四面体の呪縛
ある雨の日だった。
霙(みぞれ)になっても不思議じゃない、冷たい雨。
傘を持つ手が悴(かじか)む。
傘をたたく雨の音は、まるで心を穿(うが)つようだ。
いくら晩秋で雨天だとはいえ、夕暮れ時には間があるというのに、辺りは薄暗い。
知らない町を歩いている。誰かを訪ねるために。
目印となる郵便ポストを見逃してしまったのかもしれない。
このままだと、人里を離れてしまいそうだ。
戻るべきか、それとも、もう少し歩いて、様子を見てみるか。
すると、塀越しに何やらでっかい樹木が垣間見えた。
何の木なのか、黒っぽい影からは見定めることができない。
塀の向こう側へ回ってみた。
立派だったはずの黒い板の塀は、見るも無残に朽ち果てている。
屋敷の跡なのだろうか、柱や壁の残骸が草茫々の更地に転がっている。
もしかしたら見上げるような大きな木も、屋敷のシンボルだったのかもしれない。
農家だったのか、土間らしき一角が見受けられた。
コンクリートの床面が薄闇の中、白々しく広がっている。
雑草にすっかり覆われた跡地の中、そこだけは頑固に逆らっている。
何に対して逆らっているのか。
朽ち果てることに? 疲弊することに?
とっくに罅割れて、ところどころから草が、木の頭が顔を覗かせていてもいいはずなのに、何を意地を張ることがあるというのか。
あの土間で…本当に土間なのか…家族の熱い営みがあった…のだろうか。
人の気配、人の匂い、踏み固められられた思い出の成れの果て。
なのに、土間は雑草を毛嫌いしている。
命を断固、拒否している。
浸潤する命の追っ手を遮ろうと、悪足掻きを続けている。
大地を、命を忌避しようとでもいうように。
夢の宴。
宴のあと、祭りのあと、篝火のくすぶり。
不意に小さな黒い影が土間を横切った。
猫?
それとも、死にきれない命?
吐き気を催すような孤独。
吐いて、吐いて、肺腑がもんどりうって、そうしてようやく埋められるやもしれない、蒼白の心。
視界を過(よぎ)ったのは、予感、それとも怯える心だったのかもしれない。
呼び出したのは、いったい誰だったのだろう。
道を誤った以上は、相手の正体も永遠に分からないに違いない。
そして、行方を失って、あてどなく彷徨って、そうしてくたばるに違いない。
自業自得なのだ。
三つ子の魂は百まで。
亀裂から生じた、歪(ゆが)んだ魂も百まで…命果てたあとまでも、歪みの筋を辿りつづけるに違いない。
黒い木の根元に立った。樹影が雨雲と宵闇とに紛れ、足元さえ、覚束ない。
頽(くずお)れていく体と心。
黒い塊の中に蕩けていきたいと思った。
それですべてが終わる…はずなのだ。
が、不意に固い感覚が足裏から伝わった。
土間…らしき白けた場に立っているのだった。
空っぽな時空。
蚤もダニも、綿埃も、肺胞を埋める微細な浮遊塵までもが濾し取られた、無味無臭の四次元空間。
まるで誰も訪れない病室のようだ。
気が付くと、土間は次第に折り畳まれていくようだった。
お土産をしっかり包む風呂敷のように。
自然を嫌悪し呪詛する、純白の時空になりきろうとしている…そう直感した。
孤独さえもが禁じられた、遊びのない四面体の呪縛の中で、息することさえ忘れて、茫漠の夢に駆られ続けるのに違いない、そう直感したのだ。
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