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2011/05/29

ピンク色の傘

 何年ぶりだろうか。あの人の夢を見た。あの人が俺の枕元に現れたのだ。

 あれは何処なのだろうか。一度、二人で行ったことのあるような部屋にあの人は、横座りして、窓の外の風景を見るともなしに眺めていた。

 風があの人の洗い髪を嬲っている。浴衣の胸元が露になっている。足をゆっくりと崩すにつて、裾が乱れていく。
 俺の居ることをすっかり忘れているような…、それとも俺に全てを許しているような。

 一体、いつ、俺はあの人と山深い宿の一室で過ごしたのだったか。

 旅に出ようと誘ったのは、慶子のほうだった。
 高校の二年の秋の祭日だった。日を忘れたわけもないのに、苦しさのあまり忘れた振りを続けてきた。忘れられない一日。けれど、思い出せないあの日。
 当時としても田舎ならではと思えたボンネットバスに、俺たち二人は妙にはしゃいだものだった。でも、外観が新しいだけではなく内装も新しくて、観光用に仕立てられたバスだと気付くのに時間は掛からなかった。

(俺たちは乗合バスに乗ったんじゃなかったのか?!)
 まるで俺達の新婚旅行だ! などと俺は内心、ほくそえんでいた。しかも、乗客は俺たち二人だけ。秋特有の爽やかな高く青い空。

 しかし、のんびり気分はそこまでだった。一旦、バスが走り始めると、運転手は腕を自慢するかのように、峠の砂利道を疾走するのだ。車窓の直下に垂直に崖が迫る。道幅一杯を使って曲がるものだから、わざと後部に並んだ俺たちは思いっきり振られまくった。

 そのうちとうとう俺も慶子も吐き気を催してしまった。真っ青な空と紅葉の森とが交互に、織り成され絡まった帯のように脳裏を駆け巡り、俺たちを苦しめた。俺は懸命に吐き気を堪えていた。慶子も脂汗を流している。
 互いに遠慮なく吐き気のままに身を任せるような仲とは到底、呼べない。俺も慶子も何が何でも我慢するしかなかった。
 もう、景色も遠足気分も何も消え去っていた。もしかしたら慶子と何か間違いがという魂胆も出る幕があるはずがなかった。なんてこった。
(慶子、大丈夫か…)

 一度だけ、声を掛けたような気がする。後はもう無我夢中だった。車内のスチールのパイプにしがみついて、いつ着くかしれない何処かに一刻も早く着くことを願うばかりだった。
 なぜ、俺は運転手に(もっと丁寧に運転してください)と言えなかったのだろうと思う。
 それは、今にして思えば、遠のいていく意識の底で、俺は、運転手は俺たちに妬いているんだと思っていたからではないかと思う。

 いや、俺のほうが慶子より体力があるはずだから、何処かに着いたら俺が慶子を介抱することができる…、などと根拠のない思惑が働いていたような…。
 それとも、何故か二人して学生服姿だったから、運転手は脳裏にあらぬ想像を逞しくしていたのか。ああ、学生服!
 俺たちは、とことんクソ真面目だったのだ。

  そうして、やっと何処かに着いた。そこが目的地だとはとても思えなかった。けれど、運転手は終点だと言う。バスはすぐに折り返してしまった。
 仕方なく俺たちは降り立った。確かにバス停の時刻表が立っている。吐き気を堪えながら読むと、目的地の地名が書いてある。次にバスがやってくるのは、夕方の4時。6時間も先だ!
 俺は狐に抓まれたような気分だった。場末という表現も当たらない。目の前には小さなロータリーがあり、バスがタイヤを鳴らして転回し、来た道を戻っていくのだった。

 この世界に、本当に二人きりだ。あまりに自由すぎて、途方に暮れるようだった。
 小屋があった。それは店番のいない売店のようで、数少ない品物にはそれぞれ手書きの値段が記され、その前には竹篭が無造作に置いてある。小銭が少々放られている。しかし、置いてある品物は、見たことのないような果物や山菜や野菜ばかりだった。

 とにかく水が飲みたい。トイレは何処にある? 何か食べ物は? 休む場所は? 誰か居ないのか。
 売店の中のミカン箱やダンボール箱に俺たちは腰掛けた。水が見当たらないので、名前の知れないレモン色の果物を食った。値段がこれだけは何故か表示してない。二人で相談して、多めにということでラーメン代ほどを籠に投げ入れておいた。

