クラゲなす漂へる…
小生はクラゲが好きである。海にプカプカ浮いたり沈んだりする、あれである。
ところで、なぜ急にクラゲ談義かというと、土曜日の朝日新聞の夕刊に写真家の米谷昌子女史による「クラゲにくらくら」というエッセイが載っていて、興味を惹かれ、ついでに自分が何故クラゲが好きなのか、追求してみようと思い立ったのである。
→ 「オワンクラゲ」 (画像は、「クラゲ - Wikipedia」より)
でも、追求という言葉はきつ過ぎる。ちょっと、くらくらふらふら思いを巡らしてみようというだけのことだ。
クラゲというと、多くの方は夏の終わり頃の海で海水浴客などを刺す、あの小生意気なクラゲを思い浮かべるだろう。
小生も、ずっと、そうだった。
が、ある頃から、何故かクラゲが好きになった。この世に小生が生を受けてン十年になるが、クラゲが好きになってからは十年余りである。
ちょっと冷静になって思い返してみると、クラゲが好きになった時期は、会社の中で窓際族になったなと、ひしひしと感じ始めた頃と、なんとなく頃合的に符合する。ただの偶然かもしれないけれど。
でも、偶然とも言い切れない。なにか自分の中に、それとも自分の生き方や社会(会社)の中での立場の上で、息苦しさと閉塞感を覚えていた時期に、なんとなくクラゲに惹かれ始めてきたのだから。
同時に、恐らくは80年代の終わり頃、小生の読書のジャンルの中に古典めいた分野が加わったきたこともある。
以前から考古学や古代史(特にエジプトとか、メソポタミヤ文明とか、ウル文明とか)に関心はあったのだが、しかし、日本の古代史ということになると、あまり食指は動かなかったような気がする。
そんな小生が日本の古代史へ目を向けるようになった!
さて、古代史ということで、読み始めたのは『万葉集』であり『古事記』である。『日本書紀』には、どうしたものかあまり関心を持ちきれなかった。一応、岩波の古典全集の中で読んだり、岩波文庫の『日本書紀』(全五巻セット!)を所有しているが、なにか通り一遍の記述で、学術的価値は感じるものの、読んで面白いとは感じない。
が、それが『万葉集』や、特に『古事記』となると面白い。古典の素養などまるでない小生なのに、ついついその世界に引き込まれていったのである。
中でも『古事記』のほぼ冒頭にある、「天地が初めて起こる時 あめのみなかぬし ほか2神あり、国若く浮ける脂のごとくくらげの様に漂う時 うましあしかびひこぢの神 ほか あめのとこたちの神 がなりませ、このかみがみは”ことあまつかみ”(別天つ神)である。」には、痺れた。
この中でも、特に、「国稚(わか)く浮べる脂の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。」がお気に入り。
さらに絞ると、「国稚(わか)く浮べる脂の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて…」のくだりとなる。
「浮べる脂の如くして、くらげなすただよへる時…」実に、小生はクラゲを好きになったのは、この一節に出会ったが故なのだ、と思ったり。
自分を窮屈にさせているもの、自分を雁字搦めにしているもの、あるいは自分で一人相撲を取る形で勝手に桎梏を自分に架していた状況、そうしたものから自分を解き放ちたい、そんな切なる願いがあった。
それがクラゲへの関心に向いたのであり、また、『古事記』や『万葉集』などの日本の古典や考古学の文献に手を伸ばしたのも、自分で自分の首を締めているような閉塞感を打破するには、言葉の桎梏を外さなければならない、言語の根源に遡っていくことで、命の源になんとか触れてみたい、泉の水を体一杯に浴びてみたい、渇いた咽を清冽な水で潤してみたいと思ったから……なのかもしれない ……。
言語の根源へ、という関心は、ここでは場違いだし、小生の手に余るので、急いで回避しておく。既に若干は触れてもいるし。
クラゲを話題にするごとく、ふわふわと天然自然の流れに乗って、元の話題に戻ろう。
(中略)
冒頭に紹介した米谷女史も書いておられるように、「クラゲがぷかりぷかりと空中を漂うように泳ぐ無表情な姿は、いつ見ても不思議な気分にさせられる」のである。女史によると、「クラゲは体も半透明で、薄暗い水槽の中、常にゆらゆらしている。写真の被写体としては、ちょっと"くせもの"だ」というが、さもあらんである。
米谷女史の(クラゲについての)文は魅力的なので、全文を引用したくなるが、そうもいかないだろう。以下、断片的に引用しておく。
クラゲは感覚だけで生きている、という。何も考えない、感じているだけ。
シンプルすぎる内臓は、透けて丸見えだ。人間なら、透明な服を着て道を
歩いているようなものだろう。クラゲにはプライバシーなどないのだ。ク
ラゲには秘密もない。だから、クラゲは多分、嘘をつかない。
クラゲは粗食でプランクトンだけを食するとか、短い生涯をただ波に身をまかせて漂白する、彼らの自己主張は唯一、海水浴客にチクリ、とやるだけ? という一文のあと、次の文章が続く。
粗食に耐え、嘘をつかず、何も考えず、何ものにも逆らわず、ただ流れに
身を任せる感覚だけの生活。なんだかとても理想的な生き方に見えてくる。
ああ、できることなら、クラゲのように生きてみたい。(以下略)
ああ、小生も同感共感納得である。近年、クラゲがブームになっていて、自宅に水槽を設置し、クラゲを眺めるのが癒しであり息抜きになっているという。昨年だったか、ペット型ロボットという大袈裟なものではないが、人工のクラゲも話題になっていた。
小生がミズクラゲやオワンクラゲなどの形をしたクラゲが好きなのは、なんとなく一番、原始的だと感じるからだ。浮遊感、漂流感が正に漂ってくるからなのだ。
クラゲとして一番、典型的な形をしているミズクラゲは、水槽などに水をザーと注ぎ込む時の、水流の渦を巻く形に似ている。海などの中で水流が生じた時、その水流の形のままに集まってしまった細胞群がそのまま一個の生き物になったような、そんな気さえしてくるのだ。
← 「ミズクラゲ」 (画像は、「ミズクラゲ - Wikipedia」より)
クラゲを見ていると瞑想的になってしまう。頑なだった心がほぐれていくのが感じられる。渇いて罅割れていた大地にシルクの雨が降り、命の泉が復活するような気がする。
クラゲを扱う小文に堅苦しい結論など要らないだろう。ただ、ひたすらに波に身を任せればいい。無能な自分でも時には波に身を任せることができる、身を任せたなら世界との一体感のような幻想に浸ることが出来る、そう、感じられるということ、それだけでとりあえずは十分だろうし。
(02/10/27 作)
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