雨の雫に濡れたい
雨の雫を眺めながら一日を過ごしたいと思った。
遠い昔、日がな一日、海を眺めて過ごしたように。
もうずっと長い間、何もしないでボンヤリ過ごしたことなどなかったように思う。
予定のない休みの日は、折々あった。でも、大概はテレビを観るともなく観、折り込み広告を買うつもりもないのに物色したり、ネットサーフィンに興じたり、随分長く放置したままのCDを手にしてみたり、掃除の真似事をしたり、不意にそういえばあんなこともしなけりゃならなかったと今さらながらに気付いて慌ててみたり、そうしているうちに肝心の用が何も果たせぬうちに一日が、何気なく過ぎ去っていく。
もう、何もしないでいるなんて、出来なくなっているのかもしれない。
ほんのひと時、庭の片隅の雑草をぼんやり眺め入って、ああ、こんなのんびり無為な時を過ごしたことなんて、久しぶりだなーと思いつつ、電話なんて架かってきて、もっと取り留めのないお喋りに興じてしまう。
何の約束も予定もない、何もしない、ホントに無為な時を終日送ってみる。
できそうで、できない。この何十年、出来たためしがない。何かしないと落ち着かない。音か映像か悩み事か世迷言にくよくよしていないと、間が持たない。
御寺で修行するお坊さんは、凄いと思う。案外と、お寺での修行だって、日課って奴が分刻みであって、座禅を組んで瞑想に耽る時間なんて、そんなに長くはないのかもしれないが。
そもそも、瞑想中は無念無想なのだろうか。何か雑念が脳裏を駆け巡ったりしてるんじゃないのか。
誰か異性のこととか、早く食事をしたいとか、早く修行の年季を終えて実家のお寺を継いで、悠々自適で過ごしたい…なんて考えたりしないのだろうか、なんて、野暮なことを考えてしまうのは、自分が雑念だらけの俗な人間だからなのか。
何も思わないとか、無念無想なんて無理難題は求めない。頭の中をどんな妄想が駆け巡ったって構わないのだ。ただ、遠い日に本の一冊だって手にしないで、浜辺の岩場に腰掛けて、沖合の舟やら青い空に浮かび漂っていく白い雲を眺めて過ごしたように、せめて、家の茶の間の出窓に腰掛けて、雨の庭の様子を眺めつつ、朝から晩まで過ごしてみたいのだ。
庭の隅の雑草が雨粒に打たれて、気持ち良さそう。それとも、想像以上に植物は雨に降られるのを辛く感じているのだろうか。身を避けるすべもなく、雑草にしたら、でっかいだろう雨粒の叱咤に打ちひしがれる思いを味わっているのかもしれない。
打たれる痛み……それとも……傷み。
不意に、とっくに忘れてしまった傷みの感覚を思い出してしまった。
そうだった、あの日、海辺でひたすらに海の光景に見入っていたのは、恋の悩みに居たたまれなかったからだった!
どうしようもないし、何処に居ても辛かったし、居たたまれなくて朝早くに家を出て、浜辺まで自転車を駆って、そうして、人影の疎らな浜辺に立ったのだった。
ついほんの数日前に二人で来た浜辺。二人で歩いた足跡だって、残っているかもしれないほどに、熱気の残る海辺。
あの日、海を眺めていたんじゃない。浜の潮風に胸の傷みの癒えるのを願っていたのかもしれない。海をじっと眺めようなんて、邪念などなかった。そんな余裕なんてなかったんだ!
今、雨の雫を眺めながら、日がな一日過ごしたいなんて、ただの気まぐれ、ただの息抜き、平穏すぎる日常からのただの現実逃避に過ぎない。贅沢なのかもしれない。
ああ、でも、胸が苦しい。
それは傷みではなく、痛み。そう痛いのだ。胸を病んでしまっている。胸が、息が苦しい。庭の雑草の雫が愛おしい。どんなに痛くてもいい、雨滴に癒されたい。
雨の雫を眺めてひねもす過ごしたいなんて、贅沢の極みだなんて、そんな言い草は悪い冗談。
そう、今、雨の雫を眺めてひねもす過ごしたいなんて、ベッドから起き上がることもできない体だからこその、切なる願いなのだ。外に出て、この身が雨に濡れる感覚をもう一度、味わいたいのだ。
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