居場所がない
街中でスプレーで描かれた落書きを見かける。人の家の壁だろうが、歩道橋の側面だろうが、地下道の壁面だろうが、とにかく目立つような適度に大きな面があったなら、迷惑など顧みず、スプレー塗料で、あっという間に書き上げ、逃げ去ってしまう。
その魁(さきがけ?)がパスキアなのだろうか。
でも、そんな下卑た連中の魁では決してない。パスキアは空前絶後の人だったのだし。
← ジャン=ミシェル・バスキア作「無題」(1984年 アクリル、混合技法・画布 223.5×195.5cm)
持て余す魂。漂白する魂。壁にこすり付けられ傷ついた心。心とは壁の傷。磨り減り光沢も塗装も剥げ落ちた壁の染みにこそ親近感を抱く魂。紫外線に琴線を打ち砕かれて目は街中を泳いでいる。何処にも焦点が合わないのだ。
都内などで見かけるスプレー塗料の汚し絵や記号を見ると、反吐が出る。
そんなものより、苔生し風雨に剥げた板塀や古びたブロック塀のほうが遥かにましだ。あるいは掃き清められた何処かの有名なお寺の紋切り型の庭を見るくらいなら、蜘蛛の巣が這い、雑草と名のある花とが混在した、碌に掃除もされていない、主(住職?)の居ない、境内なのか駐車場なのか定かじゃないお寺のほうがよっぽどましだ。
自然とは、人知の限り、人為の限りを尽くした自然らしさのことなのだろうか。
なるほど、人の手だって自然の一部であることは否めない。それでも、人為の及ばない領域は断然、あると感じる。というより、闇の世界こそが圧倒的にある。その闇の海を、ささやかな灯りを手にしてやっとのこと人は泳いでいるのだ……という感覚を実感している人につい共感する自分が居る。
→ 側溝のコンクリート壁の割れ目から雑草…どころか小花が咲いてきた。誰も目に留めないけど、そんなこと、気にしない。咲きたいから咲く! (画像は、拙稿「あなたを縛るものは何ですか」より)
話がまるで飛んでしまった。
そう、街中の民家の壁が人生の壁そのものに感じられる人が確かにこの世に居る。壁一枚向こうには団欒がある ? !
が、いざ、自分が団欒の輪に加わろうとすると、引き潮の引いていくように和みの空気が萎えしぼんで行く。民家の窓が人の温もりへの窓であり通路であるはずが、その窓のガラスが切なる思いを跳ね返す冷たい壁、泥の壁よりもっと無機質で異次元であることを感じさせる窓に過ぎない、そう感じられてならない類いの人。
庶民を愛するといいつつ、庶民性とは隔絶した魂を持て余す人。
あるいは広告。
広告とは一体、何だろう。人を誘っている? あるいは誘いに乗らない人を拒絶している? 広告ほどにアイロニーに満ちた媒体もないように思える。
居場所を失った人。
だからといって、今、ここに居るのも居たたまれない。だから、町を歩く。が、その町には壁が溢れている。
だとしたら、一体、その人は何処へ向えばいいのだろう。
(「佐伯祐三…ユトリロのパリを愛してパリに果つ」(2006/10/07)より)
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