天使の分け前
まず、材料の調達に結構な時間を要する。あちこちの店を巡って、ジャガイモも玉葱もニンジンも、キャペツも、ピーマンも、セロリに、トマトに…、とにかくありとあらゆる野菜を調達する。そう、そう、リンゴだって忘れちゃならない。果物のない食卓なんて、考えられない! ただ、紅玉は時期的に合わないのが残念である。
そして何より気を使うのが肉だ。狂牛病なんて、まるで気にしない。
それより、見た目のよさが何より優先だ。別に子どもがいるわけでもないし、子供が出来る見込みもない。自分たちだけが楽しめれば、後は何も言うことがない。そのうち病気の治療法も見つかるに違いない。案外、二人とも、その点は楽観的である。それとも無関心というべきなのか。
海の幸はタップリ用意する。それどころか、刺身だって豪華に盛ってある。
ワインは赤も白もある。種類も多い。
ワインと料理とを、その色合いも含めて、微妙に取り合わせを工夫する。だから、料理には気を使うのだ。どれかのワインを出すたびに、二人で侃侃諤諤の議論をして、じゃ、この料理が合うんじゃないのということになり、ワインの色や味や香りに見合う料理をしたり、時には出来合いのものだってテーブルに出す。
コロッケだって、ワインに合わないわけじゃない。
紅玉はなかったけど、代わりのリンゴで赤ワイン煮を作ったりもした。
夕方の5時から始まった二人の晩餐は、夜の10時前に、ようやく一息をついた。出るもの出るものを食べ尽くし、呑み尽くした。ローマの貴族のように、おなかが一杯になったら、吐いて、それからまた山のような料理に挑む…、なんてほどのバイタリティーはないけれど、この齢になっての旺盛な食欲には、誰もが驚くのだ。
音楽は、しっかり聴き込むことはできそうにないので、アルビノーニやヘンデルやパッヘルベルなどである。つまり、バロックがメインだ。
間違ってもショパンやモーツァルトやブラームス、ましてワーグナーは懸けない。食べている最中だから、演奏する人物には拘らない。できれば、一山幾らという安物のCDを聴くともなしに、流しておくのが無難なのだ。
二人とも、おなかがくちくなっていた。パーティは終わったのだ。
目の前にある、とっておきの赤がワイングラスに美しい。グラスの中のワインを灯りに透かしてみるのが、武治も澄子も大好きだった。特に食事の後のアンニュイな気分の時に、何となく眺める。
ただ、こうして眺める時に思い浮かべるものは、二人は全く違うのだった。
だから、二人は、凍りついたような沈黙に、途方に暮れているのだ。
武治には、カーテンもブラインドも開けられたままの窓の外の夜景だけが救いだった。林を切り拓いて作られた新興の団地に住む武治は、鬱蒼とした林に押し拉がれているような灯りが、好きだった。蛍が懸命に命を燃やしているような、魂が絶え入る刹那の煌きのような、遠い日の記憶の揺らめきのような、胸を掻き毟る切なさを覚えさせるのだった。
「ねえ、天使の分け前って、知ってる?」と澄子。
武治は、ホッとした。その話題に食いついた。澄子がまた、訳の分からない宗教談義を始めるのじゃないと、心配していたのだ。それに、記憶の河の底に澱のように渦巻く、あの白い体、艶かしいほどに全てを曝け出した由真の長いベロが、胃の腑から吐き出されそうになっていたのだ。
「知ってるさ。ウイスキーの、あれだろ。」
「あれって、何よ」
「だからさ、ウイスキーって、貯蔵庫の中の樽で熟成されるんで、その際、樽の中からウイスキーの揮発成分が蒸発させているんだよ。その蒸発した分が、天使への分け前ってわけさ」
「蒸発するだけなの」
「綺麗に言えば、樽の中のウイスキーは息をしてるんだ。つまり、外気を吸っているんだ。」
「でも、外気の中の何を吸ってるの? それに、蒸発するって、何が蒸発するの? 蒸発なんかさせたら、中身が減るんじゃない? 勿体無いってこと、ないの?」
