あの日から…
心の塞ぎは、むしろ、頑なになる。それが人間って奴の悲しいところだ。
心がいびつに捻じ曲がっている。まるで岩塊に押しひしゃげられた雑草だ。緑色の透明な液体が、流れ出している。もしかした、春の息吹の中の、何処か鬱屈した気配というのは、このせいだったのだろうか。
思いっきり背伸びする。背伸びしてみたいと思う。
ところが、心が邪魔をする。心が膠みたいに体に粘りついて、伸びようとすればするほど、逆方向に引っ張られてしまう。
それとも、体が心を邪魔しているのだろうか。心が何物にも妨げられることなしに、太陽に向かって伸ばすその手を、故障を抱えた体が押し留めているのだろうか。
心と体が分けられるはずもないのに、互いに相手のせいにしている。
春の目覚め。春の予感。春の足音。春の祭り。葉裏を伝う露の雫を透かして見える命の息吹。体が疼く。恋の予感を叫んでいる。予感というより、むしろ、渇望している。
心が、体が、飢えているんだ。
心と体の全てが、己に絡む命の重さを欲している。全てを忘れて、命の体の全体を確かめようと望んでいる。橙色の焔の中で、肉となった心が吼えている。心となった肉が喚いている。心というエネルギーの塊こそが、肉であり、肉の情熱の発散こそが、心なのだ。
心とは伸び広がった肉体なのだ。肉体とは、心の塊そのものなのだ。 ああ、だとしたら、歪な心を持つ、あの人は、心を解き放つことも出来ないままに朽ち果てるしかないのだろうか。
捩れた体を持つ、あの人は、体を深い闇の底で腐らせていくしかないのだろうか。 きっと、それが、本当のことなのだ。
心と体が別だなんて、嘘っぱちなのだ。
命は、この世の至るところでその発露を求めている。岩の下で圧迫されていたって、岩を噛み砕いてでも、日の下に出ようとする。ちょうど、そのように、重い布団に呻吟するあの人は、窓の外の色付いた葉っぱを恋しているに違いない。他に道はない。たとえ、日に向かって手を差し伸べることが、刃の林立する地獄に素の腕を差し出すことに他ならないとしても、でも、他に道はないのだ。
命を削ってでも、幾重にも折り畳まれてしまって、もう、原形など留めていない心の根を伸ばそうとする。心の枝を張ろうとする。心の葉っぱを日に晒す。
岩の中に亀裂を生み、体を削りつつ、上へ上へと伸びようとする。腕の表皮が剥がれ落ちていく。そんなことなど、構ってはおれないのだ。きっと、剥がれた肉片だって、命の塊には違いないのだし。岩に垂れ、染み付いた血の雫だって、命の流れの果ての姿には違いないのだ。
心は、あらゆる方便を選ぶ。見かけがどうだろうと、構うことなどない。顔を歪めてでも、日の光を浴びたいのだ。世間という岩塊を炸裂させてでも、命の交合を夢みるのだ。
叡智。それは、きっと、懸命に生きるということ、ただ、それだけを意味しているのに違いない。今、あなたが疼いていれば、それこそが叡智の輝きを生きている証拠となるのだ。
[「>叡智 それとも 命の疼き」(02/03/04)より]
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