真冬の満月と霄壤の差と
昨夜の月はほぼ天頂にあった。そして小生はまさに天底にある。首が痛くなるほどに見上げないと月を真正面に眺めることができない。それほどに高く月は照っていたのだ。天頂にあってこの自分を見上げさせている月は、小生に影さえも与えてくれない。
真冬の夜の満月は何か恐ろしいものを感じる。まして昨日は、日中、冷たい風が吹いていたし、冬ということもあって湿度も極端に低い。冴え冴えとした月を実感する条件が揃っていたのだ。
満月が煌煌と照っていたにもかかわらず、星々も東京の空とは思えないほどに煌いていた。
霄壤(しょうじょう)の差という言葉がある。広辞苑によると、「天と地ほどの大きなへだたり。雲泥の差」と説明されている。
昨日の夜の光景こそ、天と地との差を実感させるものだった。我々は既に人間があの月の世界に立ったことを知っている。なのに、それが夢の中の出来事のように思われてくる。本当にあの世界へ足を踏み入れたのだろうか。
しかも、人間は月よりはるかに離れた天体にも足跡を印そうとしている。火星に人類の痕跡を残す日も遠くはないらしい。そしていつかは今の我々にははるかにはるかに遠い星の彼方にも向っていく…のだろうか。
けれど、それは人類がいつかは、ということであって、決してこのちっぽけな自分がということではない。この自分は地上世界を離れることはできない。地上世界どころか、東京の片隅で取り留めのない夢を抱えてうろついているだけなのだ。壮大な夢を抱く優れた知性の持ち主達とはまるで縁のない生活をしている。明日の生活さえ、覚束ない。
生活が貧しくとも、花や鳥や月や星を愛でる心があればと思うが、他の人はいざ知らず、小生には少々無理がある。花を美しいとは思う。素敵な音楽を耳にして感動もする。清流のせせらぎを目に耳に沁みるようにして受け止める。
でも、所詮は無粋な小生には、花鳥風月に生きられるわけもない。別に明日のパンが心配だからというだけではなく、パンのみにて生きるほどに愚かではないと思うものの、しかし、何かもっと実のあるものに縋らないと生きることの喜びを実感できないのだ。そんな平凡な人間に過ぎないのだ。
老いているわけではない。が、若くもない。課せられた責任がないわけではないが、静かにさりげなくその荷を下ろしても、別に何の波風も立つ懸念はない。心を分け持つ相手もいない。小生が掻き消えていっても寂しいと思う人間もいそうにない。自分でさえ惜しいとは思えない。そんな半端な状態に苛立つほど若いというわけでもないのだ。
若い頃は、自分なりに切迫するような、湧き立つような情念があるような気がしていた。時には生きる意味を追い求めたことさえもある。尤も、何かに夢中になり全てを忘れ去るということはなかった。家族や人間関係を壊してまで何かをするということはなかった。所詮は自分はこの程度の情熱しかなかったのだ。
初めに持っていたものが強烈でないなら、失った悲しみも薄い。失望感も淡く漂うだけなのだ。社会の底辺を彷徨うほど地獄を流離っているわけではない。一人の平凡な人間として、籠に担がれる人間でも、籠を作る人間でもなく、時折籠を担ぐ役割を許されているだけである。自分はこのために生きてきたわけではないはずなのだが、他に能がないのだ。
天頂の月は何かを小生に伝えようとしている…、そんな予感はある。
けれど、感性の窓が曇ってしまった小生は、もしかしたらドアを叩いているかもしれない誰かの問いにさえ応じることが出来ない。億劫なのだ。立ち上がるのも面倒臭いのである。魂という言葉に格別な感を覚えた昔が夢のようだ。
光は、地上世界を照らす。けれど、照らしているのは地上世界だけではない。光は四方八方を遍く照らし出している。なのに、若い頃は、己の魂を光が直撃しているかのような錯覚を覚えていた。我が魂のうちを眩しほどに浮かび上がらせて、誰の目にも己の無力さが露になっているかのように感じて恥じるばかりだった。天は我を見下ろしているのだと思った。
思いたかったのだ。
が、天は、光は遍くその輝きを恵んでいる。己をも彼をも海をも山をも、あの人をも。空を舞い飛ぶ鳥をも、地を這う虫けらをも、そしてやがては地の底に眠る命のタネたちをも。
照らし出されているのは自分だけではない。だから、自分は主役ではないのだ …と思えばいいのか。思ってもいいのか。
きっと、今こそ、今度は自分が輝く番になっているのだろう。今の今までたっぷり光を浴びてきたのだ。光は体の中にさえ有り余るほどに浸透している。60兆もの細胞の全てが光の恩寵を受けている。光が形を変えて血肉となっている。形を変えて脳となり、あるいは脳や腸を突き動かしている。命の源となっている。命の源から溢れ出す光の泉となっている。瀑布の飛沫さえ光を浴びて煌いている。
きっと、地上の全てが光の塊なのだ。魂とは光の塊のことなのではないか。だとしたら、今度は己が己の力で輝きだす時に至っているということではないのか。体と心の肉襞深くに集積した光の塊に、迸るための出口を指し示す時に至っているということではないか。
この平凡とさえ思えない自分にも、月は、天の光は今も呆れることなく恩恵を与えている。
人は死ぬと塵と風になるだけなのだろうか。魂とか情念の類いも消え果るのだろうか。
もしかしたら塵となって風に舞うだけ、というのもある種の信仰、ある種の思い込みに過ぎないのではないか。死んでも死に切れなかったら。最後の最後の時になって、その末期の時が永遠に続いたとしたら。
時間とは、気の持ち方で長さがいかように変容する。死の苦しみの床では、死の時がもしかしたら永遠に続かないと、一体誰が保証できよう。
アキレスとカメの話のように、死の一歩手前に至ったなら、残りの一歩の半分は這ってでも進めるとしても、その残りの半歩も、やはり進まないと死に至らない。で、また、半分の半分くらいは何とか進むとしても、結局は同じことの繰り返しとなる。
永遠とは、死に至る迷妄のことかもしれない。最後の届かない一歩のことかもしれない。だからこそ、天頂の月は自分には遥かに高く遠いのだろう。
(03/01/19)
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