけた。
それでも、暗いままに部屋の中に入っていった。
部屋の中に人の気配も何もない。
いや、あったら、かえって怖い!
背中を丸め、首筋を引っこめるようにして、足元に気をつけつつ(ノートや教科書や漫画や何やらなどが乱雑に散らばっている)、ベッドのほうへ向った。
と、突然、バタバタという物音。
月明かりが漏れ込むとはいえ、階下の茶の間の明かりや階段での白熱灯の灯りに馴れた目には真っ暗闇に近い。
音の正体は何?
しかも、それは窓から飛び込んできたようでもある。
そう、窓は日中の熱気を逃がすためもあって(小生の怠惰のせいもあって)、一日中、半開きにしてある。
屋根裏部屋なのだ。ちょっと上には瓦屋根である。実質、密室で空気の逃げ場はない。
エアコンなんて我が家には縁のない昭和四十年代の半ばのこと。
扇風機が床に置いてあったが、さすがに日中から回しっ放しというわけにいかない。
とにかく、部屋の中は蒸し風呂状態だったのである。
だから、窓は幅にしたら二十センチほどだったが、余程の強風の雨でもない限り、つねに開け放っていたのである。
その半開きの窓から何かが飛来し小生の耳元を掠めていった。
しかも、部屋の中を飛び回っている。
部屋の奥に届く僅かな月明かりに次第に眼が慣れてくる。
薄闇の中に黒い影。
ネズミに似た形の何か。
コウモリ!
そうか、超音波で周囲を探りつつ飛ぶコウモリは、半開きの窓がたまたま障害がないように勘違いして飛び込んできてしまったのだ。
小生は、その時、灯りを灯したか。
記憶では暗いままにしていた。
明かりを付ける勇気がなかったのか。
コウモリの姿をまともに見る気にはなれなかったのか。
部屋が明るくなれば、コウモリと<視力>の点では対等になる。
でも、小生は暗いままにしていた。
あるいは恐怖というのではないが、突然のことで気が動転していて、明るくしたら、相手方に有利になるとでも思ってしまったのか。
小生はしばらく部屋の中で立ちつくていた。
動いたら相手に察知されると思った?
小生の思考回路など筋道だっているはずもない。
理屈どおりに動いたためしがないし、理屈を筋道立てる能もない。
小生はただ、じっとしていた。じっとしている間にコウモリが部屋から立ち去ってくれることを祈った。
でも、コウモリは一瞬、部屋の何処かに身を潜めた(単に止まった?)かと思うと、また狂ったように飛び回るだけ。
部屋の窓は開いているって、指差ししても無駄だろうとは小生にも分かる。
小生はただ突っ立っていた。
コウモリも飛び疲れたのか、やがて薄暗い部屋の何処かで息を潜めるようになった。
コウモリの息遣いなど聞こえるはずも感知できるはずもないのに、小生は耳を済ませた。
いや、コウモリが小生の高鳴る胸の鼓動を鋭く感じ取っているのだろう、こちらの意図を見定めようとしている、そんな風に感じられていて、小生は一層、息を潜めた。
可能なら息を止めることだってやぶさかではない。
二人の睨み合い(?)がどれほどの時間、続いたろう。
先に緊張に絶えられなくなったのは小生のほうだった。
居たたまれなくなった。
やがて、足音を出さぬよう(そんなことをしても無意味なのだが)抜き差し差し足で部屋を出て、階段を明かりも点けずに降りていった。
その日の夜、団欒のひと時を茶の間で過ごしてから、他に居場所のない小生は屋根裏部屋に引っ込んだ。
コウモリがまだいるかもしれない。
別にコウモリなんて怖くないんだ。
ただ、闇の中でいきなり遭遇したから、ちょっと戸惑っただけなのだ。
自分にそう言い聞かせて階段を登っていったのだった。
恐る恐る屋根裏部屋のドアを引く。今度はとにかくさっさと灯りを灯す。
何の気配もない。
よかった。願いが通じたのだろう、半開きの窓からコウモリの奴が立ち去ってくれたのだ。
たったそれだけのことだった。
エピソードにもならない。
やがて夏が終り秋となった。
コウモリとの接近遭遇も過ぎ去った小さな騒動の思い出に成り代わっていた。
そんな秋の或る日、小生はもう使われなくなり、モノ入れと化し、屋根裏部屋に片付けられていた古い机の引き出しを何気なく開けた。
すると引き出しに何か小さな黒い物体が。
コウモリだった。ミイラと化したコウモリだった。
「屋根裏部屋」に関連する記事:「屋根裏部屋の秘密 」「屋根裏部屋のベッド」
(2007年頃作成)
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