犬の目 猫の目
子供の頃、庭の隅っこで、あるいは学校の帰り道、雨の中、カタツムリをじっと眺めていたことはなかったろうか。雨蛙の賑やかな語らい、それとも合唱に聴き入ったことは? 蟻の長い行列をどこまでも辿っていったことは?
蝶々を追いかけて回ったことは? 犬や猫の表情や動きを眺めて飽きなかったこと…。
ただ、動物を眺めている、野蛮で下等なはずの動物の世界をただの好奇心で、見下すように観察していた…というより、気が付いたら、自分が何かの動物の世界に没入していたりして、ハッと我に還ったりする。
所詮は人間の想像の世界の中の思い入れに過ぎない。
けれど、動物も植物でさえも人間とは別種の世界、それも異質な世界の住人とは思い切れず、何処かに通底するような何かを感じずには居られない。
コオロギ等の昆虫の鳴き声に哀れを覚えたりする、それは日本人特有なのかどうか、それは分からない(このことは、別で書いたので略する)。
どんな動物であっても、人間の生まれ変わりではないかと思ったり、輪廻転生をそれなりの実感を以って想像してしまう性向。
数分子の臭いの元さえも犬の嗅覚は感じ取ってしまうという。
視覚の点では、猫にも人間にも劣る犬だが、こと、嗅覚となると超人的な能力を発揮する。
その犬の世界は、恐らくは人間にはどんなに想像力を駆使しても見えない、分からない世界なのだろう。
それこそ、赤外線や紫外線を比喩ではなく実際にありのままに見る能力のある昆虫類の世界が決して実感も想像もできないように。あるいは超音波を自ら発し且つ聞く能力のある蝙蝠の世界は、一体、いかなる世界なのだろう。その世界を想像力の限界に至るまで想像し尽くしてみようとしない田舎人はいないのじゃなかろうか。
真っ暗闇であっても、音だけで世界が見える。見えるだけじゃなく、飛び回るのだから、人がモノを明るい時には見えるような感じで的確に迅速に見分け判断し移動することができる。
犬に戻ると、路上の臭いが雨などで流されたりしていないかぎりは、数日前に歩いた靴の底の臭いの痕跡さえ、嗅ぎ分ける。曲がり角の先の臭いも、風向き次第だろうが、逸早く感じ取る。無数の臭いの痕跡の世界。人間が視力で1や2どころか10ほどの解像度と視覚能力を持って世界を見たとき、脳は流入する情報量の凄まじさに圧倒されるだろう。
が、生きることに慣れ親しむ中で、人間は見たいようにしか世界を見ることができなくなる。習ったようにしか世界が立ち現れてこなくなる。
見ているようで、見ていない。見たもののすべてをありのままに認識していたら、いかに人間の脳味噌が優れているからと言って、ほんの数日、世界を観察しただけでパニックになってしまうだろう。それほどに情報量は怒涛の洪水となって脳に襲い掛かっている。
ただ、生まれ育った中で形成された検閲機構などで目新しいものしか、目に入らなくなっているのだろう。
犬についても、数分子の臭いをも嗅ぎ分けるのだから、まともに臭いの痕跡を全て脳味噌に放り込んでいたら、あっという間にパニックになる。やはり、犬に必要な情報を選り分けていると思うしかない。目の前の誰かのお札が誰のものか、臭いで分かる。あれっ、このお札、何処かの家の箪笥から勝手に持ってきたんじゃないのって、人間の推理力と合わさったなら、一発で分かってしまうが、そんなことは犬の関心外であろう。
ご主人が遅い帰宅をした際、体や着衣、靴などに附着する微量の臭い成分を嗅いで、あ、ご主人ったら、また、あの娘のところで残業してきちゃったね、なんて、歴然と知れてしまう、はず。
だけど、そんなことも、ワンちゃんは関心外なのである。
臭いにおいての遠近・種別も適度にカットされて、必要な臭いだけに焦点が向くようになっている。
だからこそ、犬の飼い主にさえ恵まれれば、平安無事に暮らせるわけであろう。
その代わり、飼い主に恵まれず、自分が主人にならなければなくなった犬は、この世のありとあらゆる臭いを嗅ぎ分ける必要が生じてしまうのだろう。どんな微細な臭いも、どんな遠方から漂い来る匂いも、常に嗅覚的な意味で認識し敵か味方か、食べられるか食べてはいけないのかの判断が迫られる。
恐らくは、数日もしないうちにパニックになってしまう。犬の脳味噌は情報の洪水に溺れてしまうのだろう。
猫にしても、ペットとして可愛いと思うだけではなく、猫がどんな世界を生きているか、猫好きなら想像しないはずがないと思う。が、分かるようでいて、分からない。
翻って、人間も動物もその与えられた能力でしか世界を見ないし感じないし、生きられないのだとして、その能力が、何も突然、人間が他の動物の優れた嗅覚や視覚や聴覚などを持つ、ということでなくても、たとえば、生まれ育つ中で形成された枠組みが外されてしまったとしたら、世界はどのように見え感じられるのだろうか。
人間の環世界から流入する情報が全て剥き出しのままに、一切、整理もされず、情報量もコントロールされないで脳味噌を襲ったとしたら。
世界を生き生きと感じられる? 恐らくは、ドストエフスキーではないが、そのあまりの圧倒的な存在感や現実感の凄まじさに、一瞬をも堪えることが出来ず、パニックに陥ってしまうのだろう。
そんな一瞬をほんの断片でも描くことができたら、どんな世界が示されるのだろう。
ま、夏の夜の夢として、これ以上は深入りしないほうがいいのだろう。
「「夏の夢」は季語ではない」(2005/07/28)
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