秋宵一刻値千金
けれど、そうした生命の一切も、いつかしらはその物語の時の終焉を迎えるに違いない。何かの生物種が繁栄することはあっても、やがては他の何かの種に主役の座を譲る時が来る。その目まぐるしい変化。そうした変化に目を奪われてしまうけれど、そのドラマの全てを以ってしても、地上世界の全てには到底、なりえない。
夜の底、地上世界のグランブルーの海に深く身を沈めて、あの木々も、あそこを走り抜けた猫も、高い木の上で安らぐカラスも、ポツポツと明かりを漏らす団地の中の人も、そして我が身も、目には見えない微細な生物達も、いつかは姿を消し去ってしまう。
残るのは、溜め息すら忘れ去った物質粒子の安らぐ光景。
そう、きっと物質を物質だと思っているのは人間の勝手な決め付けに過ぎないのかもしれない。命の輝きだって、物質の変幻の賜物なのであり、命が絶えるとは、刹那の目覚めから永遠の安らぎの時への帰郷なのかもしれない。
それとも、命とは、物質の輝きそのものなのか。
遠い昔、この世に何があるかを問うてみたことがある。何かを分かりたくてならなかったから。
今はそんなことはしない。あること自体が秘蹟と感じるから。この世が幻であっても、その幻が幻として変幻すること自体が不可思議だと感じる。感じるだけで十分。命とは物質の刹那の戯れなのかもしれない。物質は命よりも豊かな夢を見る可能性を孕んでいるに違いないと思う。
自分という掛け替えのない存在という発想を持ったこともないわけではない。せめて、世界の全ての人がオンリーワンであるという意味合いの程度には自分もそうであってほしいと願っても見たことがある。
けれど、それも傲慢なのだと感じている。己がオンリーワンなのだとしたら、同じ権利を以って、地上世界の物質粒子の一粒一粒の全てがオンリーワンのはずなのだ。虫けらも踏み躙られる雑草も、摘み取られる花も、路上の吸殻も、壁の悪戯書きも、公園に忘れ去られた三輪車も、ゴミ箱に捨てられた雑誌も、天頂の月も星も、その全てがこの世の星であり光なのであり、つまりは物質の変容なのだ。
自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。
そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一旦でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。
虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。
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