飛行機雲幻想
夕焼けを観たくて、慌てて家を飛び出した。
絶好のスポットで観るため、自転車を駆って。
のはずだったけど、折悪しく、雑用が重なる。
夕焼けの茜色が段々、薄れていくのが窓辺の様子でも分かる。
逸る気持ちと裏腹に、世事は俺を離さない。
夕焼けの赤に間に合わなかったけれど、夏の蒼穹よりもっと青い空が俺を待っていてくれた。
暮れなずむ末期の時特有の、濃い深い青色。
陽光の残滓が空で最後のダンスを披露している。
光の世界が闇の宇宙に呑み込まれる直前の、愛おしくてならない透明な瞬間。
夜の帳の降りる時を切り裂くように、飛行機雲が空に一閃する。
紺碧と藍と青の空に真っ直ぐの白線が引かれる。
宵闇の空いっぱいに渡された、純白の筋。
ありったけの洗濯物を干したくなるような長い長いピアノ線、それともぶら下がってみたくなるような、鏨(たがね)のように細く強靭な眩しい線。
天蓋から地上世界へ突き立てられた光の槍。
あまりに真っ直ぐ過ぎて、天に向かって地上から突き出されたようだ。
きっと、ぶら下がっていけば、この世の外へだって飛び出せる…
と、見る間に様子が一変し始めた。
張りつめていたはずの細い白線が、呆気なく姿を崩し始めたのだ。
布団の真綿、タンポポの綿毛、身に纏うジャケットのダウン、真冬の朝の吐息。
蕩けた白は、空の青に溶け、夜の雲に姿を変えた。
真っ白な雲だったはずが、何処か不吉な、筋だった黒雲に変貌してしまった。
いや、違う、違う。
あれは、あれこそは、真綿なのだ。
冷え切った体を暖める布団の綿となるのだ。
あの夜空いっぱいの綿を集めて、絹のシーツに丸め込んで、そして俺はその中に包まれて眠るのだ。
夕焼けの代わりに俺は、塒(ねぐら)にあり付けたのだ。
さあ、もう、帰ろう。
暖かき褥(しとね)が待っている。
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