片道切符の階段
ホントに何もしないわよね。 ホントさ。ちょっと御伽の城に入ってみるだけさ。ほら、キラキラして綺麗だろ。 素敵は素敵だけど。中に入るともっと凄いよ。 ホント? 窓からは夜景が見事なんだ。俺たち自身がイルミネーションになるのさ。 人生はすれ違い。熱くすれ違おうぜ。
二人はバスルームへ。真っ裸になって、ローションを塗りたくった。マジックミラー越しに夜景が美しい。ガラス面に二つのハダカが絡まり合っている。人は獣となった。肉と骨と血とが熱いすれ違いの果てに粉砕された。いつしか無数の細胞の蠢きとなった。壁面には眩い光の泡だけが映っていた。
一瞬の煌めきこそが命だった。男と女がすれ違っていく。捻じれ合い絡み合っても、それこそ縺れ合ってさえも、やがては行き別れていく。夢のひと時はそれこそ泡沫の定め。空をジェット機が飛び、首都高速が中空で交差し、モノレールが眼下に走り、レインボーブリッジの彼方を船が行く。
いつしか男は地下鉄の車窓を眺めていた。ほとんど壁ばかりが飛び去っていく。視線をずらせば犇めく乗客たちのすがた。手元の小さな画面に見入る奴、イヤホンで耳を塞いでいる奴、心地よい揺れに寝入る奴、泳ぐ視線を持て余す奴もいる。余儀なく見飽きたはずの車内広告を読み返す。
あなたの借金問題、解決します! そんな謳い文句を信じる奴がいるんだろうか。男の冷たい眼差しが広告を焦がさんばかりだ。男は目を離さない。身に覚えがあるからだ。どうやっても逃げられない。背負う重みは増すばかりなのだ。女もダメ、酒もダメ。あとは? あとはビルの屋上?
途中下車してしまった。気になるビルがあったのだ。一段一段を踏みしめて階段を上っていく。八階建ての瀟洒なマンションの屋上へと、落ちるために登っていく。自由になるための、片道切符の階段。酒に溺れた体だと息が切れるはずが、思いがけないほどに呆気なく登りきってしまった。
屋上のドアを開けると、冷たい風が小気味いいほどに頬を嬲った。夜空は晴れ渡って、都会には珍しく、幾つもの星が煌めいている。二十億光年の孤独。星空に見惚れて、足元のブロックに蹴躓いた。心は上の空でも、体は生きている。つま先が疼く。そんな些細なことが決心を鈍らせる。
ビルの屋上のフェンスに寄りかかった。街灯りが目に眩しい。星の数を減らす、ビルやヘッドライトやテールランプの描く紅白の光の渦。光の河を天から奪って地上に引きずり下ろしたようだ。フェンスの直下は闇の口がぽっかり開いている。天という高みに比べて地の卑近さが滑稽だった。
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