「だからさ、息をしていることなんだよ。実のところ、メカニズムはよく分かってないらしいよ。ただ、息をすることによってウイスキーが、いい具合に熟成しているっていう現実というか実績があるから、蒸発してなくなる分を天使の分け前ってロマンチックな呼び方をするんじゃないかな。じゃなかったら、悪魔の上前とかピン撥ねとかって、碌な名前になってなかったはずさ。」
「ふーん、で、たくさん、天使さんは呑まれるの」
「ああ、そりゃ、天使さんは、ああした可愛い顔して、飲兵衛さ。話によると、十年も樽に寝ているうちに樽の中の4分の1は、呑まれちゃうっていうし」
「可愛い顔って、あんた、見たことあるみたいじゃない」
「いや、そういう噂だよ。ほら、西洋の絵画で天使が描かれてるの、見たことあるだろ。みんな、ちょっと体がピンクに染まってるじゃないか。あれは、酔っ払ってるって証拠さ」
「あの、やっぱり、天使の分け前ってウイスキーのことなの?」
「そうだよ。特に、天使の分け前って表現は、スコットランド辺りに発祥したらしいよ。エンジェルズ・シェアって原語では言うらしいし。つまり、スコッチウイスキーなんかについて、薀蓄を傾ける時に、この言葉が使われるようだけど。」「ワインにはないの」
「ワイン?! ありえないさ。だって、樽の中にウイスキーが貯蔵されて熟成を待つんだぜ。樽の中のウイスキーが呼吸をするっていう話なんだ。ワインは、だって、ワインボトルに入れられて貯蔵されるじゃないか。呼吸なんかしたら、困るじゃないか。大体、ボトルの中のワインが減ったという話は聞いたこと、ないよ」
「あのね、この前ね、オフィスの人たちと麻布でお食事したのよ。先週だったかな。ほら、朝帰りした日。その時ワインが出て、どういう話の流れだったか忘れたけど、店の人が『天使の分け前』っていうワインがあるって、話してたのよ。だから、ワインに詳しいあんたに、聞いてみたわけ」
「天使のワイン?! 要するに、そういう銘柄ってことじゃないのか。焼酎にも、そんな銘柄のがあったしな、そういや。うん、銘柄のことだよ」
「そうじゃないみたいなの。新しいワインを樽に詰めるでしょ。その時、樫の木にワインが少し、吸収されてなくなるんだって。それを指して天使の分け前って言うらしいのよ」
「なんだ、要するに吸収されるっていうだけだろ。樫の木に吸い込まれるってわけだ。ってことは、天使の分け前っていう銘柄のワインがあるわけでも、スコッチのように息をしていて、蒸発する分があって、それを指しているわけでもないんだ。ちょっと、スコッチに比べたら、ロマンチック度において劣るな。うん」
「ども、どっちにしても、呑めないのよね。幻のスコッチに幻のワインってわけだし」
武治は、ワインを醸造する際、最初に樽にワインを溜めて発酵させるという過程をスッカリ忘れていたことを澄子に気付かれなくて助かった思いだった。冷や汗さえ、掻いている。
(もしや、気付かれたかも…)
あの日、あの白い体から、何か蒸発したものがあるのだろうか。まさか天使が吸い込みもしないだろうし。
何かの文献で、確率からいくと、例えば孔子さんが吸ったり吐いたりした息の分子を、現代に生きる人間も、数分子くらいは呼吸するたび、必ず吸っていることになると読んだことがあった。
(ということは、俺もあの子の息をいつも、吸っていることになるのか…)
武治は、澄子と落ちるだろう夜の底を覗き込んでいた。その目も眩むような闇の海にも、天使に慰撫されることもなかっただろう、由真の魂が揺らいでいる。
そう考えると、澄子との救いようのない退屈が癒されるように思えるのだった。
(02/09/16 原作 ワイン画像は、「ワイン - Wikipedia」より)
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