迷い道
宵闇の迫ろうという頃、いつものように散歩に出た。
途中、いつものように、あるじを失って、藪同然となっている、ある屋敷の庭に足を踏み入れた。
だけど、今日は何かが違っていた。私は屋敷林から出られなくなったのだ。
見上げても、翳りゆく逢魔が時の背が見えるだけ。
私は町中の小さな林で迷ってしまったのか。まさか。
私は、何とか抜け出そうと、叫んでみた。
私らしく、心の中で。
誰か、助けてくれ。ああ、みんな、私のことは放っておいてくれ、と。
私はここにいる。ほんのしばしの間だけかもしれないが、ここにいて、何かを待 っている。何を待っているのか、自分でも分からない。もしかしたら何も待ってい ないし、求めてもいないのかもしれない。それどろか、己の消え去る日を待ってい るのでは、とも、思ったりする。
私には何も分からない。
私は、この世界にいて、迷子になってしまったんだ。
私は、無限の相貌を示す世界の中で、何一つ、形を見極めることができない。私には何も見えない。
名前を失った世界。世界には花が咲いているんだろうけれど、雑草ほどにも私の心を癒してくれない。逆に、私のほうこそ、花々を癒し慈しんでやろうと思ったりする。けれど、うるさそうに花も草も人々も風に吹かれているだけ。そのほうがよっぽど豊かな感覚に恵まれるのだから、と。
私は私の内側を見る。私の世界は、絶えず私へと帰っていく檻のようだ。私を絶 えず萎縮させていく鏡の球体だ。どんなに想像の翼を羽ばたかせても、その翼の持 ち主は鏡に映る己の在り様に絶望して、球体の内側の焦点へと落下していく。
世界は無数の焦点に満ちている。世界の中の、やはり私同様、あるいは私以上に閉鎖された時空間を生きる無際限の焦点たちがいる。
私が、昨日、それとも遠い昔に投げかけた言葉、贈った言葉、包みたい一心で放った眼差しが、鏡の林立する世界で乱反射して、私に帰ってくる。世界の中の無数 の人々の手垢と、ぬくもりと、嘲りとを伴って。
私とは、一個の乱反射なんだ。自分が気付かなくても、他人の眼差しと往復を繰 り返す言葉の海に漂う木の葉なのだ。
私の小さな心。それは湖面をほんの微かに揺るがす笹舟。
けれど、その笹の舟の立てる細波は、どこまでも及びつづける。私が闇の世界の中で、誰にも気付かれることなく吸っては、吐いてみた息さえも、決して消え去ることはない。息の波が巡り巡って、人の心を、世界そのものを豊かにする。
私とは、世界の恵み、世界への恵みなのだ。
そう思って何が悪い?
悪夢のような事態に、私はパニック状態だった。だから、そんな世迷言を呟いていたのに違いない。
と、その瞬間、足元に地元を縄張りにしている黒猫の姿が見えた。彼は、私になど頓着せず、静かに歩き去っていくのだった。私は彼の後を追った。
間もなく私は迷った理由が分かった。またもや空き家となった旧家の庭に迷い込んでいたのだ。
今や屋敷どころか陋屋と化している家の玄関にまだ表札があった。掠れて見えづらいが、名前が読める。
ああ、あのお婆ちゃんも居なくなってしまったのか…。
(文中に掲げた素敵な写真は、田川未明さんのOfficialBlogである、「トルニタリナイコト@MimeiTagawa」の中の「ざわめき。」 より、田川さんの了解の上、拝借したものです。本文は、拙稿「小さな心、大きな心」から、一部を改変し転記したものです。)
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