夜目遠目笠の内
広辞苑によると、「夜見たのと、遠方から見たのと、笠をかぶっているのをのぞき見たのとは、女の容貌が実際よりも美しく見えるものである」だそうである。 恥ずかしながら、小生は「笠の内」を今の今まで、「傘のうち」と思い込んでいた。
傘というのは、敢えて説明するまでもないだろう。雨や雪などを防ぐためのものだ。日光を防ぐものでもある。その意味で、用途的には、傘も笠も同じだ。
けれど、形や素材はまるで違う。笠というと、蓑笠とか、菅笠とか、思い浮かべることができる。「夜目遠目笠の内」という場合、カサが傘ではなく笠だということは、この諺(?)の由来というか、成立は、笠が当たり前に使われていた時代だろうという推測をさせる。
ところで、冒頭に記したように、通常、この諺は広辞苑の説明の如くに使われる。あくまで話題になっている対象は女性であり(つまり、男性が我が侭勝手な、己のことを棚に上げた、いい気な立場で女性を寸評する発想が透けて見える)、夜目や遠目と同様の効果を笠(傘)が持つということで、梅雨の時期にこの最早陳腐化した諺が使われることが多い。
なるほど、どんな女性も遠方から宵闇の中で、しかも笠や御高祖頭巾などを被っていたりしたら、スタイルが余程、太っていたりしないかぎり、綺麗に見えるものだ。が、ちょっと近づいてみたら、ガッカリということもあるのかもしれない。
が、しかし、逆の解釈も可能なような気がする。
ある意味で男と女との関係で、ギリギリの欲望とか、あるいは寂しさや孤独の極を彷徨ったり、時に一人山中で道に迷ったりするなど、切羽詰った情況に人間が置かれたなら、一個の裸の人間同士、男と女との触れ合い、ぶつかり合いという焔が燃え上がるわけで、そうした限界情況というものは、美人だとか若いとか、金持ちだとか、家柄・血筋がいいといった属性を剥ぎ取ってしまう。
人間を剥き出しにしてしまうのだ。つまり、夜目遠目笠の内というのは、美醜などを隠蔽したり誤魔化してしまう不可視の幕の類いなのではなく、裸の魂が現われ、熱い血潮が噴出すのは、そうした属性を剥ぎ取ってしまうような情況を指すのだということだ。己が心底、孤独の地獄に陥った時であっても、その無間の孤独と向き合う覚悟を持つものこそ、真の美人であるということになる。つらく悲しい情況に遭遇したら逃げてしまうパートナーでは、ただの飾り、単なる形式上のパートナーでしかない。
→ 裏庭のミカンの木。ミカンの実は、恐らくは鳥に食われたのだろう。まあ、いいさ。鳥餌果実として残しておいたのだから。
雨の日に傘を差して急ぎ足で去り行く女。細身に見えるけれど、夜目だし遠目だから目の錯覚で細身に見えるだけかもしれない。裾や足元などが濡れている。寒さと雨に身の震える淋しさをその人は覚えているのに違いない。
その、雨と闇とに没していくかの人の心が慄いているように見えるというのは、実は、その人を見つめる自分も、心が震えているからなのではないか。
そこには魂の共振がある…かのようなのだ。
(03/01/10)
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