涙の夜
今日は土曜日。
俺たちは、週末はあいつの部屋で過ごすことにしている。
ドアを開けて覗かせたあいつの顔を見て驚いた。
涙!
「お前、どうしたんだよ、涙なんて流して」
そう、問い掛けながら、何かまた、やったかなと頭の中がグルグルしている。
「ううん、なんでもない」
挨拶代わりのキスも許してくれない。
あいつは黙って俯いたまま、俺を置き去りにして奥のほうへ。
俺はためらいを感じたけれど、居間に向かった。
相変わらず顔を伏せながらだけど、手に何か持ってこっちへ戻ってくる。
チラッと盗み見たら、あいつは顔を顰めていた。
こんな時のあいつは怖い。
喧嘩はしょっちゅうだけど、あいつは怒るとすぐ顔に出すし、ともかく腹に溜めない。思いついたことは何でも口に出すのが奴の性分なのだ。
そしてそこが俺の好きなところでもある。
鈍感な俺には、何かあったら腹蔵なく喋ってくれるのが実にありがたいのだ。
それが…。
こんなふうに怒りの原因を何も言わない時は、怒り心頭に達している時なのだ。
それは、ちょうど、俺が可笑しすぎ笑いすぎて腹が捩れるくらいに笑いが頂点に達すると、笑い声が出て来なくなるようなものだ。
ヒーヒーという情ない掠れた音が出るだけになってしまう。俺は呂律が回らないほうなんだ。
今のあいつの顔は間違いなくそうだ。もう、俺に口を利くのもうんざりになっているのだ。部屋を飛び出さなかったのが、せめてもの慰めだ。
俺は怖かった。声をかけるべきだと分かっていた。こんな時こそ、男は勇気を出して何でもいい、労わりの一言を発するべきなのだ。それだけで事が解決するとは期待できないとしても、話の糸口くらいにはなる。二人の仲の接ぎ穂にはなるかもしれない。
でも、決心が付かない。喉がカラカラに渇いているのが分かる。
俺は立って、カーテンを開けて、ドップリと暮れた外の様子を伺った。
何を見るというのではない。ただ、何か、そう、気分を落ち着かせるためだ。
干からびてしまった喉から声が出そうにない。
だとしても、今、勇気を奮わないと、後が本当に怖いのだ。そんな惨めで救いようのない事態に、幾度、陥ったことか。過去の失敗に懲りているなら、俺のほうから折れて、謝るなり、何なりするしかないのだ。
すると、窓にあいつの姿が映った。俺に背を向けて何かしている。その手にギラリと光るものが握られていた。
刃物!
ええ ? ! そこまであいつは思い詰めていたのか。
俺は覚悟を決めた。何が何だか分からないけれど、でも、俺が惚れた女なのだ。あいつがそこまで俺を憎んでいるというなら、仕方がないじゃないか。あいつに刺されて死ぬなら、男として本望じゃないか…。
窓の外、遠くに駐車場が街灯に浮かんで見えた。
(そうだ、俺たちはあそこで初めてのキスを交わしたんだっけ)
車の中で喧嘩して、プリプリするあいつが、車から出るなり、振り向きざまに俺にキスを迫ってきたのだ。
後で、寝物語に、車中であの時、怒っていたのは、俺が全然モーションをかけなかったからだと奴が言っていたっけ。なんだ、そんなことだったのか!
それも遠い昔の、懐かしい思い出だ。この俺も女に惚れられる男になったんだ。それだけでも、生きた値打ちはあったというもんだ…。
「なあ、今からでも、やり直せないか…」
そう、言いかけた時、耳に心地いい音が聞こえてきた。トントン、トントン。
「えっ、何?」と、あいつ。目にゴーグルをしている。
見ると、あいつは玉葱を切っていた。
[思いっきり古典的なネタでスイマセン]
(02/07/03 原作)
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