不可視へのモノローグ
不可視のはずの人の心のモノローグを息吹のままに、躊躇いと迷いと叶わぬ、だから見果てぬ希望への執念のままに形にする、その試み、営みのことではなかろうか。
ウルフは、ある時を、時の形を、その時の場面に登場する人々の息遣いを含めた全体を描こうと試みる。
自分(当人)の記憶の中には、その場面の光景が、瞬間的にかある持続性を以ってかは別にして、息衝いている。
が、それは、ある視点からの、その時点での限られた覗き穴からの眺めに過ぎない。
時間を経て省みるなら、そこには実は全く別の世界があったのだと分かる。
分かったような気になってしまう瞬間が訪れる。
この小説の末尾も、そのようにして描かれることで、円環が閉じられて終わるわけである。
何かがあって、世界は、過去と今とに分断される。
本来は(多分)、二つの世界は、繋がっている…はずである。
生まれて、生きて、何かがあって、何かが失われ、何かが刻まれ、そうして今があるはずなのだから。
だけど、世界は、それが自分の世界だというのに、繋がっていないと気づかされる。それも、痛切に!
何もあったわけではない。
いや、あったのかもしれない。
でも、自分のことなのに、自分でも何かこの身に起きたのか、しばしばわからないことがある。
忘れたいからなのか、忘れないと生きれないからなのか、忘れることでもって、生きることが可能となるからなのか。
美が叶ったと呼びたい瞬間があった。
確かにあった。
忌まわしいとしか言えない、拭い去り、消し去りたい過去がある。
上塗りしてでも、抉り去ってでも、なかったことにしたい過去がある。
その結果、己の世界を二つに引き裂くことになったとしても。
今ある自分は、命ある存在なのか、それとも生ける屍、亀裂のこちら側の世界で彷徨う形骸に過ぎないのか。
そうでなく、命を魂をわが身と我が心に賦活したいなら、此方と彼方を分ける断崖、闇の河を渡らないといけない。
ウルフにとって、その架橋の術は、縺れたメビウスの帯を解きほぐすことなのだろう。
輪はただ縺れているだけなのだろうか。本当に、繋がっているのだろうか。
メビウスの帯の一面を辿ったなら、本当に向こう側の世界に辿りつくのだろうか。
でも、ウルフは小説という危険で可能性のみに満ちた営みを続けることでしか、生きられなかったのだろう。
そもそもこの小説の題名である『灯台へ』そのものが意味深である。
あるいは、露骨なのかもしれない。
日本語の題名でも察せられるが、原題だと、『TO THE LIGHT HOUSE』。
字面だけで訳すと、「光の家へ」となる。
光へ!
ウルフは、光を見ることが出来たのだろうか。
光の下へ辿りつけたのだろうか。
そもそも、光あるほうへと、向かったのだろうか。
さて、この小説『灯台へ』を読んだ感想を綴るつもりはない。
改めてウルフ世界を堪能したとだけ書いておく。
ウルフの小説は、詩的だと言われることが多いようだ。
実際、ネットでも、ウルフの小説からの引用が目立つ。目立って多いほうだとまで言えるかどうか、分からないが。
しかし、詩的なのだろうか。
詩的ということで何を意味しているか次第だが、小生にはひたすら傷ましい描写が蜿蜒と続いているだけであり(決して否定的に評価しているわけじゃない)、その終わりのない文章の連なりは、出口のない地獄を彷徨している、その悲劇のドキュメントに感じられてならなかったとだけ、今は言える。
美しかったあの世界へ、ではなく、断ち切られ引き裂かれた、架橋不可能な彼方の世界への痛切な呻き。
[本稿は、「ウルフ『灯台へ』の周りをふらふらと」より抜粋。画像は、「ヴァージニア・ウルフ - Wikipedia」より]
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