影を慕いて
影を探して回った。影が見当たらなくなったのだ。
梅雨特有の曇天のせいだと思いたい。ほんの一時の、何かの間違いであってほしい。
とはいっても、影がないのは、何とも淋しい。自分が薄っぺらく感じる。
影がない…。いや、あることはあるのだ。どんよりした雲のせいで、影がぼやけてしまっているだけなのだ。
そう考えることもできなくはない。
ただ、それだと、夜になっても影が薄いことの説明がつかない。
街灯の下に立っても、ヘッドライトに照らされても、懐中電灯を手にしたおまわりさんに誰何されても、影がまるで浮かびあがらない。影は消えたままなのだ。いや、周辺の風景に紛れ込んでしまったままなのだ。
影に輪郭がない。動き回っても、影は付いてきてくれない。気が付くと、遠くの方で置き去りにされたまま、まるで水溜りの痕のように、しょぼくれている。
乾き切らない涙の痕のようで、気恥ずかしくてならない。この年で今さら、哭き悲しんだりはしない。
慌てて戻って、崩れた豆腐のような影の残骸たちを集めに懸かる。アスファルトに蹲って、路面にこびりついたほんのわずかな欠片さえ、見逃さない。大切な、大切な、我が宝物なのだ。
それがないと、生きている気がしない。生きている証しは、影だけなのだ。連れ添ってくれるのは、影しかいない。今まで何一つ文句も言わず、黙って寄り添ってきてくれた。
直上の陽光に焼き尽くされようと、影は焦げた骨と皮の下に、それこそ棺の中の絹の敷物のように、褥となってくれていた。
夜は夜で、影の薄い存在を少しでも引き立てようと、窓辺から漏れ出す光をも拾い集めて、そうしてひょろ長い輪郭を投げかけてくれた。車に轢かれ、人に踏みつけにされ、自転車に切り裂かれようと、影は傷だらけの身を世間に晒していた。
それなのに、急に影が消えた。いや、消えちゃいないけど、影が薄くなったのだ。ちょっとした風に揺さぶられ、人の気配に怯え、粉糠雨にも、あっけなく流されてしまう。蕩けて形を失っている。分厚い湿気に辟易している。
とうとう探し回るのが億劫になった。諦めちゃいけないとは分かっているけど、ホントに消え去ったことが確認できてしまうのが怖くなってきたのかもしれない。
影はあるいは、背中に張り付いているだけなのかもしれない。思いやって寄り添い続けることに疲れ果て、ほんのひと時、凭れかかっているだけなのかもしれない。
そう、今度はこちらが影を思いやる番なのだろう。
ただ、影をどう癒したらいいのか、見当がつかない。そもそも影は思いやって欲しいと思っているのだろうか。
影に問い質したい。いや、そんな責め立てようってんじゃなく、そっと訊ねてみたいだけなのだ。
今まで、ありがとうって、労いたいだけなのだ。
ああ、だけど、影は限りなく透明に近くなっている。何処に向って囁きかければいいのか、分からないのだ。
「影を慕いて」(2014/07/18)
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