闇に降る雨
いつの日かの黒い雨の降った夜を思い出していた。
あの日の雨も、目を閉じると見えてくる、タールのように粘る雨だった。 池の淵に佇み、心を閉ざし、闇に沈み、池の底に揺れる蒼白な月の影を思 っていた。
血糊のようなタールは、口から吐き出されたのだ。鼻の穴から、目の端 から、耳の穴から、そして毛穴から溢れ出し流れ出し噴き出し、地を這い 伝い、低きに流れ、やがて抉られた一角を埋めていったのだった。
肉片が浮き、毛髪が漂い、目玉が我こそは月影だとばかりに闇を凝視し ている。そう、見詰めるに値するものなど、この世に何もないと言わんば かりに、藪睨みしている。
虚空のような瞳。落ち窪んだ眼窩。
そうか、瞳など、とっくの昔に焼け爛れていたのだった。抉られた肉の ような悲しみ。引き攣る笑い。声にならない悲鳴。歓喜と見紛う哄笑。
孤独が壁に貼り付けられている。壁紙を剥ぎ取ると、そこに現れるのは、 日に晒したことなど一度もないと思しき真っ白な背中。
よく見るとケロイドの丘。鋲を打ち込まれた肌。留め金のような関節。 目も鼻も口もない能面の顔。裏返しの伎樂面。
闇に雨が降る。音も立てずに。それとも、音を懐剣のように呑み込む闇。 濁ったオイルが床に垂れる。
オレは、その池になど身を沈めたくはないのだ。
けれど、腑抜けのようになって、真っ直ぐ、池に向っていく。サラサラ の銀粉の液体。オレには触れられない。オレに触れるがごとく、しかしオ レの体に何一つ痕跡を残すことなく、闇の雨は地に辿り付くことなく流れ 去り消え果ていく。
オレは、何処に居る?
オレは、ここにいると誰が知る。無数の人影が漂っている。数知れない 人々と行き交ってさえ、いる。
陽光の降り注がない向日葵の野を歩いている。
なのに、オレとは視線は交わらない。オレは、幽霊のように人の肉体を 擦り抜けていく。
誰にもぶつかることがない。オレの肉は、あの日の閃光の陽炎なのか。 毟り取られた向日葵の花びらの一枚より儚く飛ばされていくだけなのか。
シトシトと降る雨。闇の空に降る雨。虚の雨。心を濡らすことのない、 地を潤すことなどありえない雨。情のない雨。沈黙の海に世界を変えるこ とのない雨。沈黙を生きとし生けるもののざわめきに立ち返らすことのな い雨。窓を伝うことのない雨。雨樋(あまとい)をリンパ節のように忌避 する雨。
あまりに遠くへ来てしまった。立ち竦み、一歩も動かなかったはずなの に、気が付けば、誰もいない闇の空を眺めるしかなくなっていた。
空っぽの空。そう、空(そら)なんかじゃなく、ただの空虚なのだ。
蒸発して消えた影。蒸発の腹いせなのか、それともこの世への未練なの か、煤け爛れたコンクリートの壁に影の輪郭だけを形見に遺して消えた奴。 中には、決して忘れさせるものかと、誰もが忘れた頃に生まれてくる奴も いる。
では、オレは?
オレは、誰なのだ。誰の子なのだ。天の子だと、自惚れて、世を睥睨し、 そして世に疎んじられていれば、それでいいというのか。孤独を飴玉のよ うに舐めていればいいのだろうか。
諦め果てている?!
それならば、この哀切なる情の滾りは何なのだ。沸騰する血より熱いじ ゃないか。何かへの祈りなのか。祈りとは絶望への裏切りのことなのか。
ヨロヨロよろけながら歩いていく。胸のうちの情の念が消える日まで歩 き続けていく。何処へともなく。
何処から来たわけじゃないのだから、行く当てがあるはずもない。
ここではない何処か。何処にもない、ここ。
何かに出会うために? 誰かから逃れるために? それさえも忘れた。
神の傍に…なんて、決して思わない。地の上とも底とも思わない。何処 にもいないあなたに身を委ねている。
旅は常に途上なのだ。
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