石を拾う
別に急ぐこともない。それこそ、日に一個でもいいのだ。
それを拾ってきて、庭の片隅に集める。
数がある程度、揃ったら、石を積んで、形を整えていく。
ただ、どんな形にするかは、決まっていなかった。それより、今は気長に石ころを拾い続け、数を集めることだ。
そんな日々が続いて、いつの間にか、私は足元を見ながら移動する癖がついてしまった。
お、あったとばかりに、石ころばかりに注意が行って、あやうく電柱にぶつかりそうになったことがあった。
時には、自転車を駆る爺さんとか、車で通り過ぎる人などが石を拾う私を怪訝そうに眺めて過ぎる、痛い視線を感じることもあった。
或る日、車がタイヤで路上の石を跳ね飛ばすのを見かけた。
石はアスファルトの上をまるで陸上の水切りのように小気味いいくらいに弾け飛んで行った。
石が弾け飛ぶ光景を見ていて、私はずっと昔のある体験を思い出した。
十代終りの夏の或る日、バイクで海へとツーリングに出かけた時のこと。前を走っていたダンプカーが路面の段差で上下にバウンドし、その勢いで、荷台に山盛りになっていた砂利の一個を落とした。
そのゴルフボール大の石は、落ちた勢いで2度、3度と弾んだ挙句、ダンプカーの後ろをバイクで走っていた私の鳩尾を直撃したのだった。
私は一瞬、息が詰まった。思わずバイクを路肩に止め、息ができるのを確めたものだった。幸い、骨には異常はなさそうで、そのまま海へ走っていった。
もしかしたら…私は、そんな痛い体験があるから、路上の石を拾い始めたのだろうか。
分からない。
数か月もすると、我が家の近所では石ころが見つからなくなった。危うく、砂利を庭に敷いている家から拾ってこようかなんて、誘惑に駆られたりもした。
でも、私には、路上の石を拾うという固い決心があった。決心というより、男の意地のようなものかもしれない。
自転車か大きな川へ遠征して、河原で石ころを拾ってくる…なんてことも考えないではなかった。
けれど、自分の中の、あくまで路上に転がる石を拾うのだという、頑なな思いは変えられないのだった。
とうとう石を拾うため、自転車での買い物を、いつものスーパーより遠い店に行くようになった。クリーニングを出すのさえ、違う町の店を利用するのだった。
活動するエリアを広げると、さすがに石ころがまだまだ見つかる。石の発見に難儀することは当分、なさそうだった。
やがて、小さな庭の一角に、集めた石ころの小さな山が出来てきた。
さすがに、近所の人も、我が家の庭の異変に気が付くようになってきた。
ひそひそ噂話が行き交うのを気づかないわけではなかった。近所の連中がどんな噂をでっち上げようと、私の知ったことではないのだ。それでも、孤立している自分の耳に、出所の分からないような話が飛び交うのをどうしようもなかった。
誰かは、賽の河原のつもりではないか、なんて言い募るのだった。
じゃ、誰かの供養のため? 最近、あの人の近親で誰か亡くなったからしら…。
別の誰かは、あの人、いつだったか、庭の草むしりが面倒だって、言ってたわよ、だから、石を庭の隅に敷き詰めて、雑草を生えないように石を集めるんじゃない…。
あの人、家の周りの溝とか、結構、綺麗にしてるから、きっと、道路の清掃のつもりじゃないかしら…。
でも、用心しないと、石ころ、何処から拾ってきてるか、分かったものじゃないわよ…。
へそ曲がりな私は、そんな噂を仄聞して、賽の河原も、雑草対策という意図も捨て去った。
最初からそんな狙いがあったわけじゃなかったが、集めているうちに、そんな考えもふと浮かんだりしていたのだが、腹の内が読まれてしまったようで、悔しくて、オレはそんなつもりで集めてるんじゃない! と自分に言い聞かせるのだった。
石ころは盗んできたんじゃない、あくまで路上に転がる石なんだ! と言い訳したかったが、誰も私に訊ねることはない。私の評判は一層、悪くなってしまった。
近所の人と立ち話でもして、石は落ちているのを拾ってるんです…なんて言い訳めいた話をするなんて、真っ平御免だった。
それにしても、何のために石を集めてる? 何だって石を積んでいるんだ?
自分でも訳が分からなくなった。下手すると、道路の美化という意図しかありえなくなりそうだった。
誰にも気づかれなかったら、適当なところで切り上げて、完成したとばかりに、やめてしまうこともできたけれど、今となっては止めるに止められなくなってしまったのだった。
石をどれだけ集めたら終わりになるのだろう。どんな風に積んだら、自分は満足するんだろう。
意固地になる自分の性格がうんざりだった。でも、自分ではどうしようもないのだ。
今では、石ころは拾い集めること自体が目的と化していた。
家を出るにも、砂利の重みを押してドアを開けないといけない。戻るのは、もっと困難だった。 石に埋もれた我が家を眺めるたび、ため息が出た。
ついには、小さな庭だけじゃなく、石ころの山は、小屋のような我が家を押し倒しそうになってきていた。石の小山の重みが家を傾けそうになっていたのだ。
ギシギシと鳴る不気味な音。ああ、家が潰れる。オレは押し潰されちゃう。オレの人生はこんなことで終わっちゃうのか、というところで目覚める始末。
これじゃ、賽の河原どころか、家自体が石に埋まって、私の墓石に、墓場になってしまいそうだ!
どうしてこうなったのか。いつ、どうやって石集めを止めたらいいのか。誰か、見るに見かねた人が止めてくれないものか、強制的にでも病院に担ぎ込んでくれないものか…そんな弱気の念さえ胸中を過っていた。
不意に夢の中に現れた石ころが脳裏に蘇った。石ころ…遠い昔、もうガキとは呼べない年齢になった頃、街中をほっつき歩いては、石の心、石の心、と呪文のように呟いていた。
凝り固まった命が澱のように心の中に沈み込んでいる。沈殿した命の粋。自分ではどうにも埒の明かない闇。
気が付くと、見捨てられた家の庭の隅の池を前に佇んでいた。大きな石と自分とに紐を括り付けて、一緒に…。
濁った池を覗き込んでも、ほんの数センチも見通せず、誰にも知られずに…。
その時のオレを救ったのは、何だったろう。誰かへの恋心だったような気もする?
叶わぬ想いのままに、誰にも見取られず、曖昧の池に消えゆく自分が悲しかったからだったのかもしれない。
けれど、今となっては、オレは消え去っても何も惜しいことはない。自分という人間の度し難さを痛いほど思い知っている。何も変わることはない。それこそ石なのだ。自分は壊疽し凝り固まった心なのだ。
世間の無責任な見立てが結局は正しいことを認めざるを得なかった。
墓石を墓地を、石の墓標を作っている。オレは自分で賽の河原を作っている。石の山に埋もれて石の心より固い何かになろうとしている。
そこまで考えた時、ふと、気づいた。
誰もいない山の中でやればいいものを、こんな人目に付くところで馬鹿げた営為を続けているのは、ひょっとして、誰かに助けてほしいというサインなのではないか。
なんて無様な!
そう、気づいたオレは、その日から石を拾うことを止めた。
その日からは、心の中に石を積み続けている。
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