黒い雨の降る夜
あれは夢の中でしか見ることの出来ない黒い雨の降る夜のことだった。
鮮烈なほどの蒼い光が俺の目を刺し貫いた。貫通した光は、瞬時に消え去っ たが、俺の後ろの分厚い壁に怪しい人影を残していた。
その日から俺は影の世界に生きてきた。
俺にはもう、この世とやらとは縁も縁(ゆかり)もない人間に成り果てたの だ。
けれど、俺は生きている。生きて喘いでいる。この胸の苦しさをどうにも晴 らせないでいる。なのに、誰も俺を見向きもしない。俺を素通りする。眼前の 俺を差し置いて、どこかあらぬ方を見遣り、楽しげに悲しげに退屈そうに語り、 あるいは黙する。
こんなに胸を掻き毟りたくなる俺なのに、この世の誰にも俺の存在が認めら れない。
俺をどうして皆、無視するんだ! どうして肉の姿しか見ない。俺の魂が見 えないのか?!
正直に言おう。俺は寂しい。俺は助けて欲しい。俺は気が狂いそうだ。死ぬ ほどに孤独なのだ。なのに死ぬのが怖い。この世に全く生きることなしに死に 果てるなんて、そんな不条理があってたまるか! 死んでも死にきれないじゃ ないか!
そうだ、俺は、死ぬ瞬間が怖くてたまらないのだ。きっと、狂気と背中合わ せの、血反吐を噴出すほどの寂しさに圧倒されるに違いないのだ。俺の臆病で 惨めな正体が天下に晒されるのが怖くてならないのだ。
ああ、あの日、お前と出遭ったはずなのに、お前は俺を受け入れてくれる仕 草を示してくれていたのに、俺はお前を拒否した。
そうだ、俺は馬鹿だから、ちょっと世の中に拗ねてみせただけのつもりだっ た。でも、お前は、悲しげに俯いて立ち去った。あの男の下へと。俺より優し い男の下へと。
俺は呆然とするばかりだった。なんて愚かな男なのだろうと呆気に取られて いた。
あの日、何処からかの帰り道、何処かの公園の角でお前を見かけた。後ろ姿 で、恥ずかしげに俯いているお前の小さな背中がいじらしかった。俺から声を 掛けられるのをひたすらに待っていたのだ。
でも、俺は通り過ぎた。黙ったままで。俺は嬉しかったのだ。そう、嬉しく て飛び上がりたいほどだった。なのに、俺は黙ってあの人の傍に近づき、やが て去って行った。木漏れ日がお前の肩や背中で揺れていた。足元にも陽溜りが 白く小さく揺れていた。まるでお前が落とした涙の池のように。
ああ、あの日のお前にもう一度、会いたい!
だけど、俺には忘れることができない現実があるのだ。男の意地があるのだ。 あの毒々しいほどに鮮やかな蒼き光にもう一度、遭わなければならないのだ。 その光が俺の脳髄を射抜いて、そして脳味噌の中に巣食う癌の塊を焼き焦がし てもらわねばならないのだ。そうでなければ、そうでないかぎりはお前と一緒 になっても、きっと、俺はお前をこそ、責め苛むに違いない。俺にはそれが痛 いほど分かっているのだ。
そう、俺はお前と一緒に歩けるような、まともな人間ではないのだ。
そうだ、あの蒼い閃光は、俺の魂を串刺しにしてしまった。何処か知れない 虚の時空の梁に磔にしてしまった。タラタラと血が流れた。今も流れ続けてい る。俺の体の中の生き血がとっくの昔に空っぽになったというのに、未だ、血 が滲み出し流れ出し中空の魔物に吸われ続けている。
原始の光。俺の脳髄の中の無数の細胞どもに、その蒼き閃光は印を刻み付け てしまったのだ。拭い切れない瘢痕。DNAより永遠の遺産。ミトコンドリア の夢。イブの怨念。俺にはどうしようもないのだよ。
ああ、お前が欲しい。どれほどに俺はお前を欲していることか。三方の上に 酒と薔薇と刀とを載せて祭壇に捧げ、俺は夜通し闇夜に祈り続けた。否、恋い 求め続けたのだ。俺の肉はお前と共にあるのだ。それだけは分かって欲しい。
長崎の原子野に降った黒い雨に俺は祟られている。あの、紫よりも周波数の 高い、怒る光のシャワー。肉が蒸発し、血が噴き、肺腑が踊り、羊水が煮え滾 った。胎児は生煮えとなり、妊婦は遮光土器の模様と化した。鉄骨が蕩け、瓦 が泡立ち、石が煤となり、コンクリートが灰燼に帰した。
そうだ、俺はあの原子野をやっとの思いで生き延びた女の忘れ形見なのだ。 俺は俺のお袋の影に過ぎないのだ。俺は生まれながらに呪われている。お袋の 怨念に呪縛されている。俺はお袋の復讐を果たさねばならない。でも、一体、 復讐の相手は何処にいる?
俺はお前を愛している。それだけは分かって欲しい。俺はお前に出会う前か らお前に全てを捧げているのだ。与えるものなど何もなくなった、その時にな って俺の前に現れたお前が悪いのだ。ああ、俺が魂の抜け殻に成り果てる前に、 お前よ、俺を連れ去っていくべきだったのだ。
でも、もう、遅い。俺は、俺の道を行く。闇の中の黒い馬に跨って、もっと 深い闇の海へと潜って行く。きっと、その海の底でこそは、あの日と同じ蒼い 閃光が瞬いてくれるに違いない。その蒼き稲光が俺を賦活してくれる。
俺を十字架に磔にした蒼き光には、夢の中にしか降らない黒い雨の夜でなけ れば出会えないのだ。俺はその闇の世界へ旅立たねばならない。この肉の身を 引き裂いてでも。
(03/04/07 記 )
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