赤い風船
夢であって欲しいと思った。
何処まで走っても似たような部屋があるばかりだった。
仰々しいような扉をやっとの思いで開けてみても、そこにあるのは能面のよう な部屋。
幾つ扉やドアを開け、どれほどピカピカに磨きたてられた廊下を走ったことだ ろう。ようやく、今までとは毛色の違う空間に飛び込んだ。
しかし、人っ子一人いるわけもなく、古びて饐え切った板壁のだだっ広い空間 があるだけだった。
そこは何かの教室なのか、それもと会議場、あるいはデモンストレーションで も行うかのような段々の伽藍。
ほとんど四方を取り囲む壁にはガラス窓があり、そこからたっぷりの真昼の光 が洩れ込んでいる。
外は青空らしい。なのに、何故か暗いのだ。
天井が高すぎるせい?
教壇は段々の伽藍堂の遥か底面にあった。教壇の前の手術台のような台の上に 何かが横たわっている。
俺の体! という直感が脳裏を掠めた。
俺はここにいるじゃないか。そんなはずがない!
でも、誰にも見てもらえない俺の姿が、何の意味を持つはずもなかった。遥か 底の台の上に俺がいると、皆が思えば、あれは俺の体なのだ。
気がついたら、会場は学生たちでギッシリ埋まっている。教壇の上では教授が 厳めしい顔をして俺の体を見下ろしている。
一体、何が始まるのだ。
そもそも、俺がここにいることをどうして分かってもらえないのか。
俺は叫んだ。
叫んだつもりだった。でも声はまるで届かない。
学生どものざわめきに掻き消されたというわけではない。会場は不気味なほど に静まり返っているのだ。先生だって黙りこくっている。静かさが耳に痛いほど だ。
こんなことなら、もっともっと走りつづければよかった。似たり寄ったりでも いいから、無数の教室や病室を駆け抜けておればよかった。
病室?!
そうか、俺は病院にいるのか。
このとき、やっと俺は自分が病院を訪ねたことを思い出した。
そうだ、俺は見舞いに来たのだ!
でも、肝腎の奴等の部屋が分からないのだ。奴等は一体、何処にいるのだ。奴 等がいることは分かっている。ネームプレートも確かに見た。奴等の名前がシッ カリ書かれてあったのだ。そしてここに呼んだのは奴等なのだ。
なんだって病院の中で迷子にならなければならないんだ。いい年をして。
それにしても、今の今まで、ただの一人も医者も見なければ看護婦だって出会 わなかった。そんな病院などあるものだろうか?
それとも何かの会議があって、何処かに関係者が皆、集まっている?
もしかしたら、この階段教室にいる連中が医者や看護婦たちなのだろうか?
奴等はみんなして俺を取り囲んでいる。俺を見下ろしている。俺は晒し者か。 俺は見世物なのか。俺は実験の道具だというのか。俺を玩具にしようというのか。
見ると台の上の俺は素っ裸だった。これ以上ないくらいに裸なのだった。心の 内さえ、剥き出しだった。目の穴と臍の穴と尻の穴が並んでいた。
恥ずかしさを通り越して、眩暈の感覚さえ覚えていた。
やめてくれ! せめてシーツくらいは被せてくれ! 俺は生きているんだろう? 俺はまだ外の世界へ戻れるんだろう? まさか、俺はもう見込みがないというわ けじゃなかろう?
静寂は酷いほどに凍てついていた。俺の心臓の鼓動だけが、バクバク鳴ってい る。
鼓動の音は完全に密閉された空間の壁を果てしもなく反響し乱反射し、音の波 が際限もなく増幅していくのだった。音という拷問。
なのに、教授も学生等も、涼しい顔をして何かを待っているのだった。
何を?
始まりを?
何の始まりを?
俺の命の終わりの始まりを?
ああ、俺の心臓の鼓動が聞えないのか?
あの鼓動こそが俺の生きている証拠じゃないか!
俺の目には窓を透かして底抜けの青空と白い雲が見える。
お前達には見えないのか!
俺は懸命に叫んでいた。俺は俺の運命を悟っていた。俺は切り刻まれる。俺は 衆人環視の中で細切れにされる。俺は肉と心とに分離される。肉片はこの世に塵 芥として残り、心は彼方へと彷徨っていく。彷徨った挙げ句、空気の抜けた赤い 風船は萎んでいく。命が、風船からシューという情ない音と共に抜け出てしまっ たのだ。
誰か、ふわふわ漂う魂をこの手に取り戻してくれ。大気に分散し果てる前に、 なんとか掻き集めて、この風船の中に詰め込むんだ!
そうしないと、俺は本当に死んでしまう!
すると、何という僥倖だろう。あの人が来てくれた。あの人は赤いゴム風船を 指先に持って、風船の口に唇をあてがい、自らの息を吹き込んでくれるではない か。
ああ、なんと嬉しい。あの人が俺を助けてくれる。あの人の息が俺の命となる。 あの日の前に戻って、俺たちはやり直すことができる。あの、偏屈な野郎どもに 犯される前のあの人と人生を生き直すことができるんだ。
あの日、あの人は、体育館の裏側の資材置き場で、全てを剥き出しにされてい た。
全てが終わったあの人が見た空は、秋の日の高い、高い、高すぎて手の届かな いほどに高く透明な空だった。そんなあの人の一部始終を俺は見届けてしまった。 気がつくと、ローラーの陰で、俺も奴等と一緒に果てていた。
あくる日、あの人が病院に担ぎ込まれたと聞いて、俺は見舞いにいった。でも、 病室のドアを叩くことは、ついにできなかった。
あれは夢だったんだろう。なかったことなんだろう。俺はあそこにはいなかっ た! そうだよな。そうでないと困るじゃないか! 誰も見ていなかった。だか ら、なにもなかったんだ!
風船は、ドンドン、膨らんでいった。シワクチャで見るも無残だった古い風船 が、まるで若い乙女の頬のように生気を帯び始めているではないか!
そして気がつくと、赤い風船はパンパンになっていた。
もう、十分だ。
十分すぎるほどだ。
ああ、もう、やめろ! 風船が破裂するぞ!
しかし、彼女は情容赦なく膨らませつづけるのだった。
そして、俺は弾け、この世の滓となって、漂っている……。
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