私は海
夢の世界に居る。真っ青な海の中。自分が海の真っ只中にいて、時に浮かび、 時に潜って行く。
そう、潜って行くのである。決して沈んでいくわけではない。
なぜなら、不 思議な浮遊感が自分の体を満たしているのが分かるからだ。海の水が体を浸潤 している。目の玉にも耳の穴にも鼻の穴にも、尻の穴からだって、尿道口から でさえ、水は遠慮なく入り込んでくる。
まして、口内を満たした命の水が喉から胃袋へ、あるいは肺にまで浸透し満ち溢れ、やがては我が身体を縦横無尽に走る毛細血管もリンパ管も神経の無数の筋をも充満させ、気が付くと、海水で膨らまされた気泡にまで変えてしまっ た。
そうだ、今は一つの泡なのだ。私とは、泡の膜なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
私には苦しみもなければ喜びもない。あるのは、波の戯れにゆらゆら揺れる 膜の襞の変幻だけ。体に満ちる瑞々しい感覚。外界と内界とが分け隔てなく、自在に交流する自由感。
私は今、一個の宝石になっている。水中花より遥かに永遠なる輝きと神秘を誇る太古の宝石に。
私に光は要らない。太陽の光をたっぷりと吸い込んでいるから。どんなに深い海の底にあろうと、光の粒は無数に回遊する微生物の体を通して私に届く。 マリンスノーは光のペイジェント。その光のイルミネーションこそが、私の餌。 私のミトコンドリア。私を光り輝かせるエネルギー。
私は、この世がある限り、自光する。
私は美しく優雅に、優美に、優艶に、悠々と泳ぎ漂う。私は命そのものだ。 たとえ、行き逢った海の生物に私の裸の肉体の一部が齧られようと、平気。ほ んのしばしの時の後に、凹んだ身体が前にも増して艶艶の肌を蘇らせるのだか ら。
だから、むしろ、私は食べられたい。命の欠片を誰彼構わず与えることで、 私は永遠に近付いていくことを実感する。
食べられた血肉や腸は、相手の体の血肉となる。骨となる。体液となる。水晶体を構成するゼリー状の髄液となって、私は私の居ないはずの場所をも見、聞き、 嗅ぎ、舐め、感じるのだ。
齧ら貪られるたびに、私は世界により深く偏在していく、というわけだ。こんな喜びが他にありえるだろうか。
私は膜。この世を包み込む膜。私は膜に包まれる一個の宇宙。
私は膜に包まれている……? そうかもしれない。けれど、一体、膜に包まれているのは、 本当に私なのだろうか。むしろ、膜の内側にあるのは、裏返った宇宙のほうではないのか。
私は偏在する。千切れた肉片が、削られた骨の欠片が、細胞の一つ一つが、海原へと溶け込んでいく。
喰った魚を通じ、やがては鯨に熊にイルカに人にだって、なる。蝶にも蟻にも、 ミミズにだってゴカイにだって蛭にだってなる。屍骸となった私は微生物達に分解されて、植物にもなる。
植物の体で私は、ふたたび光と出会う。光合成する葉緑体で、海に溺れている私は、大気中の光の粒たちとの再会を祝福する。至福の時を生きる。
濁れる海。限りなく透明で、それでいて際限もなく豊かな海。海とは、世界だ。世界が一つに繋がっている何よりの証明だ。海とは、池でもなければ、川 でもなく、世界の融合のことなのだ。
青海原。浮き漂う脂の如き命の種。形さえない、天に咲く木や花の花粉。花粉の中には原初の光景が詰まっている。モノとモノでないものとの境目の時の 、産みの苦しみと歓喜の記憶が刻み込まれている。微細な粒子の胎動が、目を閉 じた私の脳裏を不思議な感動で惑わせる。
命の胎動は、遥かな昔同様、今も鳴動していることが分かる。感じる。
私は黴。私は苔。私は茸。私は藪。私は壺。私は花。私は草。私は肉。私は 土。私は水。私は海。私は気。私は風。私は息。私は時。私は愛。私は全。そ う、私は全てなのだ。私は命の誕生そのものなのだ。
(「ディープタイム」(04/10/10 作) より。一部改稿。挿入した画像は、小生の脳のCT画像…じゃなくて、コースターとして製品化された瑪瑙。「メノウ - Wikipedia」より)
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