三匹の仔トラの夢
三匹の可愛い仔たちがいた。
大人の猫よりやや大きいが、仕草や歩き方の覚束なさ、三匹の常に行動を共にし、戯れ合う様子かは、明らかに生まれて間もない、恐らくはトラの仔たちだった。
咬み合うような真似をしたり、追いかけっこをしたり、おい被さったり。
かと思うと、何に惹かれたのか、三匹して、一斉に同じ方向へ掛けて行ったりした。
生まれて半年も経っていないような仔トラたち。
その行動や仕草の全てが可愛くてならないのだった。
…でも、三匹の仔どものトラたちには、悲しい運命が待ち受けていた。
間もなく、三匹が選別されてしまい、一匹だけが母親のトラの世話を受け続けるが、残りの二匹は、母親から育児を放棄されてしまうのだ。
どのようにして、選別されるのか、固唾を呑んで見守っていた。
今、運命の分かれ道にある、その緊迫した瞬間に立ち会っているのである。
選別の方法が分かるまでにそんなに時間は掛からなかった。
母親のオッパイを一番、力強く咥え吸う仔が庇護を受け続けられる。
ほんの少しでも吸う力が弱いと、あっさりと母親に見捨てられてしまう。
やがて、二匹の仔トラたちが、肩を並べるようにして、何処かへ去っていった。
何処かへ。
でも、何処へなのだろう。
残った一匹の仔トラは、母トラに率いられ、光るあるほうへと、ゆっくりと歩き去っていった。
胸が引き裂かれるようだった。
心が傷くてならなかった。
その瞬間、オレは目覚めた。
夢、だったのか。
どうしてこんな夢を見たんだろう。
人が誰も登場しない、というのも、オレには違和感があった。
誰も居ない世界にオレが生きていることを象徴しているようにも思えた。
三匹の仔トラと母親のトラとのドラマの真っ只中で、まさに命の息衝くドラマに際会しているのだが、オレはただ見守っているだけだったではないか。
どうしてこんな夢を見たのか、気になってならなかった。
夢の場面、場面を思い返していて、ふと、夢の最後の場面で、奇妙な光景を見ていたことを思い出した。
淘汰という運命の時に敗れた二匹の子供のトラたちは、共になぜか、背中全体から胴体にかけて、何かヌルヌルした、茶褐色のゼリー状の液体に覆われていた。
初めに三匹の子達を見かけたときは、ただ可愛い仔トラたちだったはずなのに、あの立ち去った二匹の仔らは、羊膜を被ったままだったのだ。
一匹の仔だけは、羊膜を母トラが食い破ったが、残りの二匹は、なぜか、羊膜を破られることがなかった。
それでも、必死だったのだろう、自力で羊膜の一部を破ったけれど、破りきることは叶わなかったのだ。
もう一度、夢のことを思い返してみた。
何を意味した夢なのか。
体の表面のヌルヌルボヨボヨした、ゼリー状の…。
ちょっと見には、ソースが掛かったようでもある。
ふと、眠りに着く前、テレビの動物特集番組で見た、ある動物の特徴のことを思い出した。
寒い冬を生き延びるために適応した体毛の話だった。
体毛の毛先に至るまで脂分が行き渡っている。お陰で、寒い場所だと、毛が水に濡れてしまうと体温まで奪われてしまい致命傷になるはずが、脂分が「パッ」と水分を弾き飛ばし常に毛を乾いた状態にする、云々といった内容だったように思うが、熱心に見ていたわけではないので、必ずしも正確な説明とは言いかねる。
このテレビの動物番組の内容と、今朝、オレが目覚めたときに見ていた夢と何か関連しているのだろうか。
やや無理がある気がする。
さらに寝起きの悪さのままに、今朝の寒さを口実に、ベッドで毛布に包まりつつ、夢の場面の数々を反芻していた。
ふと、昨日、営業中の車内で聞いていたラジオの話も無縁ではないかもしれないと思われていた。
それは、フロイト派の精神分析家へのインタビュー形式の話だった。
日本にはフロイト流の精神分析は根付かないのか。
確かに、本格的にフロイト精神分析家の資格を持った者は、日本には少ないが、精神分析学に関わる研究者の数は数千人いる。
日本だと、本音ではともかく、建前上は、フロイト派を自認するものは少ない。
それでも、内心、フロイト流の精神分析に惹かれている研究者は想像以上に多いのではないか。
では、なぜ、本格的にフロイト精神分析の資格を取る人が少ないか。
それは、日本人の心の真偽を人前で明らかにするのを敬遠する、曖昧な心性に無縁ではないだろう。
欧米では、神の前で真実を告白する、という伝統と習慣がある。
神父の前で、誰にもいえないはずのことを打ち明ける。
そんなシビアな状況自体を日本人は忌避する。
まして、人前でなんて、とんでもない。
そんな若い頃、やたらと凝ってしまった精神分析についての話を久しぶりにラジオで聴いて、心の奥底で、自分の心の扉を開き、中身を開示するヒントを夢の神様が示してくれたのか。
今朝見た夢が、一見すると自然界では有り触れた現実を垣間見せたに過ぎないのに、どうしてこんなに気になるのか(トラが仔トラたちを選別する、なんてのは、あくまで夢の中の話です!)。
そもそも、人間が一切、登場しない夢なんて、珍しいのか、案外と、そんな夢を見ることは間々あることに過ぎない、ただ、自分が気になってならないでいる、むしろそのことこそが変なのか。
夢を巡っては、何をどう、思いをめぐらせても、堂々巡りに終始してしまう。
もどかしいような、でも、やはり、ここは日本人らしく、中途半端に探求を終わらせたほうが、無難だと心得たほうがいいような、下手に藪を突っついて、妙なもので出てきても困るではないか、といったいつもの弱気な心が優ってしまい、曖昧なままに、再び、眠りに落ちて行ってしまったのだった。
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