 不思議なことに果物を食ってすぐに吐き気が解消した。記憶ではそんな印象が残っているのだが…。
 すると慶子が、
「あれ」
 と、指差した。
 ロータリーの端っこに、ペンキの剥げた看板が立っている。そこには、「○ △旅館」とあり、丁寧に矢印で方向を示してある。
 別に旅館に行くつもりはなかったはずだが、俺は慶子と、矢印に導かれるようにして峠の砂利道を歩き始めた。

 さすがにバスどころか、小型の乗用車だってギリギリの道だった。急斜面を抉るようにして崖に沿って続いていた。俺たちは黙って歩いた。喋る元気も出ないほどに、車酔いで体力を消耗していたのだろう。それとも、世界に二人きりということに緊張していたのかもしれない。
 考えてみると、看板には方向は示してあったが、どれほどの距離とは書いてなかったはずだ。
 でも、そんなことはどうでもよかった。慶子と二人。俺たち二人。細身の慶子が俺の傍を黙々と歩いている。それだけで十分ではないか!

 すると、不意に道が途切れていた。どうやか過日の台風で小さな崖崩れを起こしていたらしい。俺たちは途方に暮れた。少なくとも俺は、どうしたものかと思案していた。
 けれど、慶子は何も言わない。困ったとも感じているようには思えない。既にロータリーからは小一時間も歩いてしまったはずだ。後戻りするのも癪な距離だ。尤も、戻ろうと思えば戻れる距離でもある。

(慶子はどう考えているんだろう?)

 するとまた慶子が指差した。
 指の先を伺うと、岩や木切れに埋まってはいるが隧道が見えるのだった。人一人がやっと通れるくらいの、作業用の通路のように思えた。きっと、この辺りはちょっとした雨ですぐに崖が崩れる箇所なのだろう。
 隧道の中は薄暗かった。灯りが燈っているはずもない。コンクリートの柱で支えられていて、その柱の透き間から外光が何とか入り込んでいる。

 困ったことに、岩が剥き出しの天井から雨滴が頻りとポタポタ落ちてくるのだった。
 その時、俺には小さな衝撃が走った。
 傘!

 慶子がピンク色の折り畳み傘を差し出したのである。俺は、その時初めて慶子が女であると感じたような気がした。傘を持ってくるなんて発想は、俺の何処を叩いても出てくるはずがない。
 小さな傘だった。俺一人だって食み出しそうな傘だった。俺は慶子に被さるよう傘を差し掛けた。男として当たり前のつもりだった。

 が、慶子は、「私はいいわよ、俊介君、濡れちゃうわよ」などと驚くようなことを言ったのだ。なんていい女なんだ!
 俺は、感動していた。そして感動のあまり俺らしくない振る舞いに出た。普段の俺だったら決してしない行動だった。俺は慶子の肩を抱き寄せたのだ。ほんの一瞬、慶子は体を固くしたような気がしたが、すぐに俺に身を任せた。
 ああ、ついにこの日が来たのだ! 俺は感激に咽び泣く思いだった。

  悲しいかな記憶はここで途切れているのである。覚えているのは、隧道が呆気ないほどに短いものだったことだけだ。落胆もしたが、慶子の肩の感触のほうが強烈だったのも事実だ。あと、覚えいているのは、旅の宿に入ったことだが、予想もしない沛然たる驟雨の襲来に、軒先を借りただけのようにも思える。雨宿り…、だけ? 
 肝腎なことを何故、俺は覚えていないのか?

 あの日から、もう、何十年と経ってしまった。俺と慶子とは、交わることも絡むこともない運命だった。
 その慶子が夢枕に立ったのだ。

 俺は夢の余韻を追った。追えば追うほど、蜻蛉のように夢の形は崩れ去っていく。
 でも、追うしかなかった。あれ以来、俺なりに女との出会いもあった。女を追ったこともあるし、縁が切れなくて苦しい日々を過ごしたこともある。
 けれど、俺の心底惚れた女はあの慶子だけなのだと、この頃にしてつくづくと感じている。全てのものを失って初めて、あの日の慶子が眩しく映る。

 俺は今、道を見失っている。一月も寝込んだりして、気が弱くなっている。だから、手の届かない遠い日のあの人に救いを求めているのだろうか。

 そうかもしれない。俺が全てを失って、背負った、背負わされた、背負ったつもりでいる全てを放り出してみると、俺には何もないことが分かったのだ。
 あるのは、恋心だけ。峠の砂利道で慶子の肩を初めて抱いた、あの秋の日の高い、高い空の記憶だけなのだと分かったのだ。

 ああ、慶子よ! お前も俺に助けを求めているのか!

                           (02/10/12 原作「」 )

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