オレではダメなのか
エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それと も絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを 持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前 にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸ってい るはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らさ れる。
快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太 平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を 伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り 着ける。
いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込ま れていく。波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵ま れて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とば かりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実 は海水であり、一層の喉の渇きという地獄が待っているのであ る。
どこまでも後退する極楽。どこまでも押し寄せる地獄。
地獄 と極楽とは背中合わせであり、しかも、ちっぽけな自分が感得 しえるのは、気のせいに過ぎないかと思われる悦楽の飛沫だ け。しかも、舐めたなら、渇きが促進されてしまい、悶え苦し むだけ。 何かの陥穽なのか。
何物かがこの自分を気まぐれな悪戯で嘲 笑っているのか。
そうなのかもしれないし、そうでないのかも しれない。しかし、一旦、悦楽の園の門を潜り抜けたなら、後 戻りは利かない。どこまでも、ひたすらに極楽という名の地獄 の、際限のない堂々巡りを死に至る絶望として味わいつづけ る。
明けることのない夜。目覚めることのない朝。睡魔は己を見 捨て、隣りの部屋の赤い寝巻きの女の吐息ばかりが、襖越しに 聞え、女の影が障子に悩ましく蠢く。かすかに見える白い足。 二本の足でいいはずなのに、すね毛のある足が間を割ってい る。
オレではないのか! オレではダメなのか。そう思って部 屋に飛び込むと、女が白い肌を晒してオレを手招きする。そう して…。
夜は永遠に明けない。人生は蕩尽しなければならない。我が 身は消尽しなければならない。そうでなければ、永劫、明けな い夜に耐えられない。身体を消費しなければならない。燃やし 尽くし、脳味噌を焼き焦がし、同時に世界が崩壊しなければな らない。
そう、我が身を徹底して破壊し、消尽し、蕩尽し、消費し尽 くして初めて、己は快楽と合体しえる。我が身がモノと化する ことによって、己は悦楽の園そのものになる。言葉を抹殺し、 原初の時が始まり、脳髄の彼方に血よりも赤い光源が煌き始め る。
宇宙の創始の時。あるいは終焉の祭り。
高校時代の終わりだったか、J・M・G・ル・クレジオの『物 質的恍惚』を読んだことがあった。小生には何が書いてある か、さっぱり分からなかった。 もしかしたら、このタイトルに魅了されていただけなのかも しれない。どんな詩よりも小生を詩的に啓発し瞑想を誘発して くれた。
その本の中に、「すべてはリズムである。美を理解するこ と、それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに 成功することである」という一節がある。
小生は、断固、誤読 したものだ。美とは死であり、自分固有のリズムを自然のリズ ムに一致させるには、そも、死しかありえないではないか、 と。
不毛と無意味との塊。それが我が人生なのだとしたら、消尽 と蕩尽以外にこの世に何があるだろうか。 そんなささやかな空想に一時期でも耽らせてくれたバタイユ に感謝なのである。
バタイユの<理論>を理論的に理解するのは、間違っている のではないか。
そう思うのも、バタイユの思考が直感的感性という、焼け切 れんばかりに殺気だった閉じた回路を際限もなく経巡っている ように思えるからである。
本書『宗教の理論』に描き綴られているのは、論理というよ り、蕩尽へ向けての誘惑の叫びのように感じられる。だからと いって、小生が、『宗教の理論』を読まなかったといえば、や はり言い訳になるのだろうが。
下記より抜粋:
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2005/12/post_55b4.html
| 固定リンク
「妄想的エッセイ」カテゴリの記事
- 昼行燈117「夏の終わりの雨」(2024.09.04)
- 昼行燈108「無音の木霊」(2024.08.02)
- 昼行燈105「月に吠える」(2024.07.24)
- 昼行燈104「赤茶けた障子紙」(2024.07.24)
- 昼行燈101「単細胞の海」(2024.07.19)
コメント