落ち葉のコンチェルト
葉っぱを全身に纏った葉桜は、夜などに風に揺られているさまを見ると、ふと、洗い髪を風に任せている湯上りの女を連想したりする。そう、日の光を昼間のうちに存分に飲み干しつくた、宵の口からは水銀灯の光、月の光、星明り、時折のヘッドライト、公園を睥睨するかのように聳え立つマンションからの窓明かりを適宜に浴びて、風と灯火のシャワーを浴びている。
そんな人生の時の時を過ごして、さて秋も深まり、空気も乾き、冷たくなり、葉っぱは一気に萎れていく。
不思議なことに、葉桜は赤茶けたような色に変色する直前、葉っぱがこれでもかというほどに巨大化する。
それとも、五月の頃の葉桜の葉が数ヶ月の栄養摂取と消化吸収の歳月を通じて徐々に大きくなっていたことに、葉っぱの変色で気づいたに過ぎないのだろうか。
葉桜の葉は、枯れると一気に風に身を任せる。桜並木は道路沿いに居並ぶのが通例だから、数知れぬ車が行き過ぎる風圧にも呆気なく吹き千切られてしまう。ドライバーも自分が走らせる車の巻き起こす風が葉桜の葉を容赦なく叩き落していることなど、まるで気に掛けない。
葉っぱのほうだって、懸命に枝にしがみついていようという気など、これっぽっちもないようだ。もう、葉っぱとしての役目は終えたのだ。今更、何を未練がましく枝に、この世にへばりついている必要があろうか、そんな主張さえしない。
そんなにいさぎよく葉っぱが散っていったら、残された木や枝や幹は寒かろうに、という思いやりの欠片もない。
枯木立が残るばかりである。
ただ、落ちていく。飛んでいく。路上に舞う。舞った葉っぱを車がまた舞い上がらせ、フロントで叩き、ウインドーを滑らせ、大きな葉っぱが次第に引き千切れて粉微塵に砕け、路肩に吹き寄せられる。
そんな葉っぱの成れの果てたちも、翌朝まで路肩に露命を保つことなど、都会では、まずないと思っていい。
路上を清掃車が一晩中、走り回っていて、路肩の葉っぱの残骸どもを車窓から投げ捨てられた吸殻、空き缶、コンビニの袋、荷造りのゴム紐の切れっ端などと共に仲良く掃き清められていくからだ。
雪国なれば、ラッセル車が雪を掻いて走るように、晩秋から初冬は、都会では清掃車の大活躍する時なのである。
散って踏みにじられた枯れ葉の末路も哀れだが、枯木立も寒々しいと感じるのは、野暮な人間の勝手な思い入れに過ぎないのだろうか。
[拙稿「枯木立からケルト音楽を想う」(2005/12/03)より抜粋]
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